メディアはどういうメッセージなのか

高山宏の書評で知って、今年の5月ぐらいにこの本を読んだ。
難解とされるマクルーハンの核心をひじょうにコンパクトにまとめた好著だ。書籍の構成は大学の講義を模している。先ずマクルーハンの核心部であると言える小品「外心の呵責」The Agenbite of Outwit日本語初訳が冒頭に立っている*1。続いてこれをマクルーハンの他の著作も援用しつつ解読する。そしてマクルーハンの半生と他の著作で注目すべきトピック(「ホット・メディア/クール・メディア」等)の紹介を受けた後、最後に20世紀芸術家たちへの影響を通覧する。論旨は明晰かつ刺激的でありながら、高校生向けとも称される「理想の教室」シリーズの一冊として類い希なる平易さを維持している。希有な一冊である。精読マクルーハン - BLOG_inainabaに、目次が引用してある。
有り体に言ってしまえば、私自身はマクルーハンはこの本一冊読めば良いんじゃないか。他の本まで読み進まなくても、この一冊で全てとは言わないまでもあらかたの論点は把握できるのではないか。「メディアはマッサージである」というような魔術的なことば遊びに踊らされる人がいる。字面に囚われてしまっては何の意味もない。その他の人々はマクルーハンに興味がない。門外漢としてこれだけの事を知っていれば自分の発想の幅がずいぶん広がる。そう信じさせる本である。この夏は鷲田清一を2冊読んでいて、どちらも基本モティーフを踏まえて例示、例示、例示という文章スタイルだった。トフラーも若干もったいつけて書いて「これこれこういう本質的な変化が起きているけど、これは氷山の一角で。。。」というパターンが多かった。
マクルーハンが「煙に巻く」「難解だ」といわれる理由について本書では、マクルーハン本人もあまりよくわかってなくて直観的に書いてる、と指摘している。あと、広範なメディア研究は「学派」の仲間たちとの共同執筆だったようだ。様々なトピックは仲間たちから輸入しながら、自分の著作では過剰に詩的精神を評論にぶち込んでしまったわけだろう。
読む方では、半ば詩として書かれた……レトリックという贅肉をたっぷり身に纏った文章から、概念という筋肉と論理という骨を取り出してやる必要がある。私が本書を通じて暴くことにしたのは、「メディアはメッセージである」というマクルーハンの最も有名な文句の内実だ。それは当然のことながらマクルーハンの他の著作を読むことで強化或いは棄却されるだろう。しかしこの本を読んだという時点での結論として掴んでおきたい。

"The medium is the message."に引き続く訳文の検討

この最も有名な文句は、「メディアの理解」という本に登場する。手元にアンソロジー「エッセンシャル・マクルーハン」という本があって、この文句を含んだ一節も収載されている。*2前後を見てみるのだけどハッキリ言ってよくわからない。ただ「マクルーハンの光景」では噛んで含めるように書いてあるので助かる。というのは、"The medium is the message."に続く以下の部分が説明になっているというのである。

これは次のように述べているにすぎない。どんなメディア(つまり私たち自身の拡張)の場合でも、それが個人と社会とに及ぼす影響は、私たち自身の個々の拡張(つまり新しいテクノロジー)によって私たちの状況に導入される新しいスケールから生じているのだ、と。
1. This is merely to say that 2. the personal and social consequences 3. of any medium --- that is, of any extension of ourselves --- 4. result from the new scale 5. that is introduced into our affairs 6. by each extension of ourselves, or by any new technology.

やっぱりよくわからない。ちょっと文析してみよう。

  1. これは次のように述べているにすぎない。
    • 1. This is merely to say that
  2. どんなメディア(つまり私たち自身の拡張)の場合でも、
    • 3. of any medium --- that is, of any extension of ourselves ---
  3. それが個人と社会とに及ぼす影響は、
    • 2. the personal and social consequences
  4. 私たち自身の個々の拡張(つまり新しいテクノロジー)によって
    • 6. by each extension of ourselves, or by any new technology
  5. 私たちの状況に導入される
    • 5. that is introduced into our affairs
  6. 新しいスケールから生じているのだ、と。
    • 4. result from the new scale.

これは私にとってわかりにくい文章だった。それで訳し直してみる。scaleスケールというのは「尺度」にしたほうがいいのではないか。何の尺度かというと、おそらく価値基準とか、価値判断の尺度ということだと思う。他の可能性としては、五感の比率が変わるという言い方をマクルーハンはする。この比率、技術によって変更を受けた感覚の重み付けという意味を含んでいるのかもしれない。少なくとも「スケール」という曖昧なコトバにしておくのは危険だ。 introduceというのも、「導入」よりは「もたらす」ぐらいじゃなかろうか。

  1. This is merely to say that
    • これは何を言っているかというと
  2. the personal and social consequences of any medium --- that is, of any extension of ourselves ---
    • 個人と社会はどんなメディア、つまり自分たちの拡張からも影響を受ける。
  3. result from the new scale that is introduced into our affairs by each extension of ourselves, or by any new technology.
    • その我々の拡張それぞれ、つまりどんな新技術によっても、私たちの情勢へ(価値)尺度が新しくもたらされるためだ。

これ(The medium is the message.)は何を言っているか。個人と社会はどんなメディア、つまり自分たちの拡張からも影響を受ける。われわれの拡張のそれぞれ、つまりどんな新技術によっても、私たちの状況へ(価値)尺度が新しくもたらされるためだ。

単語としてはaffairsが難しい。英語では非常に頻出する単語である。そして、単語は頻出すればするほど外国人には難しくなる。「状況」という語では茫漠としていすぎるけれど、かといって適切な語が思いつかない。だから私もとりあえず、「自分からみえている状況」→「自分の感覚が作り上げている世界観」というように考えている。
「外心の呵責」とその解説の章で論じられていたのはまさにそういうことだ。つまり、技術革新によって出てきた、車輪からテレビまで、なんらかの人間の肉体の変化・拡張だった。車輪は足の拡張であり、電子メディアは中枢神経系の拡張だというのだ。この拡張によって世界観が変容する。
この再検討した訳文が"The medium is the message."と整合するか。噛み砕けない部分があるとすればどこか。

「メッセージ」概念の再定式化

新技術が登場すると世界の見え方が変わる、ということを言っている。ベタに"The medium is the message." を読み下すとすると、メッセージmessageという概念の定義を掴みなおさなければいけなかった。この一文、なかなか手ごわい。障害は少なくない。
第一の関門は比較的容易にクリアできる。本文で触れられているように、"The medium is the message."の日本語訳の問題だ。これは、従来型の訳文「メディアはメッセージである」を棄却し、新たな訳文「メディアこそがメッセージである」を採用せよという主張である。これはすんなり首肯しても問題はなさそうだ。
その次、二番目の関門が私としては厄介だった。メディアがメッセージなのだと。それはわかった。では、そもそもメッセージとは何ぞや。この点、本文では少し縄(=説明)がゆるくなって、獲物(=概念)を捕り逃がしてしまっている気がする。あるいは、わざとぼかして書いている風もある。おそらく、わかるひとには自明のことなのだ。私にはわからなかった。
マクルーハンの光景」本文の解説では、シャノン=ウィーバー・モデルを「メッセージ」の通俗的な解釈として見立てつつマクルーハン的観点から批判して「メッセージ」の解説としている。1. メッセージには、既にある意味を運用するだけではなく、新たに意味を創出する機能がある。2. メッセージは線的なものではない、少なくともメディアをメッセージと考えると、誰からのメッセージか定式化できない。。。のだそうだ。しかしこれらの批判はどうもおさまりがわるい。*3だから自分で検討しなおすまでのことだ。
メッセージとは何か。留守番電話で。「発信音のあとに メッセージを 録音してください」というイメージが沸く。昼食から戻ってくるとデスクにポストイットで「奥様よりお電話 至急 12:42」など貼られていることもあろう。こうしたイメージは確かにありつつも、論理的/概念的にこれを把握しなおすと、何なのか。おそらく、一つの機能として、メッセージは受信者の状態を変化させる。「発射ボタンを押せ」など、運動も広義では状態変化だといえるだろう。
さしあたり、「受信者の状態が変化する」というのを図式化してみる。
A\longr^{\mu}A'
どこか*4から到来したメッセージμにより、受信者の状態 A が A' へと変化する。
提示される荒井由美の「やさしさに包まれたなら」に出てくる「メッセージ」というのは事例としてすばらしい。つまり、朝起きて窓を開けてみて自分の状態が少し、変わる。これを「メッセージ」と呼ぶのだから妥当だ。
だとすると、「メディア」というメッセージが変える「受信者」は、個人と考えていいのか。たぶん違う。個人の知識内容は新たなメディアの導入で変わるのではない。その前にワンクッションある。メディアが変える受信者はおそらく個人の集合体=社会である。社会がメッセージを受信して変化する。というか、社会がメディアの到来によって変化させられるということは、メディアは(社会にとっての)メッセージに他ならない、という解釈である。というより、「受信者は社会」という解釈のために私はメッセージ概念を「状態変化」として言い直したにすぎないのだが。
「受信者」を社会として置けば、先ほどいったんマスクしておいた「送信者」について、朧気ながらイメージすることが可能になる。メッセージはメディアだ。マクルーハンは新しいメディアを新しいテクノロジーと同義で使うことがある。ここにカラクリが隠れているのではなかろうか。つまり、確かにマクルーハンとしては、私みたいに送信者にかかずらったりしなかったのだから、(社会にとっての)メッセージ=メディア=テクノロジーだったであろうが、私は敢えて送信者・メッセージ・受信者という三項関係にしたから、メディアとテクノロジーを切り分けてみる。メッセージはメディアでよいとして、(社会へのメッセージの)送信者はテクノロジーそれ自身、という解釈になってくる。
この辺はもうコトバに振り回されているにすぎないから、「メディアがメッセージである」については一旦〆めておく。

電子メディアによる再部族化

マクルーハンの光景」内では、ITへの言及は注意深く避けられている。これは非常に賢明な判断だ。マクルーハンはウェブを中心としたIT時代には生きていない。その一方で語るべき事象は、つまり語りたくなる誘惑は山ほどころがっている。そんなのを全部扱っていくと、論点が散漫になる。だいいち、「理想の教室」という魅惑的なシリーズの最大のウリであるコンパクトさを損なうことになる。勘弁してほしい。
私はその誘惑に抗しきれずここでは語ってみたい……はてな「村」という現象を。
電子メディア(マクルーハンにとってはテレビとラジオ)は、活字文明によって脱部族化された人間集団を再部族化する。

ところが電子メディアは集団的形式である。文字文化以後の人間が利用する電子メディアは、世界を収縮させ、一個の部族すなわち村にする。そこはあらゆることがあらゆる人に同時に起こる場所である。あらゆることは起こった瞬間にあらゆる人がそれを知り、それゆえそこに参加する。
「外心の呵責」p.13

これが「地球村」の概要である。地球村の特徴はこう要約されている(p.124)。

  1. 同時多発性
  2. 混迷の世界
  3. 過渡期

「光景」本文最終章ではマクルーハンが提唱した「地球村」という概念について、様々な芸術家によるマクルーハン受容の履歴とともに知ることができる。芸術家たちの中には「地球村」を理想郷と信じた人はいたけれど、マクルーハン自身は「地球村」を調和のとれた状態と見ていなかった。*5
さて、こうしてマクルーハンが素描した村がどうしてもネットの世界、有り体に言えばはてな村にダブる。ホッテントリにあがったエントリはあっという間に 500ブクマを獲得したりする。それがしばらくあちこちで話題になる。そして、混迷。誰が何を言っているのかが概括できない。概括しようとすると「リソースを割いて考え続けなければいけないのにそんなのは怠惰だ!」という声が挙がる。どうしようもない、混迷だ。一時の話題はすぐに去り、その話題は姿を変えまた登場する。
「光景」p.122をまるまる1ページ紹介したいぐらいだ。

村の条件が整えば整うほど、断絶や分裂や相違点が増します。地球村ではあらゆる点において最大限の不調和を確実にもたらします。統一感や安定感が地球村の特性だなどと思ったことは一度もありません。悪意や嫉妬が増えます。人々のあいだから空間と時間が抜き去られてしまう。人々がいつも深いところで出会う世界なのです。[......]部族的な地球村は、いかなるナショナリズムと比べても、はるかに分裂的です。紛争に満ちています。村の本質は分裂(fission)であって、融合(fusion)ではない。[......]地球村は理想的な平和や調和を見出すための場所ではない。その正反対です。

あるいはその十一年後、七七年のインタヴューでこう述べています---「部族的な人々の場合、彼らの主たるスポーツは互いを殺し合うことです。彼らの社会ではそれを年がら年中行なっている。[......]人間同士が近づけば、残虐度は増し、互いに対する忍耐が減ります。[......]村人たちはそんなに愛し合うものではない。地球村は非常にきびしい共有領域であり、不愉快な状況です」。そんなわけで、マクルーハンが「理想郷」を「予言」していた、と断ずるのは二重の誤り、ということになります。

そうした混迷の状況の中で少なくともマクルーハンが理想化していたのは「芸術家」という存在だった。「メディア論」からの孫引きになる。

芸術家とは、自然科学であれ、人文科学であれ、分野を問わず、自分の行動と同時代の新しい知識とを把握する人間である。彼は統合的な意識の持ち主である。
(「光景」p.153)

で本文では要するに「マクルーハンも芸術家だった」となる。芸術家こそが混迷の状況に新しい光を注ぐ、と。人間の文化・文明の価値を正当に評価し、穴を見つけて、そこに自分なりに「価値」を付加することのできる人間である。
「外心の呵責」の後半部でマクルーハンは、電子メディアの導入による未来をこうも描いている。

未来の人間は働かない。オートメーションが代わりに働くからだ。しかし、画家や思想家や詩人のように、そこに全面的に関与するのである。人間が職業を持つのは、部分的に関与しているときだけである。完全に関与したとき、彼は遊びや余暇を過ごすことになる。
p.15

そうするとどうなるか。これにはマクルーハンとの交流を通じて自分なりに芸術の未来を構想した音楽家グレン・グールドの意見が参考になる。「光景」本文で宮澤が纏めているので引用する。

録音芸術においては、「作曲家ー演奏家ー聴衆」の役割分担が崩れ、それまで聴くばかりであった末端の聴衆が録音の編集プロセスに関与し、「参加度」を高めていくと。……また「参加度」が高まると、聴衆のすべてが芸術家となり、生活と芸術の区別が消えるのであって、芸術行為は専門の職業としての意義を失う。そう主張しました(「録音の将来」の末尾)。
p.129

これなどはCGM、消費者が生産する場を知る現代のネットのわれわれにはイメージしやすい。ブログやYouTubeニコニコ動画のことをイメージできてしまう。それが妥当かどうかはわからないが。この想像に関連して「エッセンシャル・マクルーハン」から一文引いて、本エントリを終わりにしよう。「外心の呵責」では、電子メディア以前の技術がすべて「物理的に働く肉体の外的な器官」の拡張であり、電信に始まるテレビやラジオという電子メディアは「中枢神経系」の拡張だという。その上での話だ。

それが何であれ、次のメディアは意識の拡張かもしれない。テレビを環境としてではなく、その構成要素として内包し、テレビを芸術形態に変容してしまうだろう。 一九六七年

*1:最近「外心の呵責 要約」というキーワードで検索してこのブログに来る人が散見される。レポートを出された大学生かな。外心の呵責がマクルーハンの思考を要約しているのに、さっさと本を買って読めばいい。

*2:ちなみにこの「エッセンシャル・マクルーハン」は英語版として元にあるらしく、日本語版は英語版の一部しか訳出されていないうえに翻訳を読んでもサッパリわからない。英語版の方が良さそうである。

*3:しかも微妙にシャノン・ウィーバーモデルとも違っている。ノイズや符号化の話が入ってきたり、内語とか外語ということが出てくる。そこに捕らわれすぎると躓くと思う。

*4:当然それは身近な誰かでもあるし、荒井由美の唄うように朝かもしれないし、遠い星かもしれない。

*5:もっとも、私の信奉する意見では安定的に「調和のとれた状態」というのは共産主義全体主義である。つまり私有財産は一切取り上げられる。親子の関係は一切剥奪される。血縁によるリソースの再配分は一切行われず、みな奴隷のように働くことになる。産児数は制限されて適正な数に抑えられる。男も女もただ労働し子供を産むための機械となる。これが「平和」で「平等」で「安定」な世界だという認識を私は受け入れている。自由は一切無い。多くの人たちが求める状況というのは「原理的には」これしかない。静的な論理の中ではこれが「正しい」。しかしそんな世界は俺は動的には嫌だ。勘弁してくれ。うんこ召し上がれ。