殺シ屋鬼司令II

世界一物騒な題名の育児ブログです。読書と研究について書いてきました。このあいだまで万年筆で書く快感にひたっていました。当ブログでは、Amazonアフィリエイトに参加してリンクを貼っています。

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柴田先生の翻訳演習

もう8年も前のことになるが、2001年に大学に入学した私と友人は、教養課程のシラバスに米文学者・翻訳家の柴田元幸の講義(演習)があるのを見つけて、二人して受講した。
そうした授業があることは前々から知っていた。最初に柴田元幸の名を知ったのは高校時代にふと読んだ「知の技法」だったと思う。いや、読んだときは知らなかったのだけど、柳瀬尚紀は翻訳の怪物だと「知の技法」に書いてあった、という話を、中日の山本昌によく似た高校の国語の先生としていて、いや柴田元幸という翻訳家も怪物だ、と教えてもらった。あとで「知の技法」を読み直すと、その章を書いたのが、まさに柴田元幸だった。それから受験期にかけて、英文解釈の技法の一種として柳瀬「翻訳はいかにすべきか」柴田「翻訳夜話」あたりを読んだ。駒場の柴田翻訳演習の一部(最近とみに話題の、例の人が登場した回?)を書き起こしたものが「翻訳夜話」に入っていたようである。

翻訳夜話 (文春新書)

翻訳夜話 (文春新書)

そういったわけで、柴田翻訳演習には、あわよくば例の人に会えるのでは、と期待した学生も少なくなかったように感じた。感じた、というのは、始業前の喧噪に漂う言葉の切れ端の中である。
講義の進め方はいたってシンプルである。金曜日の1限じゃなかったか。課題となる文学的英文が配布され、次週までに学生は翻訳して印刷してホチキスで留めて提出する。学生から提出された訳文は、先生が次週までに赤ペンで添削してくる。講義では、先生が添削した訳文の中からよいもの、おもしろいもの、特筆すべきものetc.をOver Head Cameraに乗せてVTRに映しながら講評していく。私の訳文も1回か2回は出たのではないかと思う。自分の訳文が柴田元幸に閲されるという幸運ですら想像しがたいものを、それが評価される、これほどの至福はなかった。
課題文は掌編小説まるごともあれば、長編の一部分ということもあったし、詩もあった。決してやさしくはなかった。語彙も高度で、受験用辞典では役に立たないとされた。私と友人は先生がガイダンスで提示したリーダーズランダムハウス大英和のうち、CD-ROM版のランダムハウス大英和を買った。なぜリーダーズにしなかったかというと、私がカレッジライトハウス以外の研究社の辞書に良いイメージを持っておらず、小学館の辞書にはMS Word 97付属CD-ROMのプログレッシブ英和中辞典から多大な恩恵を受けていたからで、プログレッシブの「元ネタ」であるランダムハウス大英和を選ぶのが自然に感じられたからである。
自分の翻訳とその評価についておもしろいことをみつけた。金曜日に講義が終了したあと土・日に翻訳して、「寝かせ」、木曜の夜にちょこちょこ直してから印刷して提出すると、評価が高かった。OHCに揚がったり、残念ながらそうでなくても赤ペンで「◎」などがついていた。逆に、前日に徹夜でやったりすると評価はとてもとても低かった。あのときは、課題文を配布されたときの先生の予備的説明を聞いてなかったというのもあった。要するに推敲が大事だということなのだが、それが目に見えて感じられたのはこのときだった。
翻訳のやり方については、概ね「英語の語順通り」に「日本語になっている」のが好まれたような気がする。塾の英文和訳ではない。生硬な訳文は刎ねられる。「英語ネイティブスピーカーが原文を読んだときの感じ方」を日本語ネイティブスピーカーに対して日本語で再現できるような翻訳が理想、みたいだった。当然、原文のリズムまで丹念に織り込む。
評価も総じて厳しかったという。サークルの先輩に聞くとほとんど優は取れないのだと言われたが、私の数少ない優の1つだった。
表面的にしか物事を見なければ、何が予備校の英文和訳と違うのかはほとんど感じられなかっただろう。確かに、先生が口に出すのは、原文と訳文と考え方だ。けれど、毎回受けているうちに、先生が説くのは英語、或いは西欧、いや、英語によって呑み込まれていった世界のちいさな部分部分が浮かび上がってくる。単に英語を日本語に直すだけではない、これは1つの文化論なんだ! と、当時の私はとても感動した。
私たちが受講した2001年夏学期には、例の人は来なかった。
私たちが参加した次の学期以降、駒場では柴田翻訳演習はなくなったようだ。松原計量社会科学/基礎統計も既に松原先生が退官になったはずだし、いま駒場で楽しい講義って何なのかな。
書籍のほうはあらためていないのだが、柴田「翻訳教室」は上で紹介した駒場の講義がなくなったあとも続いた(続いている?)本郷の英米文学科での演習をまとめたもののようで、雰囲気は出しているのではないか。
コリンズというイギリス人の「英語II」は面白かった。ヒッチコックを見て英語でディスカッションした。これにはサークルの友人たちと受講した。先生が「君たちはなぜハンドアウトを読んでこないんだ!!」と憤慨していたときもあったか。私はその次の時間は同じコリンズのEnglish only「英語I」だった。東大駒場の英語Iに不満のある学生は多かったが、English only(つまり英語ネイティブスピーカー教官)でないとそりゃ楽しくなかろうし、その中でも教官にもよるだろう。テキスト(Universe of English II)もなかなか洒落ていて、私は好きだった。そういえば、Universe of Englishも柴田先生(と佐藤先生)が最初組んだんだったか。
その後、というと変だけれど、文学文から離れるにつれ、訳文の語順については「日本語の作文技術」の意見のほうが重要かと思うようになった。つまり、日本語の文章にはネイティブ文章も翻訳文もなく、自分のルールが正しく、読みやすいのだと。当該書籍所収の例文には彼のプロパガンダが埋め込まれているし、本当にコアな部分は東北大の酒井先生の「「これ論」版 日本語の作文技術」 に纏まっている(しかも、1つルールが追加されている)のでいいだろう。