殺シ屋鬼司令II

読書と研究について書いてきました。最近は万年筆で書く快感にひたっています。当ブログでは、Amazonアフィリエイトに参加してリンクを貼っています。

怒りをしずめる

実家に帰ってきている。
これまでの私は、母親の頭の悪さに耐えかねて発狂・絶叫というのが常態化していた。和やかにしていても、何か「頭が悪い」と思うことに出くわすと突然ハートマン軍曹モードに突入、罵詈雑言の嵐を「クソババア」呼ばわりとともに浴びせかけてきた。ひどいときには、過去の事例を縷々述べたて、厚みを増したうえで仕掛ける。
どういう出来事かというと、いちいち思い出せない。たとえば、そうした不満というのは、母親からの電話はうざいから必要な時だけメールにしろとか、メールの文体が気持ち悪いとか、50にもなって絵文字はやめろ(文字化けしてる)とか、書店でつけてもらうブックカバーはいらないとか、そういった、とても些細なことである。書いていて自分が情けなくなってきた。
いくら情けなくても私が感じる怒りは本物であるし、どうでもよいことではない。私は私の感情をとても大切にしている。怒り、憎しみ、悲しみ、苦しみ、寂しさ、疚しさ、負の情動は、それ自身課題であるか、課題を解く糸口になってくれる。
母親とは別の人だが、メールの文章が混乱している人がいる。その人はもう何年も混乱した文章ばかり私に送り付けてくる。かつてはその人を文章が読めない人、書けない人と詰ったこともある。最近では私も穏やかになって「そうだねえ、そういうこともあるかもしれないねえ」と返答することにし、一方で、ウェブ上では、メールに立脚してレトリックについて考え、怒りを気づきとしてとらえ課題を探す。見敵必殺。
「感情を大切にする」というのをひとつの信条としてもつようになったのは、生物学を学び始めてからである。おそらくは、「生物から見た世界」のような文脈、つまり、いろいろなものが進化的な帰結であるということを知ってからである。もちろん、情念の全てが進化の産物だというのは早計だ。ただ、なにか感情の中に抵抗があるというのは、自分の価値判断、価値の体系の中で、「よくないもの」だと認識しているということである。これはその判断基準を意識するとしないとにかかわらない。もし無意識の基準に照らして怒りを感じたのなら、その怒りをきっかけに、無意識の基準を、掘り起こすことができる。「よくないもの」と認識したそのとき、次の二つの可能性がある。

  1. 自分がおかしい。
  2. 相手がおかしい。

もちろん、どちらもおかしいということはありうる。
さっき、起きぬけに鼻をかもうとして、ティッシュをボックスから引っ張り出そうとすると、ボックスティッシュがプラスチック製の堂々たるティッシュボックスにぎちぎちに入っていて、取れない。びりびりと破れた。一気に沸点に達して、ティッシュボックスをこじあけると、ボックスティッシュの下に、詰め物がしてあった。ティッシュボックスが、ボックスティッシュ箱のサイズとあっていないから、底上げしてあったのである。こんなつまらない「工夫」で使いにくくなるというのが許せなかった。まだ母親は起きてこない。ティッシュボックスをばらばらにしたまま放置し、起きてきたら発狂、絶叫してやろうという考えが浮かんだ。そこで私は思い直して、ポストイットに、自分の不満を書きたて、ティッシュボックスに貼り付け、テーブルの上に置いておいた。
そのあと、少し寒さを感じ、上着を出そうとタンスをあけようとすると、服がこれまたぎっちり詰まっていた。ここでも先ほどの方法を使った。

母親を邪険に扱うのは「邪険に扱っても許してもらえる」からであり、それはまさしく「母親への甘え」である。そういう男性と結婚し恋人から家族になったら、妻にも同じような「甘え」を要求してくるものだ。