殺シ屋鬼司令II

世界一物騒な題名の育児ブログです。読書と研究について書いてきました。このあいだまで万年筆で書く快感にひたっていました。当ブログでは、Amazonアフィリエイトに参加してリンクを貼っています。

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快著「シリコンバレー精神」(梅田望夫)

シリコンバレー精神 -グーグルを生むビジネス風土 (ちくま文庫)

シリコンバレー精神 -グーグルを生むビジネス風土 (ちくま文庫)

今週、「ウェブ時代をゆく」を読み返して、考えていた以上に面白く感じて、もっと読みたいと思った。それ以前に読んだ「ウェブ進化論」 は実家にあるので、さてどうしようかと思い、未読のちくま文庫シリコンバレー精神」を求め、読み始めた。
シリコンバレー精神」も、とてもいい本だった。何よりもシリコンバレーが異常なまでの熱気に包まれていた「ネットバブル」の時代を、内側から鮮やかに描く。梅田自身もその波の中で揉まれながら、自分の見通しの限界を思い知らされたりもしたし、新しい挑戦もした。筆致が簡潔かつ具体的で、選び出された単語も印象的だ。素晴らしいルポルタージュ作品としても読める。
私にとってネットバブルというのは先史時代のようでもある。生まれてはいたけれど、充分な意識とともに世界を見ていなかった。記憶の中にある暗黒領域だった。「シリコンバレー精神」はその時代の鮮烈な記録だから、すみやかに私の記憶の中に入ってきた。
なにが面白いって、登場人物でしょう。特に、ゴードン・ベル。昔のコンピュータ設計者で今は一線を退いてビジョナリーとして影響力を持ち、梅田が師と仰ぐ人物である。そのマスターが若きパダワンにこう言うのである。

「ここ数年、空前の好景気でベンチャー・キャピタルが肥大化して、本来ならアーリーステージに費やすべき金と時間がレートステージに(公開直前の段階)に集中してしまっている。自分がエンジェルとして投資したベンチャーも、なかなかベンチャー・キャピタルの精神的支援を受けられない。シリコンバレーの生態系が崩れてきているんだ」
p.259

ビジョナリーというのはこういう話し方なのだろうけれど、どうしてもマスター・ヨーダを思い出してしまう。「フォースの均衡が崩れておる」ヨーダは言った、「崩れてきておるのじゃ、フォースの生態系が」
実際に起業しようとする技術的才能を前にしたやりとりも緊迫している。ベットするか、ドローか。真剣の世界がそこにあり、一方で、たとえ失敗したとしても、起業家の人格は否定されない。投資案件の交渉手順がかなり具体的に描写されていて、金を出す側である梅田たちとアイデアを実現する側である起業家たちのやりとりがリアリティ豊かに浮かんでくる。

「好き」と「愛する」の間

ところで私は「好き」というのがどうしても分からないで来た。「好き」? それは他よりどういいの? どうして他のじゃだめなの? 疑問は癌細胞のようにひとの心を蝕み、やがて食い尽くしてしまう。自分には好きなものなど何もない、と。
シリコンバレー精神」に付された「文庫のための長いあとがき」のなかで、梅田はこの「好きを貫け」のひとつの象徴的な発言に言及している。アップルのスティーブ・ジョブズが2005年にスタンフォード大の卒業式でしたスピーチの中、「The only way to do great work is to love what you do.」と言った。これに梅田は

ジョブズは「love」という強い言葉で、「シリコンバレー精神」の根幹に流れる「好きということのすさまじさ」を表現したのである。
p.278

と解説を加えている。ジョブズのloveが梅田の「好き」になったのは確実とみて良いだろう。
「研究者というのは、好きだからやってるんだよね?」と言う人がある。私は、上で書いたように、好きなことが欠落している。だからずっと困っていた。自分は研究が好きか? 正直なところ、分からない。でももしジョブズのいうloveだったら、ハッキリと「Yes」と言うことが出来るだろう。愛には或る種の決意が伴う。それなら理解できる。
でも、愛を理解することができる人が、日本にどれだけいるのか、私には分からない。

Linuxが資本主義に飼い慣らされていく様子が、RNAワールドからDNAワールドへの転換にダブる

これは私が生物学の知識を持っているから勝手に感じたことである。
かつて地球上の生命はRNAだけで構成されていたという説がある。分子生物学セントラルドグマであるDNA→RNA→タンパク質という流れが確立する以前に、DNAの情報貯蔵の役割も、タンパク質による触媒活性の役割も、一挙にRNAが担っていたというのである。この世界観を「RNAワールド」という。その後、地質学的時間の経過とともに、安定な情報記憶物質であるDNAが支配的となり、触媒活性もタンパク質によって安定に担われることとなった。結果として、RNAはその間を取り持つだけの存在として貶められることになったのだ、という見方がずっとされてきた。これが、DNAワールド支配史観である。
この史観に異議を唱えたのが理化学研究所のグループの仕事で、もう4年前のことになる。異議といっても、「セントラルドグマは間違っている!」というトンデモではないのであって「RNAワールドは消え去ってはいないですよ。ゲノムにコードされて、細胞の中で機能しているRNA遺伝子の規模を考えると、別な見方が出来ますよ」というものだった。それを私はたぶん大学院の講義で聴いたのだと思う。RNA新大陸、という呼び名で喧伝される一連の研究だ。別な見方というのは、視点の転換で、要するにRNAワールドがストレージとしてDNAを、また機能素材としてタンパク質をそれぞれ採用し、活用するようになったのであって、「大量のRNAは未だ細胞内をうろつきまわっている! 亡霊ではない!」ということだ、と勝手に思っている。
さてLinuxであるが、私の見るところ、やはりLinuxは資本主義に絡めとられたかもしれないが、それでもLinuxはインフラとしては星の数ほど使われているんじゃないですか。と、このあたりできな臭い感じがしてきた。ともかく、むしろLinuxが資本主義をrecruitして、安定した基盤を確立することに成功したとみても良いのではないかな、と、RNA新大陸の話を思い出しながら考えた。