殺シ屋鬼司令II

世界一物騒な題名の育児ブログです。読書と研究について書いてきました。このあいだまで万年筆で書く快感にひたっていました。当ブログでは、Amazonアフィリエイトに参加してリンクを貼っています。

MENU

Green Fake

先日、友人が引っ越したというので招かれてお邪魔した。
東京タワーと浜離宮とお台場の一望できる豪気な部屋だった。しかし家具は彼が大学時代から使っていたものがいくつもあった。というより、ほとんど部屋に家具が無かった。テレビもオーディオもない。白を基調にしたシンプルな空間だった。無印のカタログから出てきたような部屋だ。
あと何を置くか、と言われて、観葉植物でも置いたら、と答えた。色合いからみてもちょうど良かろう。忙しいだろうし、なんだったら造花でもいいんじゃないか、と付け加えたところで、中学生の時の自分が聞いたらさぞ激怒するだろうな、と思った。
小学校の高学年から中学生に上がったころの私は園芸少年であった。毎週のように母親に車を出させて、友人森川を伴って園芸店に行った。店に着くと隅から隅まで眺めていた。ハイポネックスの種類も覚えていた。棚の裏に打ち捨てられたように置かれている花期の終ってしまった洋蘭や観葉植物の鉢も目ざとく見つけた。食卓では傍らに「趣味の園芸」を積み上げては中を眺めながら食事を取った。その頃の私にとっては造花など唾棄すべきものであった。ナマが一番だ、という信念だった。
それから10年経った。植物学コースに進学したものの、現在の私にとって(陸上)植物は既に研究材料ですらなく、指導教官はシンポジウムでは毎度のように「超」植物を標榜してすらいる。インテリアなど飾りであって、特別に活きていなければいけないというわけでもなかろう、といつしか思ったのも確かである。
だからといって造花でいいのかという疑問は、ネットで造花を検索してみて浮かんだ。しょぼい、というか、ハッキリこれは要らんわ、と感じた。確かに造花は枯れないだろう。当たり前だが。でも枯れなければいいのか、緑であればいいのか、と言われると、どうもそんなものでもない。ほれ、某国が土の山に緑のペンキを吹っかけて「緑化」と称した小噺があったが、あれに感じるおかしみである。

例えば、ビルの屋上の端に立つのは危険であるが、まだ転落するか無事であるかは分からない。この状態はかなり不確実でリスクが高い。しかし、一旦転落すれば十中八九命がないとすれば、転落直後にリスクが低下することになる。
リスク - Wikipedia

月並みな結論になるけれど、部屋に植物を置くのは、それが枯れうるからいいのだろう。枯れるリスクを我々は生命だと感じるのだろう。そうでなければ、なんぞ緑のものを置けばいいのかもしれない。
たとえばこれのように。↓
http://www.upsold.com/imshop/app?main_page=multi_color_product_info&products_id=897341