殺シ屋鬼司令II

読書と研究について書いてきました。最近は万年筆で書く快感にひたっています。当ブログでは、Amazonアフィリエイトに参加してリンクを貼っています。

無冠の……

なんとなくこのまま流れていくのではないか。
いつか恋人が私にもあるだろうかと漠然と思っていたが、もういまはそれも詮無いとわかってきた。できるときにでき、できないときにはできないだろう。その問いはやがて、もっとシンプルに、「寂しいなあー。」という、乾いた呆け声に変わってきた。ともかく、いつでも、なにか考えてはいるのである。
「いつかいいひとがみつかるよ☆」と他人からいわれても、へえへえと思う。その言葉は、責任の回避だ。もちろん、他人に責任など押し付けたくはないし、他人も勝手に責任を押し付けられてはたまらないだろう。たぶん二十年後、三十年後の私も、いまの私に同じように言うだろう。他人の言葉は聞き流しても、私は私自身の言葉は聞き捨てならない。私はそんな未来からの私を完顔阿骨打するだろう。いつか私の寂しさが消えるかどうかという問いに答える一方、いま私の寂しさを打ち消したいという願いには一顧だにしていないからだ。だから、私は、体にガタの来てしまった私を、充実した五体で、存分に打ち据えるのである。
昔、死ねたらどれだけさっぱりするかと思ったことがある。自殺念慮というよりは、逃避願望の最たる者で、それこそ、病死とか、事故死がいい。基本的にいまの私でもその思いは完全に消えたわけではない。確かに、精子卵子による卵生殖の進化を明らかにしたいと考えるし、私がいなくなったらプロジェクトは間違いなくストップするだろうし、仮に私の代わりに誰かがやるとしても、私ほどはうまくやらないだろうとさえ思うこともある。ただ、それは別の話だ。で、自分が死んで、誰か泣くのだろうかと寂しい気持ちの私が、あるとき思ったときに、続けて、ふと、思った。

「いや、誰かは泣くだろう、あいつとあいつとあいつとか。だが、俺が死んで泣くなら、なぜ俺が生きているときに泣かない? どうして俺が寂しくて心の中ででひそかに泣いているときにいっしょにいてくれない? ……ならば、いま、あいつらを泣かせてやる。俺が死んで泣くだろうことを、きっと悔やませてやる」

ひどい話である。こんなことを思うから、悪役キャラなどといわれるのだろう。だが、基本的には、その頃の私といまの私はあまり変わっていないのではないか。
もう少し書いてみる。踏み込んでみよう。おそらく、もてへん男たちに共通するように、私は面食いである。もっとずけずけ書いてみよう。とてつもない面食いである一方で、私は、自分を一生懸命よく見せようと奮闘する女性の努力を化粧や衣装に見とって、すなおに惚れる。逆に、……というのは書かないことにしよう。ただ、私だって化粧ということではないが、ちょっとうきうきしているときなどは、オードトワレをつけてみたり、ヒゲをあたってみたり、頭髪をきれいに剃るようにしているのである。
Sotte bosseをきいていて、ボサノバであると彼らが歌うリズムというのは、寂しさはありながらも明るく生きていたいという願いだろう。聞きながら、私の頭の中には、スタッフロールのような映像が浮かんでいる。私の友人たちが、そして私が好きだった女の子たちが、ある者はパートナーと、ある者はパートナーに加えてこどもたちと、ある者は友人どうしで、ある者はひとりで、カメラの方を向いて上半身をメトロノームのように左右に揺らしながら踊っている、そんな情景だ。私のイメージだからとうぜん最後は私で、猫背で本を読んでいる後ろ姿、そして、穏やかに微笑んでいる横顔である。