できそこないの福岡伸一/It's only a Y-talk.

人間社会の根底でもあり煩悩の根源でもある、男と女。
われわれ自身がこの問題をめぐって個人的に費やす時間は、人生の少なくない割合を占めている。その度合いと反映してか、雌雄を決する遺伝子の研究における競争もまた、熾烈であった。本書は当代随一の分子生物学啓蒙家である福岡伸一が、女(雌)と男(雄)のあいだに引かれた細く赤い線をめぐる研究者たちの攻防と、現在までに得られている生物学的知識を、イメージゆたかに説き起こした光文社新書である。
生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)」が分子生物学の根幹をコンパクトにまとめたものだとすれば、「できそこないの男たち」は、ひとつ上のレベルである細胞生物学から発生生物学あたりまでをカバーし、両者のすみわけができているようだ。

「生命とは動的平衡である」とはどういうことか

「できそこないの男たち」に突っ込む前に、福岡伸一の手口をおさらいしておこう。
生物と無生物のあいだ」といえば「生命とは動的平衡である」というテーゼが読者の頭に残るようだ。無理もない。中盤から何度も何度も繰り返し出てくる。最終章、ノックマウスアウトの実験が失敗した理由も動的平衡ゆえであって、この現象を捉えきれない分子生物学は重大な問題をはらんでいる、と自分を正当化している。ただし私は、いくらかの読者たちとは異なり、この動的平衡のテーゼにはあまり内容がないと思っている。
「生命とは動的平衡である」というのは「生物現象を物理化学の対象として解析する」というのと同じだ。それ以前は、博物学natural historyであり、幾何学geometryであり、算術arithmeticであった。標本を作り、解剖して、スケッチして、サイズを測って、図鑑を描く。種を撒き、受粉させ、実った種を選り分けて数えた。20世紀になって、シュレーディンガー生命とは何か―物理的にみた生細胞 (岩波文庫)」の影響もあり、生物化学または生物物理学が、分子生物学として急激に変態しはじめた。
ここには私自身のちょっとした偏見がある。私は、化学において一番重要なのは周期表ではなく反応速度とその平衡であることが今頃になってだんだんわかってきた。
A + B ←k→ AB
「そんなことはない」とも「そんな当たり前のことは知っている」とも言うのかもしれないが、少なくとも高校卒業までの私は知らなかった。高校であまり化学に力を入れなかったせいでもある。ともかく、化学の反応は大なり小なり平衡状態にある。平衡は一般に動的である。まるで「猫背の背中の背筋が筋肉痛で痛い」と言っているようなものだ。そして化学者の視点を生物学に持ち込んだのだから、分子生物学において「生命は動的平衡である」というのは「何をいまさら。」というべき当然のテーゼである。当たり前すぎるので誰もこれまで言わなかったのを、鬼の首を取ったかのように言い立てるのは滑稽である。
いま私は、「生命は動的平衡である」というテーゼが空疎であると言った。しかし、そのテーゼ自身が「生物を物理化学的に解析する」と同義であるとはいえ、啓蒙的な意義は充分にあったといえる。第一に、読者の中でイメージがわく。ああ、私たちのからだのなかで、絶えず分子が出たり入ったりしているのね。ゆくかはのみづはたへずして、またもとのながれにあらず。そしてこのイメージを読者に植え付ける能力でこそ、福岡伸一が他のライターたちと一線を画している。
「できそこないの男たち」とほぼ同時に出版された集英社新書の「雌と雄のある世界」はタイトルをご覧になれば分かるように、「できそこないの男たち」と同じテーマを扱っているように見える。いま「雌と雄のある世界」を読み始めていて、列挙された事実の密度に驚くとともに、ウケはあまりよくないのではないかと危惧する。まるで生物の教科書のようだ。専門用語の定義は一通りしているものの、あまりにもハイスピードで記述されていき、無味乾燥である。引用文献も巻末に明示されていてすばらしく、こちらも是非多くの方にあわせて読んでいただければ生物学徒としてもうれしいのだが、正直に言って難しいと思う。
雌と雄のある世界 (集英社新書)

図解・できそこないの男たち

さて、そろそろ「できそこないの男たち」を紹介しよう。ただ、少し錯綜しているので、私なりに流れを図解にまとめてみた。

章番号を追ってもらうとわかるように、ちょっと蛇行して配置した。それは、本書の各章の性格を分けたかったからである。
図の左に寄せてある各章のうちプロローグ、第3-4章、第10章は、米国コロラド州カッパーマウンテンで持たれた1988年の会議に著者自身が出ていて聞いたことが枕になっている。第10章は性決定とは違うし、かなりムリヤリに思えるのだけれど、それについては後ほど触れる。それに加えて、著者福岡自身の経験で口火を切っているという意味ではエピローグも同様である。
一方、雄の悲哀ともいうべき各章を図の右に寄せてみた。第2章は性染色体だが、オスの性染色体(猥染色体)はX染色体に比べて小さい(という悲哀)。第6章では男児ミュラー管は第7週目の胎児までは存在しているのに何にもならなくてただ閉じられる(という悲哀)。第8章では男性の寿命は短くて死にやすく、男というのはもろい(という悲哀)。第11章では男は女に貢ぐだけの存在である(という悲哀)。
そんなこんなを四角と矢印で示してある。

なぜ、登場する女性はファーストネームで、男性はファミリーネームで呼ばれるのか

各章でそれぞれおおきく取り上げられる研究者の中に、女性研究者が二人いる。ネッティー・マリア・スティーブンズ(第2章)とヴィジャク・マダービ(第10章)である。彼女たちは本文中で、各々なぜかネッティーとヴィジャクというようにファーストネームで呼ばれる。対する男性研究者はペイジ、レーウェンフック、グッドフェロー、ミュラー、ウォルフ、ナダル=ジナール、というようにみなファミリーネームで呼ばれる。
なぜかはわからない。PCの観点からすればあまり穏やかでもない。敢えて想像するに、本書では一応メスをデフォルトで完全な存在として、そしてそのカスタマイズした存在としてオスを位置づけている。実際のところは、高等動物の大半ではオスメス両者なくしては次代に生き延びる事ができないから、すこし潤色しすぎである。それに片目をつぶりながら言えば、女性は個体そのもので十全だから個体を指す名前であるファーストネームを採用し、男性は女性にぶらさがった存在、その女性が生み出す系列の中でしか子孫を残せない存在だからファミリーネームを使って呼ぶのではないだろうか。

スキャンダルは性決定の研究者でもないのになぜ書いてあるのか

本書のテーマは性決定と性の役割だ。
精子の観察、性染色体の発見、SRYの発見、その結果として、女になりそこねた弱い存在である男たちの悲哀まで一気に読み進める。そうして第10章に来ると突然、ハーバードの女性研究者の活躍と、その夫となった同大学のイケイケボス、そして彼らの豪遊ぶりが描かれる。年収5000万円以上! ハーバードの医学部教授スゲエ! とか思い、ふと我に返って思う。俺は、性決定の研究史を読んでいたのじゃなかったか。なぜ、心臓の研究がここで出てくるのか。本筋から離れすぎではないだろうか。
私も読み終えたあと半日悩んである程度結論は出た。著者は、ヴィジャクを「強欲な女」として描き、一時は世界の頂点に立ち王座を恣にしつつも、女帝への自らの愛のあかしとして裏金で買った美術品を購入し内部告発によって墜落する悲哀の男ナダル=ジナールを対にしている。王になって名誉を得ても、結局は「できそこない」なのだと。それも全て、女が必要以上に男に要求をしたが故、女がよくばりすぎたせいだと、福岡は自説をブチたかっただけなのだ。
こうしてみてくると、プロローグで登場した著者福岡自身の経験談は、自らのポスドク時代をできそこないとして振り返っていることになる。博士課程で打ち込んだ研究のインパクトも冴えず、転機を求めて海外にポスドクとして修行に行ったものの英語は恥を掻きとおした。本書の「できそこない」とは、まず著者自身だったということだ。
ただ、私は彼を率直に尊敬している。書籍の中では若干自嘲的かつ鼻息荒く描かれているものの、PubMed生命科学論文検索エンジン)でFukuoka Sを検索すると、最近は目立った論文がないものの、「生物と無生物のあいだ」で時折登場したテーマは権威ある雑誌に掲載されている。現在では研究者というよりもむしろ教育者・啓蒙家であるのかもしれないが、かつては確かに優秀な科学者であったとしない理由はない。そして、一般教養で文系の学生たちを教え、学部を出てそのまま就職する学生たちに卒業研究のカタチをつけさせるのもまた、欠落してはならない仕事だと思っている。

加速覚という意味不明な単語

生物と無生物のあいだ」の「動的平衡」に続いて、「できそこないの男たち」エピローグで福岡は「加速覚」という聞きなれない単語を持ち出す。加速度を受けて等速直線運動から離脱する時の変化を鋭敏に感受する知覚について、それは内耳の作用だろう、と弾じられている。ジェットコースターの快感は加速覚のためで、それは射精の快感と同じで、男に与えられたささやかな特権なのだという記述ばかりが読者の頭に残るけれど、実際はジェットコースターを女も楽しんでいる。もうすこし考え直してみよう。
生物は自分が媒体の中にいることを意識できない。その媒体から脱出して初めて媒体を意識できる。そして人間にとってその媒体とは時間だという。時間という媒体から加速を受けて抜け出すことを快と直結するのは控えたいと思うが、確かに強い刺激を与えはする。
Sex is not absolutely necessary.*1 メスはメスだけでもいのちをつなぐことができた。そこにわざわざ撹拌する棒を作らせて自分たちをステアさせはじめたのは、多様性によって時間という媒体の加速に耐えなければいけなかったからだ。
男たちはできそこないであってもよく、かつまた、女たちと比べてできそこないでなければならなかったようだ。Men are worthless, while women are useless.

連載の性格

「できそこないの男たち」は光文社の出す新刊案内月刊誌上の連載である。これは「生物と無生物のあいだ」が講談社の同様の雑誌「本」の連載だったのと同じである。ただ、そうした連載としての性格ゆえ、「生物と無生物のあいだ」では何章にも重複した記述があまりに多すぎたのだが、「できそこないの男たち」では重複は許容限界ギリセーフぐらいに少なくなっている。
こうした出版社毎の小雑誌はいい読み物が載っていることが多い。週刊誌ほど軽薄でもなく、総合・専門それぞれの月刊誌ほど重厚でもない。「できそこないの男たち」も例に漏れず、少々専門的な内容を一般人がイメージしやすいように気配りがきいていて、ある種の知的な気分も味わえるし、とてもいい刺激として暇つぶしに最適だ。

所詮この世は男と女
女なくして男は立たず
男なくして女は行かず

*1:Molecular Biology of the Cellより