たとえば生きる目的とか人生について

論理というものはこわいものです。
なぜかというと、何でも言えてしまうからです。「一度きりの人生だから」のあとには、「冒険をする」というのと「冒険しない」というのが等価に続くことができます。こんなのは、論理の諸元の直交性があらわれたものです。等価である以上それは判断基準とはなりえません。論理は価値を、導出できても、決定できません。判断にはつねに前提条件が必要です。いいかえると、前提条件によって判断が変わります。これが場合わけの思考です。
こういう修羅場があるにもかかわらず日々われわれが安穏として暮らすことができるのは、風が吹けば桶屋が儲かる式に論理が長びいて、前提条件から判断のあいだが隠蔽されるからです。隠蔽されると気にならなくなる、心情的にごまかされるからです。
生きる意味とかないです。そんな考えをしてしまうのは、やはり合理的な判断の結果、私がいつも虚無を感じてしまうからです。長引いて隠蔽された論理でも、イージーでありながらも折にふれてひととおりたどってしまうからです。それは典型的に不幸を私にもたらします。
たとえば、恋人がいなくてさびしくても、足を一歩踏み出せないのは、恋人がいたらうるさくてしかたがないことが、自他の観察からよくわかるからです。それが全部ではありませんが、一部では確実にあります。その点で、恋人がいる場合といない場合でのメリット・デメリットは直交しています。ちなみに、足を踏み出せない理由のほかの部分には、臆病も含まれます。
視点をすこしずらすと、論理を隠ぺいしたところにある思い込みみたいなものが幸福であるかもしれません。宗教団体のイキイキとして幸福そうなのを見ると思います。恋は盲目、というやつです。というより盲目が幸福です。盲目によって舞い上がることが幸福です。目を開いた瞬間イカロスは自分が地上へと墜落するのを見るでしょう。そうした状態が相対的に、不幸です。不幸だと感じてしまいます。
私のこうしたすべての文章はあくまで自分がたどれさえしないぐらい自分の論理を長く引き伸ばして隠蔽するためにあると考えることもできます。