全ての日本人が読むべき本なのなら。

多くの人がこの本を読んでいるわけでもなく、ネット上には意見・感想はおろか予断だけ述べてその予断を検証するつもりも無い人たちがあふれ、読んだ人はこぞって貶すか異国情緒に浸るのが空気であるかのような中、手負いの私がid:umedamochio:20081107:p1に応じて愚直な感想を述べよう。と思ったのだけど、例によって妄想にとり憑かれてしまったのでそのことを書く。それにしても人は、気に食わない意見に出会うとすぐにあらさがしを始めるものである。
たぶん、水村が直観した現実が重要なのは、往々にして人はいま進行している事態を把握できず、それを感じ取るのは芸術家的な直観であることが多いからだろう。なくなってしまってはあとのまつりなんだよと。それで選択肢が1つ消えてしまったら終わりなんだよと、水村はいいたいのだ。よく批判される自己責任論の問題点とは、各人に責任を帰することそのものではなく、選択肢が現実的に抹消されているにもかかわらずそれが隠匿されていることであるわけだが、現状の政策は日本語が選択肢から消しつつあるんだと、いいたいのだ。

少女時代から漱石に耽溺し「続明暗」でデビューした水村の問題提起は、「たとえば今日、2008年11月7日、漱石と同じくらいの天賦の才能を持った子供が日本人として生を受けたとして、その子が知的に成長した将来、果たして日本語で書くでしょうか。自然に英語で書くのではないですか」ということである。放っておけば日本語は、「話し言葉」としては残っても、叡智を刻む「書き言葉」としてはその輝きを失っていくのではないか。
id:umedamochio:20081107:p1

水村が事例として引くのがシンガポールの現状である。バイリンガル教育を進めているというシンガポールでは、作家は英語でしか書かないのだという。
とりうる日本の日本語政策を水村は三つに大別している。

  1. は、〈国語〉を英語にしてしまうこと。
  2. は、国民の全員がバイリンガルになるのを目指すこと。
  3. は、国民の一部がバイリンガルになるのを目指すこと。

p.267

この中で、1は論外として、2.もシンガポールの例を見ると日本語は「書き言葉」としては亡びることになり、残るは3.になる。
以下、箇条書きでmemo。

  • 日本文学は日本に住んでいる人しか受け継いでいかない。
  • 実際シンガポールでは現地語で誰も書いてないよ。
  • 日本語でホントに誰も書かなくなるよ。
  • 日本文学を誰も読まなくなるよ。
  • インターネットのインパクトは大きいよ。
  • せめて、義務教育では(日本語維持のために)日本語を積極的に注入してあげようよ、そうでないと日本語は「亡びるね」

水村の論の中で、世界の言語の現状では英語に対して、英語以外の諸語の位置は対等である。どの言語も英語の前で亡びる可能性を秘めている。その中で、水村の立ち位置は日本語にある。日本語は、多くの諸語のように最近文学が書き始められたものでもなく、独仏などのいくつかの言語のように英語に近くもなければ、漢語・ヒンディー語のようにこれ以降の大きな(覇権的な)経済成長を背景として望むべくもない。背負うものばかり大きくて、普遍語英語との距離も遠く、行く末まで絶望的な言語という特異性が、水村の論をクリアに見せている。
しかし、残念なことに、水村の論の中核にある「日本語ができる」という水準が、きわめて曖昧である。そして敢えて曖昧なこの概念を精緻化してやると、「エリート」とかいう言葉以上にゾッとするぐらいの文学者絶対主義が顔を出す。

国語教育の理想をすべての国民が書けるところに設定したということ、国民全員を〈書く主体〉にしようとしたということ---それは、逆にいえば、国語教育の理想を〈読まれるべき言葉〉を読む国民を育てるところに設定しなかったということである。ところが、文化とは、〈読まれるべき言葉〉を継承することでしかない。
p.302

現代文学の批評家が異常なまでに反発して噛み付いているのはこの辺だろう。「愚民たちは私たち文学者の書いた小説を読みなさい、私たち文学者にしか日本近代文学のような高度な作品はかけないのです」と水村は言っているのだから。
もし言語を教育の中で解きほぐしていくとすれば、http://d.hatena.ne.jp/elastica/20081112/1226505243が明確に取り出したように、時間しかない。ちなみに、私は学校教育の最も良い点は、言語の崇高や美の観念を植え付けることなどではなく、退屈で雑多で凡庸な知識を大量に子供たちにぶち込み、腐った性根を叩きなおすことにあると、考えているのである。
雄々しい日本文学の森が消えたように見えるのはおそらく、「現代日本文学全集」のようなものがほとんど発行されないか、もしくは顧みられすらされなくなったことにあるだろう。いや、あるいは我々が向かい合うべき歴史もなくなってきたのかもしれない。
日本文学はある意味で外国語との軋轢の中で豊かに成熟してきた。以前も(孫)引用したように、小林秀雄が文学者を目指す者に、外国語を学べ、と言ったわけである。そのへんは、当代随一の日本語の小説家であると認めざるを得ない村上春樹にあってこそ顕著である。
もしこのムーブメント、というのはネットのなかでこれだけこの本が注目されたのだから、ここから「ビジネスチャンス」を見つけるならそれこそ、この日本という日本語が話し読まれる国にあって英語で(のみ)書き出版する、いわば日本語を亡ぼす現代の「亡語的」小説家として注目のうちに登場することだろう。もしくは、日本国内の英語の文芸誌を創刊して名を売る。実際、水村美苗は日本の小説を横書きで書いて英語を混ぜたというところで注目されたのだから。私は日本文学に明るくないので、これまでにそういう、日本において英語で書く作家がいたのかどうか、知らない。いや、戦前からそういう人は居そうな気がするが。そして、この動きが本当に「価値ある」ものとなるには、いくつかエントリが出たようにもともとの英語にすらない表現を用いて作品を、そして言葉を創っていくのがいいだろう。
文学について、私は、日本近代文学にあって最高の作品は「吾輩は猫である」であり、漱石以上の小説家は現れぬ、という偏見に凝り固まっている。それは、漱石自身が日本語を作り出した瞬間の言葉が封じ込められている〈特異点〉であるからである。
誰がその「Japanglish literature」の創始者という〈特異点〉を手にするのか?