『初版 古寺巡礼』について

ちくま学芸文庫『初版 古寺巡礼』が入った。
昨年のことになるのか、和辻哲郎の死去から満五十年が経過して、パブリックドメインに入り、青空文庫に、岩波文庫版の『古寺巡礼』がおさめられたはずである。
そこでこのちくま学芸文庫の「初版」が出た。
憶測:団塊商法。カネもありヒマもありインテリコンプレックスもたっぷりの団塊世代にあてこみ、あわよくばこの「初版」がパンのように売れ、奈良古寺巡礼にいそしむ老夫婦からじゃぶじゃぶとおカネをしぼりとろう……あまたの「受験参考書復刊」ブームに倣って……ソウシテ出版不況ニヒトハナサカセテヤルノダ! ガンバルゾー! ガンバルゾー! ガンバルゾー!
書店で、現物を手にした私は指先からそういう邪悪な「念」を感じ取った。しかし購入の決定は迅速だった。
しばらく読む時間がなかった。そして、四月の末に、奈良のあたりを近鉄で何度か往復する機会があり、書棚からふと手にしたのがこの「初版」だった。
率直に申し上げて、読んでいて苦痛だった。いささかもおもしろくない。図版も古く、地図も無い。もっと多くの写真を満載した、豪華版にすれば良かったのに。
なまじ外国語に通じてしまって批評趣味を覚えた大学出の三文文士が、見よう見まねで宝庫を独善的にたずねて、好き勝手なことをいうだけだ。せいぜいブログレベルである。それだけならいいが、仏像にぺたぺたと触れたとも書いてある。おい触んな。お触り禁止*1
和辻の盛名だけ高いことに関しては、特段の驚きはない。別の著作『風土』が、これまた思い込みと独り善がりを、悪い意味での「修辞」で糊塗した駄作だからである。梅棹忠夫も、和辻はヨーロッパで何を見てきたのか、と揶揄している。
和辻哲郎は読書人(≠哲学徒)にとって「日本の哲学者」としてイメージされる存在の代表格にあがる。独り善がり、思い込み、修辞、せいぜい西欧の横流し……およそ「日本の哲学者」の帯びる悪いイメージ、悪いところを体現したような存在に、これら二冊を読んだところで思えてきた。
だとすれば、九鬼周造は(少なくとも『「いき」の構造』では)いいところを体現しているし、西田幾多郎は日本の哲学者の「現実」か。「哲学」が、せいぜい、人生論にしか読まれないという現実だ。

*1:一般常識として、古刹では、仏像はもちろん、境内の壁や扉、手スリに触れることも、避けるべきである。「塵も積もれば山となる」あるいは雨垂れが石に穴を穿つことを想像すれば容易に意図は解されると思う。