殺シ屋鬼司令II

読書と研究について書いてきました。最近は万年筆で書く快感にひたっています。当ブログでは、Amazonアフィリエイトに参加してリンクを貼っています。

文系ゼミでの罵倒と簡易製本を知らない理系

自分で散髪することを検討し、Amazonで鋏・梳き鋏と櫛と胴掛けを注文した。ものすごく乾燥しているので、ついでに前から検討していた保湿ローションも注文した。金曜日に届く。
きのうコンストラクトの配列が確認できたので、サンプルを整理した。ベクターの作成に用いたPCRサンプルは、ゲルで泳動しても見えないぐらいものすごく濃度が低いので、今後の利用はないと考えて廃棄した。形質転換のライゲーションサンプルもここで廃棄した。形質転換体の選択プレートも廃棄した。グリセロールストックを作成した。発現ベクターの高発現株への導入を待機するだけとなる。
理系学生の多くは「簡易製本」というのを知らないらしいというのは、驚きだった。
確かに自分の学科では卒論というものはなかった。そういう状況で簡易製本が必要になるのは修士論文ということになる。
私は専門課程のノートはすべてA4のコピー用紙(片面)にペンで書き、科目が終わるとすべてをまとめて簡易製本していた。書籍のコピーは、まれにではあるが行った。もちろんいまではすべてScansnapして廃棄するほうにきりかえたので、これらのノートの簡易製本自体が躓きとなっていて、裁断を検討しているところである。
文系では卒論が要求されることはよくあるようだ。レポートですら簡易製本が必要となるほどの分量となることもあるだろうか。あるいは、参考文献をコピーする量も相当大部となると聞かされる。そうしたコピー・印刷物の管理に簡易製本はなくてはならないものとなっているようだ。
一方、ある文系寄りの研究会に参加したときにたいへん仰天したこともある。その会の発表者がひととおり話し終えたあと、質疑応答に入って、ある参加者が手を挙げ開口一番「ワタクシは失望致しました、**さんは……」と切り出した。あなたの期待は聞かれてもいない。そしてそれが裏切られたことを滔々と述べ立てた。私から見るとそういうのはゼミ・研究の議論と言うよりは、人格批判という印象を色濃く持つ。周囲を見渡すと特に皆恬淡としている。ははあ、こういうのはよくあることなんだなとただちに感じた。
ところで、ふつう、議論の場においては「意見を否定し、人格を否定するな」と言われる*1
でも、「それでも人格の好き嫌いは存在する」。
こういうときに3つのありようがある。

  1. 人格を否定して、意見を否定したように見せる
    • よくある属人的な批判というもの。いちおうダメだけど、現象としては非常によくある。
  2. 人格を否定するために意見を否定する
    • これは最悪で、命題の吟味に注力すべき議論の場に唾を吐きかける行為にひとしい。
  3. 意見は棚上げして、人格だけ否定する
    • お前の言っていることは正しい、ただし、かといってお前は依然としてキライだ、というもの。別にこのふるまいを一般的に否定するような指針は存在しない。

*1:ちなみにここ、つまり「議論の場」で、それ自身は否定も肯定もされないものというのは「事実」というものである。