天才になろう

数学の道が閉ざされるとき - hiroyukikojimaの日記を読んで、身震いした。天才を前にするときの快くも凍てつくような畏れを思い起こした。
なぜ天才数学者である石神が数学を諦めたのかはそのエントリでは書かれていない。映画館で確認せよ、ということだろうか。
エントリ中にこのような文章がある。

映画的な試みだと思うが、湯川と石神が冬山を登山するシーンは象徴的だったと思う。数学の 道も物理の道も、まさに、このような雪山の登頂と同じだ。極寒のなか、死をも辞さず、一心不乱に昇り続ける。それは、ひたすら、頂上で見える風景のためだ けにだ。そして、その風景は、普通の人には価値あるものには思えない類のものである。でも、それがなければ、人生が無意味になってしまう。数学の道とは、そういうものなのだ。

私は数学者ではないから小島先生のことばに沿うものではないけれど、これはとてもよくわかる感覚だ。自分のあゆみは自分でしか築き得ない。指導教員というベースキャンプからの無線を頼りに状況を判断して一歩一歩すすむしかない。
「そこに山があるからだ」ということばがロマンチシズムだ、などというのは百も承知でありつつ、わずかながらもそのどこかには食糧(ポスト)はある。一方、人間は知識をこれまでに拡大し続けてきたし、これからも拡大し続けなければならないし、拡大し続けることができると信じている。
役に立つ/立たないという価値判断の根拠となるのがこの知識拡大――「創造」――の運動そのものである。この営みは、当然ながら営利企業も担っていれば、大学もまた担っている。また、いまは一介の博物学徒に過ぎぬ立場から言わせれば、いかに物理学者が、数学者が、否定しようとも、すべての知識の拡大は等しく価値があり、また、百科事典に新しい一頁を加えようとするものである点で同じ――
――博物学である。*1

天才への10,000時間

先週、あなたも「天才」になれる? 10000 時間積み上げの法則 | Lifehacking.jpが話題になった。能力は、それまでの訓練にかけた時間の長さで決まるという。たとえ、それが「天才」と呼ばれるほど高いものであったとしてもだ。
私もこのエントリを読んで強く共感し、あー、やらんとな、という思いを新たにした。俺も、もう博士課程の中間地点を折り返してしまった。
TOEICの勉強をしている頃、アンチ・バベルの塔というブログを読んでいた。そこでは、英語の習熟度は学習にかけた時間で決まる、と明言されていた。私もそう思う。
中学・高校での授業と受験勉強は当然として、大学時代は英語劇を中心としてESS(英語会)の活動があった。中学以前には公文式で小学校2年生から中学校1年生までやっていたんだから、それだけ他の人よりよほど長い。
TOEICを受験した3年前から勉強はしなくなった。必要に応じて電子辞書を引くだけだ。暗記した単語は抜けた。単語のおぼろげな感覚だけが残った。コミュニケーションも3年前に比べて拙くなっている。しかし、それを問題視する自分がいない。それよりも、現に目の前にいる人と英語でしか意思を伝えられないのだから、なんとかしてことばを出すしかない。「あー、うー」と言っている時間は、ないのである。東大の英語の入試はまさにこういう試験としても機能していた。Say something.

神の相貌

肝となるのは10,000時間であるという意見は、希望の輝きに満ちつつも絶望の影が長く伸びる。ここではまさにあの神の存在が「時間」として出現し、到来している。丁度いま旅路の端緒にあるものは洋々たる未来を感じるだろう。途半ばにあるものにとっては喰らってきた道草の大きさに慄然とするだろう。
そのエントリのはてなブックマークでも多くの反発者が見られる。

答えは出ているように思う。それはこういうことである。

「常に上昇しながらの 10000 時間」

Lifehacking.jpのエントリでも強調されているように、その時間というのはただ漫然と同じことをしていればいいというのではない。常に新しいことをしながら、上昇しつづけなければいけない。
その上でやはり天才と呼ばれる人は2種類あるのだろう。ひとつには、もともと好きで好きでたまらなくて、それをする事が喜びで、一日何時間あっても足りないほどのめりこんでしまう天才。そして、もう1つは、次第に慣れてうまくなった天才。
別の話になるけれど、 カードを用いて目標に思いを巡らす基本の自己啓発法:日経ビジネスオンラインでは、自分の目標を定めて邁進する方法が書かれているから、私も参考にしてやっている。iPod shuffleにこの講演の朗読スピーチを入れて通勤時に聴いている。目的、目標の重要性をとうとうと注入されている。*2
達成したい目標を定め、そのために毎日着実に作業する。常にあたらしい境地を切り開いて成長していかなければいけない。
たとえばスポーツや音楽の演奏のようなパフォーマンス型の訓練なら、多くの場合やることは同じかもしれないが、その同じことの反復の中で新しいものをつかんでいく。スポーツは私は心の底から大嫌いだが、音楽では去年から合唱に参加し始めて今2年目で、先輩方は「去年より声が出るようになったね、いいね」と仰る。身に余るお言葉である。というように、時間とともに上達するものなのだと思う。これは、実験科学にあっても職人技を要するような作業にはあてはまるだろう。顕微鏡観察のような、きわめて身体的な作業をイメージしてほしい。
いっぽう、プログラミングや実験科学のプロジェクト、あるいは小説や作曲のようなコンポジション型の訓練とでもいうような過程もあるだろう。この中では常に(自分にとって)新しい技術を持ちネタの中に加えていくことが求められる。漫然とプロジェクトを進めるより、それまでの分野にベースをおきつつも、常に新しい分野に目配せをしていく姿勢が必要なのだろう。
あと、ニセ科学ではないかという指摘は、――云わぬが、華よ。

*1:先ごろ小学館の大百科全書がyahooで無料公開された。→http://100.yahoo.co.jp/ 私は同じもののCD-ROM版 (Light版) を9年前に購入したから、無料になってしまったか、と、とても感慨深い。

*2:私は自己啓発書が大好きです。