殺シ屋鬼司令II

世界一物騒な題名の育児ブログです。読書と研究について書いてきました。このあいだまで万年筆で書く快感にひたっていました。当ブログでは、Amazonアフィリエイトに参加してリンクを貼っています。

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学部の実習は大事!

私の卒業した生物学科では、平日の午後は実習だった。理学部や工学部等の多くの学科がそうだろう。
昼食後から夕方まで、学科の研究室が持ち回りで、それぞれに関連した分野・アプローチの作業を学部生に指導する。個別の作業もあるものの、数人のグループに分かれて作業することが大半だろう。内容は、良くてその研究室がおこなった発見の追試である。普通はもっと基礎的なDNA配列を決定したり、その辺の池*1の水をとってきて微生物を観察する等、学部生自身にとっては「三途の川に石を積む」ように思われる作業をして、レポートを書く。その反面、ある作業を完璧に一人でこなせるようになるには、作業量が圧倒的に少なすぎる。
学部生の時は、誰もが実習を楽しいものと考えているわけじゃない。嫌なものと考えている人はたくさんいる。好悪は保留したとしても、せいぜい必要だからと我慢している人だっている。量も質も拍子抜け、帯に短し襷に長し、という感覚を持つことも多いだろう。
理由は幾つもある。拘束時間が長い。にもかかわらず、論文として業績になるわけでもない。これが(中途半端に)「意識の高い」学生にとっては苦痛となる原因でもある。
しかも、同じことを繰り返しやらされたりする。その上、グループの連中と反りが合わないと最悪だ。厭がられるのも尤もだ。
ただ、最近、学部時代の実習の意義を悟った。学生の身分も果てようとするこのごろになって、やっとわかった。
生物系の学部を経ていないと、基本がごっそり抜けている。それは当然だ。数年間のビハインドがある。一通り説明しても、凡ミスが多いらしい。なんというか、ミスを観察する視点みたいなもの自体が弱いようだ。あっ、自分が変なことをしたな、という感覚がないのかもしれない。
それでピンときたのは、実習の有無である。ひょっとすると、失敗というのは共有できるのではないか。グループで実習をこなすうちに、お互いの手技を観察しあう。失敗がなじられることもあるだろう。しかし「社会人」になった者の口によく上るように、学部生の失敗なんて失敗のうちに入らない。大学院生だって、数百万円単位の実験を失敗してブッ飛ばすことすらあるのだ……それに比べれば、学部生の実習で失敗するなんてのは、甘酸っぱい思い出だろう? 「当の本人たちの気持ちを……」? よく、知っているよ。
人類にとっての新たな知見の獲得は学部の実習の目的じゃない。その前に、学部生一人一人の手と眼に、この世界をわずかに操作し、他の人間と共有できる客観的な知識を得るための訓練を与えないといけない。グループで決まりきった作業をこなすことは、学部生がその後、大学院生となるにあたって必要なことだ。学部卒で実験を離れるときでさえ、学科としてはカリキュラムをこなす必要がある。いま言ったとおり、自分で、時には共同で、世界をわずかに操作するという感覚を植え付けることが学部に要請される水準だろう。
では、幸か不幸か、学部でそうした研修を積まなかった人にはどうすればいいのか? これは我々としても喫緊の問題だから研究室でも話題に上るのだけれど、できる限り研究室内の同年で半年ほどグループで作業するというのが近道だろう。それが叶わないとすれば、先輩の院生が付いて見ているしかないだろう。本当はそうした「経験者の視線」でないほうが、前述の「失敗する自分に対する視線」を養いやすいと思う。ほぼ同レベルの人間同士で失敗も成功も共有する。演劇のリハーサルと同じだ。世阿弥の「離見の見」だ。
だから、もしトップランナーになりたいとすれば実習はこなす。これは最低限だ。その上で、研究室によっては意欲のある学部生を受け入れて実験をさせてくれるかもしれない。門を叩いて話してみたという人のウワサはちょくちょく聞く。どういうシステムになっているのかは知らない。自分の責任でやってください。
「そんなのは聞きあきた、最先端の実験がしたい」だって?
いい子だからほんの少し待ってなさい。それまで、このエントリを読み直す時間はあると思うよ。

*1:そう、心の字池であったりする。