殺シ屋鬼司令II

世界一物騒な題名の育児ブログです。読書と研究について書いてきました。このあいだまで万年筆で書く快感にひたっていました。当ブログでは、Amazonアフィリエイトに参加してリンクを貼っています。

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欲しいものはストックを作り、考えたくないものはフローを作る

おかねはたまってほしい。ゴミのことはあまりかんがえたくない。たまりにたまるタスクのこともかんがえたくない。
そういえば、「渋滞学」というのがあって、渋滞が生じる理由というのはおおむね、車間距離が詰まっているために頻繁な一時停止が必要になり、その結果として区間トータルの車群全体のスピードが低下してしまうことらしい。
渋滞学が提案する渋滞対策というのはしたがって「強制的に車間距離を取る」ということになる。車間距離がバッファとなって、一時停止まで到達する前にスムーズな運行が維持されるという。これは合理的だと思う。
この渋滞学、よく「非線形科学」として取り上げられることが多い。私の見立てでは非線形科学をそのまま「科学」と呼ぶのは注意したほうがいいと思う。非線形科学というのはこの場合はパターンを認識すること、その道のことばでいうと「創発」ということになる。いま渋滞学は、「渋滞」というパターンに着目して、その解消を目指した。ところが、その「解消」つまり「スムーズな運行」そのものがまたひとつのパターンである。それも、このふたつのパターンはまったく独立していて、構成要件は明らかに別のものである。
乱暴にいうと、あるパターンというのは関数で、これこれの要件(独立変数)が揃うと認識が従属変数として生じるということになるけれど、「渋滞」と「スムーズな運行」は別の関数であり、しかも内的には何の関係もない、独立した関数である。「渋滞」もしていないが「スムーズに運行」ということも起きうるし、逆にどちらも生じているということも。
要するに、一意な議論にならない。これが、私がこのたぐいの非線形科学やら複雑系やら生命論やらをそのままクラシックな科学としてみとめるのを躊躇する理由である。
それ以前に、「パターンを認識する」ということそのものが冗語であることもおわかりだろうか。私は、そのこころで、パターン=認識という書き方をしたい。パターンと認識と創発の関係性というのはこうである:パターンと認識の関係は、あるヒトのそととうちで対となって達成される現象を分けて呼んでいるのであり、あくまで主観的な言語である。それを客観的によびならわしたのが創発といういいかたになると思われる。
おかねをためるには給料を天引きして貯蓄というのが定石だろう。これは意図的におかねを渋滞させることにちかい。天引きすることで流れを減速させるわけだ。
逆に、タスクやゴミの解消は、古来いろいろな方法がある。ToDoリストが代表的で、GTDも含まれるだろう。これらは流速が下がるのを防いでいる。スムーズな運行を創発させている。
欲しいものはストックを作り、考えたくないものはフローを作ることが重要だ。そういうことを、家の前に朝ごみを捨てに行く時に思った。