殺シ屋鬼司令II

世界一物騒な題名の育児ブログです。読書と研究について書いてきました。このあいだまで万年筆で書く快感にひたっていました。当ブログでは、Amazonアフィリエイトに参加してリンクを貼っています。

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俺の思考の源流の小論文

高校2年生のとき、現代文教科書掲載の加藤尚武「世代間倫理としての環境倫理学」に寄せた小論文である。

これまで近代は、未来指向の保守主義と過去指向の進歩主義という二つの軸の対立からあらわれた、と読みとってよいと思う。さらに、進歩主義は、実はその環境的影響から、通時性をもちえない、ということが示されていると思う。即ち、共時性が弱い、実は未来さえ見ることができていない、と。
しかし、進歩主義は本当に、通時性をもちえないのであろうか。確かに、これまでの工業的発展、進歩は、未来への意識を欺瞞として含んできた。進歩主義に先導された近代工業社会によって、自然が本当に危ないというのも事実である。この加速度をもってすれば、この状況に環境が追いつくことになる以前にこの星は廃墟と化すであろう。しかし、その進歩主義との対立においてとらえられる保守主義というものは、実際にはこれまでの「暮らしの豊かさ」を破滅的に見るものであり、実はそれもまた欺瞞であって、人々には受け入れがたいものとしてみられてしまうと、私は考える。たとえば、画期的な空気清浄装置の開発であるとか、バイオテクノロジーの進歩による植物資源の量産、あるいはその類の、環境構造を維持しうるような「技術的進歩」においては、完全に「通時性」を持ちうる、と判断してよいのではないだろうか。文脈にはこの考えがない上に、この確かに進歩する「技術的進歩」と、実は同じところを堂々巡りしているに過ぎない「精神・思想的進歩」が混同されてしまっているように思う。私たちが未来に対してすべきことは、過去への回帰ではなく、未来に向けて現在の欺瞞を打破することであろう。環境の汚染が不可逆的かどうかは、まだやってみないとわからない。それぐらいの余地は、この星の破滅、あるいは人類の破滅までにはまだ残されていると信じてしまわなければ、未来に責任を負う意味が消えてしまうではないか。

ファイルの更新履歴には2000年1月18日と付いていた。懐かしい、玉崎先生の授業だ。玉崎先生は漢文学畑出で当時担任、他に中島敦山月記』も教えていただいた。
「……袁がふりかえってみると、トラが出てきて、月にむかって、がおー、と吠えるわけですね……」
その「がおー」が、いかにものどかで、いまでも覚えている。ふざける生徒を時々リアル叱る、そしてそれがリアル怖い、バランス感覚の素晴らしい先生であった。

授業中に課せられた小論文執筆

加藤を扱う授業の折のことだ。
「それでは、小論文を書いてもらいます。高校2年のあなたがたは、これから小論文を書かなくてはいけないひとたちもいるでしょう……」
そういって、先生は原稿用紙を配った。分量は400字か600字だったと思う。私がその時間内に書き上げた小論文が初稿となって、上の小論文を書いた。ここに掲載できないその初稿のほうが、実はキレがよかったのではないかという感触がある。が、手元にない以上、判別が付かない。提出した。
次の授業で一枚のコピーが配られた。えらく汚いコピーだ。汚くコピーされているのではなく元のマテリアルの字が汚い。
「字は汚いですけども……」配り終えた先生は言った。「……これはハマヂ(君)のもので、内容はとてもよいです」先生が生徒をどう呼ぶのかは今は忘れてしまった。
私の初稿のコピーであった。私の字はのちに、大学の講義を必死でノートしたり、ラブレターを書くようになるまで、常にたいそう下手であった。

先の小論文にフィードバックしたあとでの課題

先生はあらためて課題を出した。宿題として、800字で同じテーマで書いてくるようにと。そして、その結果は、回覧されたのか、全部配布されたのか、それともお互いに見せ合ったのであったか……忘れたが、他人の小論文も見せてもらった覚えがある。みんな判を押したように私のスジをなぞっていた。面映ゆかった。
ひそかに勘ぐっているのだが、初稿のとき、いくらか小論文の体裁を取っていたのは、……私だけだったのではないか。

どう源流になっているのか

私の頭の中を覗いたことのある人であれば気づいているかも知れないが、私の思考にとって「たて」と「よこ」というのはとても大事な意味を持っている。