格差を取り沙汰する現代日本人について

固定化する収入の格差がある。遺伝しているかのように見えるがもちろん遺伝などはしない。拡大している格差は必然的である。やりなおしがきかない。貧乏人の子は大学に行けない。貧乏人の子はロクな大学に行けない。金持ちの子がいい大学に往く。ああ、そうですか。もちろん全体的なざっくりとした話、であると? ああ、そうですか。もともとあったモノであるというのかそれが固定化しやすくなっているのか。近年の政策によるものなのか。団塊の爺い共がガッポリ持っていっているという話もある。それで30代が割を食っているという。
人は見えないものを話すことはできない。見えなければ話せない。見えるから話せる。話せるようになったモノは見えるようになったモノである。
見えるようになるとはなんぞや。注意が向くようになったとか。思えば、単細胞の藻類についての知識が得られたのも顕微鏡が発明され発達してこそのことだ。
近年の「格差問題」というものは、世の人が語り込んできたことの焼き直しなのか。それとも、21世紀の平成の世に全く新たな系統で出で産まれたものか。いま産まれたのならそれは新しい成因によるものか、それとも観察する目の変化か。
私はドッグイヤーということを思う。私はムーアの法則を思う。
格差は差異に由来する。差異は自然史的事実である。ゆえに格差も自然史的事実である。ひとはそれを上回る規則を定めることを禁止されていない。しかしその規則の実現可能性は明らかではない。