正しいもの

私は何か大事なものを書くとき、何か強いものを読んで自分の圧を上げてから一気に始めるようになった。学振のときに「文明の生態史観」でやってみたように、である。
現在は論文書きを控えている。これである。

カフカとの対話 (ちくま学芸文庫)

カフカとの対話 (ちくま学芸文庫)

抜き書く。

ヤノーホ「なにが正しいのですか」
カフカ祈りです。祈りと、芸術と、学問の研究と、これは姿こそちがえ、同じ坩堝から燃え上がる三つの焔にすぎないのです。人は、かりそめに与えられた個人的な意志の偶然性を踏み破り、自分の小さい自我の限界を超越しようとするのです」

祈りの言葉は、しかし、あまりに過酷、あまりに難解であるため、ずっとわかりやすい言葉が世に行われる。想いが届くことはない。「あたりまえですよ」と、俺の中でひとは言う、「わかりやすい言葉でなければ届くはずがありません」かつてはその言葉とは顔であった。脚であった。口であった。いまやそれは、懐*1である。いつの頃か、顔も脚も口も関係ないのだと気がつき、気にしなくなったが、それは、単に言葉が替わったというだけのことだとは思いが到らなかった。
私の眼は、哀しいことに、どうやら精度を確実に大幅に上げているらしい。今日も紙葉を積み重ねて作った巣の中で眠る。悪夢のほうが、私に優しい。かすかな痛みが全身に広がる。
疲労は決して報われることはない。日々その思いを新たにしている。それでもいつか何かがおきることを信じつつ実験に身を捧げるのは、やはり祈りに近くもある。
サントラ*2を聞きながら、心が複雑骨折していくのを感じる。

*1:要するに、お金が必要だということだ。

*2:マリオの劇の