殺シ屋鬼司令II

読書と研究について書いてきました。最近は万年筆で書く快感にひたっています。当ブログでは、Amazonアフィリエイトに参加してリンクを貼っています。

参加するカンファレンスの選択は研究者の生命線

家から出ず、論文のことを考えていた。午後は雨も降った。
Freemindで、データの棚卸をしなおして、確認のために眺めてみた。
この話に長年付き合っている。わずかずつデータを共同研究で積み重ね、大きくなる。別の共同研究で切り崩して小さくなった局面もあった。
いったん突き放す意味で眺めた。これからまた原稿に戻るのだと思う。
これを出さないと新しいテーマにほんとうには移ることができない。それとは別に、もうすぐ浮上してくる新しいプロジェクトもまたある。変わるためにも過去の清算が必要になる。
新しい話にのめりこめないことも故ないわけではないという言い訳がちらつく。自分の価値がどこから出てどこに置けるのか見極めながら進めるほかないとも思う。
その意味でも一ヶ月後のカンファレンスは自分のテーマに相即したセッションでの講演のチャンスで、引用した論文の著者もオーガナイザーや基調講演者で多数参加する。
場所も近所だ……飛行機での1時間を近所と呼ぶかだが、他の場所に比べれば圧倒的に近所だ。
参加するカンファレンスの選択は、研究者の生命線だ。
生物学者は自分たちの進めた研究を最終的に論文にする前に多くの場合カンファレンスでもちよって議論して吟味する。各分野の学会(ソサエティやアソシエーション)がめいめいのカンファレンスを運営する他、そうした所属学会を超えたカンファレンスもある。
私が参加した日本国内のカンファレンスは、日本各地の大学のキャンパスで開催されて、近隣のビジネスホテルに宿泊するということが多かった。いっぽうで、海外(米・仏・独しかないが)でのカンファレンスは、会議場のついたホテルか、宿舎のついた大学施設だった。
実はこれまで恥ずかしながら、カンファレンスに参加してフィットしたと強く感じたことが、少なかった。
口頭発表をして質疑の時間が来て、ハラハラしていると、何もない。慣例として座長がそうした質疑を何かひねり出すことが多いようだが、それもなかったことがある。無論、説明が下手くそという意見は甘受する。しかし、その面だけではない。
他の発表に参加して、そのそれぞれの研究は、興味深いものであったとしても、一方で、自分がいま進めているテーマとつよく共鳴し、ポテンシャルを高めていけるような研究が見つからないときがあって寂しい。無論これも、私の勉強不足は当然ありうる。
そうした中で数少ない分野上の適合を感じたのが、来月あるカンファレンスの2年前のもので、それは京都で開催された。自分も京都に住んでいたし、実際会場の一つは当時の私のアパートから数十メートルのところにあった。ここでこのカンファレンスは運命だと感じた。
私は進化生物学を専攻してきた。しかし参加してきたカンファレンスはその進化というテーマよりもむしろ、普段使用している研究生物(植物・藻類)のものが多かった。ただ、植物や藻類といっても多様すぎるために、残念ながらその可能性を充分に汲み出すことができてこなかった。
2年前の京都のものはまさに進化であった。はじめてのことであった。
何より私が感動したのは、目にする発表が総じて

序論が長い

ことであった。
進化生物学は方法論的なコアは比較にある。各種の生物を諸々の切り口で比較しそのありうる変遷を問う。そうするとその学術発表は必然的にそれぞれの生物とそれぞれの切り口をともに最初に紹介することとなる。結果として長大な序論となり、それを、決定的な解析を以て、まるでオセロの盤面が幾つかの手で黒白転換させられるように、どんでんがえしを食らわせる……というのが理想ではあるが、ともかく、序論は長いし、大学院でも別の研究室の先生からそういう苦言を頂戴することがあった、大学院生の6年だった。
そして2年前。その長大な序論が常態である場に出会った興奮たるや。
合うカンファレンスを探して、めぐり逢いましょう。