殺シ屋鬼司令II

世界一物騒な題名の育児ブログです。読書と研究について書いてきました。このあいだまで万年筆で書く快感にひたっていました。当ブログでは、Amazonアフィリエイトに参加してリンクを貼っています。

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てっきり研究はお止めになったものと思っていたのだけれど


モシャモシャモギーのひらめくオリア。
2009年混沌の先 バブルはひらめき、脳科学で読み解く経済危機:日経ビジネスオンライン
私は茂木健一郎という人の本をいくつか読みました。かつては「クオリア日記」も読んでいました。
何かと「クオリア」の「ニセ科学」者として名高い茂木ですが、しかし、私はいちおうちゃんとした神経科学者だったと思っていますよ。というのは、彼は著書の中では「クオリア」というのを持ち出してきはするんですが、そして読者の方もそっちにつられて「で? あなたその研究は進んでるの?」というわけです。でも彼の研究テーマは神経細胞ネットワークの発火パターンをシミュレートすることで、それで(かつては)学生と論文を書いて、学術誌に発表していた。
そういう手続きを踏んでいたうえでは、彼は科学者なのですよ。かつて、少なくとも東工大の兼任教員だったはずで、そこで学生に研究指導していたのは知っていました。肩書きからはこれも抜けて、ああ、もうこの人は論文は書かないのかな、と思っていたら、きょうの記事で「この研究(ひらめきの神経細胞興奮というカタチでの内実、ということでしょう)は私と石川哲朗という大学院生が一緒にやっています。」と言っている。それで私も「ああ、やってるんだ」と思いました。ググってみても、中川翔子のギザサイエンスというラジオ番組に研究室メンバーが出演したようですし、兼任教員は継続しているようです。肩書きが抜けたと思ったのは本によって使い分けているのでしょう。
茂木健一郎は発火パターンを調べる神経科学者ではあるけれど、クオリアを説明する脳科学者ではない、という見方を私はしています。煎じ詰めるとおそらく「全てはクオリアである」という言い方になる。それは「万物理論」、つまり「全てを説明すると宣言してはいるが、そのじつ何も説明していない」言説になってしまっています。だからクオリアという単語を出した瞬間にそれは科学ではなくなってしまう。「すべてはクオリアである」というのはつまり、すべてをクオリアという枠組みの中で解釈するということだとすれば、そのクオリアのありようが重要でしょう。そして、クオリアという枠組みの中の個別のありようを規定する変数を抽出していくのが「還元主義」あるいは科学の行動パターンなので、すぐに「クオリア」という概念が不必要になってしまうということです。
きょうの記事にしても、「クオリア」って単語をひとことも発してないでしょう。かといって、「スケールフリー」なんて出されても「いまさら?」感満載です。詳しいむきは「これはカオスという現象で…」と言われたときのガッカリ感だといえばわかってもらえますかね? 事情通はよく聞く言葉だし、一般人にはまだ目新しい。バブルで文明は何かを学んでいるんですよ、これは科学的に見るとすごく当然なんだよ、と言われて、いま不況で噴きあがっている当事者は納得しない。当事者にとっては科学は自分の状況を批判するための材料としてしか期待していないのに、正当化されてしまうのですから反発もムリはありません。「新自由主義は親の仇!」と言わんばかりの勢いです。ここには自然法則から導き出された結論を、人間社会のありかたとして認めるかどうかという価値判断が横たわっています。
人は、自分の気にくわないことがあると、あらさがしをはじめる。
でも科学というのは自分に都合のいいことばかり教えてはくれないものです。そして「そんなものには価値がない!」という人は、自分勝手なだけです。そういう人を迂回しても人間の知識は積み重なって行くものです。
アメリカ発金融危機にしても「学者があれだけいて論断もリテラシーが高いのにこんな金融危機になるなんて学問は無駄なんじゃないか」という意見はまっとうに思うひともいるでしょうがそんなのは自分の愚昧を自ら晒しているようなものです。なにを第一に重要とするか、の価値判断が問題になるのです。アメリカの経済学者にせよ学者たちは「人間社会が総体として素晴らしくなること」という、これ自身は非常に漠然としていますが、しかしこの漠然とした判断基準を「共有」していて、そのリストの2番目3番目として、第1判断基準をさらに細分化、細かく具体化した「貧困の根絶」「戦争の回避」「お金を儲ける」etc.といった判断基準を別個に有しているし、こういう多様性があることが何よりも学術が組織的営為であることの特徴です。
ところで、こういう記事は完全に「埋め草」なんですよ、NBオンラインにとっては。ノーベル講演を共著者に譲った南部博士:日経ビジネスオンラインが広く読まれて、皆がノーベル賞という形で人類の知識の蓄積を祝福するというのは、理学部にいる(それでときどき科学コミュニケーションについてほおづえをつきながら考えてもいる)ような人間としては歓迎すべき事ですが、でもこれにしたって「埋め草」ですよ。伊東乾は相当な人気連載だそうですが、2008年11月「高額所得者」に読まれた記事ランキング:日経ビジネスオンライン2008年11月「会長・社長」に読まれた記事ランキング:日経ビジネスオンラインというのがあって、こういうのにはランクされていない。でもNBオンラインがどこに擦り寄っているかというと、間違いなくこの「エグゼクティブ」たちの方をにらんでいるはずです。