殺シ屋鬼司令II

世界一物騒な題名の育児ブログです。読書と研究について書いてきました。このあいだまで万年筆で書く快感にひたっていました。当ブログでは、Amazonアフィリエイトに参加してリンクを貼っています。

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わが世代Our generation

私はこれまでに多くのすばらしい友人たちに恵まれてきた。
特に大学に入ってから知り合ったのは日本全国の選りすぐりだけあって、たしかに「財産」だと感じる。駒場時代はわからなかったけれど、専攻が分かれ、それぞれに専門性を身につけていくと、みな自分の志向に従って持ち味を出していった。この豊かな出会いに感謝している。
しかし、中でも自分の同い年が際立っているように感じる。けれど、ここで彼らの名をあげ立てていくことはしない。彼らのうちの幾人かは既に有名であるし、無名の者らはこれから有名になっていくだろうからだ。25歳というのはそういう節目でもある。
はてブTwitterを眺めていると、いろいろな「世代」があるものだ。それらのサービスに集うユーザの性質からしてそれは、多くはIT系の人のようである。76、81、86、91と、およそ5年単位になっているらしい。
ただ、世代というのは「ロスト・ジェネレーション」のように或る程度の幅を持っているものではなかったか。生年である人の性質が決定するということは考えにくいと思っていた。昔は「ひのえうま」のような非道い話があった。だから世代論なんていうのはほんとうにお茶請け話でしかないよと、言われてきたし、納得しても来た。
が、此処に至って少し考えが変わってしまった。「秋葉原血の日曜日」について書かれたブログを読んでいたからである。

最後にひとつ。あまり取り上げられていないことも。
一昔前に17歳の犯罪というのがマスコミにもてはやされた。
理由なき犯罪。「人が殺してみたかった」というやつ。
犯人は同世代で大きな影響を受けたんだと思う。
表現型は違っても踏み切る位置を見ると、同じ文脈で考えるべき犯罪で
その上に格差の問題が乗っかっているんだと感じる。
http://blog.m3.com/moromoro/20080611/1

「あまり取り上げられていないこと」なのかどうか私には判断が付かない。このエントリを書くに当たり、私自身それほど他のブログをサーベイしたわけではない。

昨日の白昼に起きた秋葉原通り魔事件の話。結局、重体だった方全員が亡くなられた。もしかしたら私だったかもしれない、通り魔に遭う可能性は誰にだってあり得る、と思うとやるせなくなる。
ustreamで一億総ジャーナリスト化が実現する話 - fragments of love

と、いまどきの高校三年生は感じるらしい。そうだ。被害者になる可能性は誰にでもあった。
私は犯人の年齢を聞いて以来、自分が犠牲者であった可能性よりも、自分が加害者であった可能性のほうがリアルに感じられる。もっとも、そんな実感以上に私のブログ名のほうが、やや物騒なのだが。

うまく言えない

私自身14歳の時に酒鬼薔薇がいたし17歳では豊川主婦殺しとネオ麦茶がいた*1。あと模倣版も何人か出ていた。模倣版は必ずしも同年ではなかった。だから過度に世代を強調するのはバカだと思っていた。それが此処に来て考えが変わったというのは、「リアリティ」以外に呼びようのない感覚の危険性に気が付いたからである。
DMC*2によると人間には二種類あるという。殺す側と殺される側だ。同い年が血に手を染めるということは、我が身を振りかえってみても、なかなか小さくない事件である。同情するというのではなく、「殺す側」に自分を当てはめて考えてしまう。一度は。一度が命取りとなる。スパイラルで自分を殺人世代であると刷り込んでしまう。ニュースが加速する。14歳、17歳と歳を述べ立てる。その一度一度のリアリティが蓄積される人間「も」いる。それはまるで、好きな女の子からの手紙を待ち、毎日確かめる空の郵便受によって確立されていく恋心のようなものであろう。
たぶん、「犯人は25歳」といったときに「酒鬼薔薇と同じだ」と気が付いた人もいれば、言われるまで気が付かなかった人もいるはずなのだ。
しかもこの世代の殺人はまったく「意味が分からない」。今回の血の日曜日にしても、格差社会と承認欲求とオタク=暴力趣味の3つの理由が独立別個に唱えられて百家争鳴である。そのいずれも「派遣の苦しさ」→「秋葉原でトラック無双」→イマココということを十全に説明できはしまい。
だいたい派遣が苦しくってどうしてトラック無双になるのか。苦しかったら苦しいなりに先にぶっ飛ばすところがあるかもしれない。工場とか。親会社本社とか。派遣会社の本社は秋葉原にあったそうだが、だったらトラックじゃないだろう。
「なんでそーなるのっ! いいかげんにせぃ!」
それでこの機械製造業の末梢派遣工が電気電子情報・コンテンツ産業の中心である秋葉を目指したのはさっぱり訳が分からない。挙げられるのは「ターゲットとしてやりたかったからやった」か、「ターゲットとして他に考えつかなかった」ぐらいだろう。ほのかにこれらの産業の現況を浮き彫りにしているような様子を感じる。人件費の面で既に外国へアウトソースされつつある機械製造業と、人員を食っても食っても足りないぐらいのIT産業(とその担い手が集う秋葉原)という素描だ。だが、それも飛躍がすぎるというものだろう。
理由の無さはわが世代のリアリティに「汎用性」を与えてしまう。誰でも使えてしまう。言い訳は存在しない。そこにただ「手段」だけが置かれている。リアリティは手段である。殺す筋道だけが刻み込まれ、殺さない理由は退潮していく。
というわけで、ここに私は「伝播された殺人のリアリティ」という説に寄る。
この文章は乱れきった自分の思考を正すために書いた。きょうは夕方から自分の思考が乱れて仕方がなかった。自分が知らぬ間に殺すリアリティを受けてしまっていることを指摘することで殺すリアリティを断つことができるのではないかと考えた。

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追記
ほぼ同時刻に同じことを書き込んでいる増田がいる。> あの秋葉原の殺人犯って、案外、フツーの人だね。

*1:もうちょっと言うと、小学校が平成元年度だったし、小学校の卒業間際に阪神大震災があり、直後の卒業式に地下鉄サリン事件があり、Windows 95が出てインターネットが広がった。大学一年の時に911があった。

*2:デトロイト・メタル・シティ