殺シ屋鬼司令II

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生物学論文の付録情報(サプリメント)

PLOS ONEで(動画とかローXLSみたいな準生データじゃないかぎり)サプリメントに実験データや各種の記述を分載することの意義に決して納得しているというわけではない。さすがに実験ノートをサプリメントに生ガチ出し (http://dx.doi.org/10.1371/journal.pone.0025290.s001 PDF注意) は面白すぎるが。
この考え方に影響を与えているのはとりもなおさず最初に論文を書いた時の共同研究者P氏の「基本的には本文に入れたい」という方針だった。その時の論文は長大なlinkage mappingの手順が含まれていて、それは確かに重要な実験ではあった。それは彼が長年進めていた実験であり(私は、競合だったのだ、そして、私がひょっこりと現れてポッと決定的なデータを出してしまったのだ)思い入れが小さいはずはないことも当然理解され、ただその結果として論文、特にMethodsセクションは膨らむことになった。
私はそれを単にベテラン遺伝学者の郷愁のようなものと片付けることはけしてできない。科学という営みを考える上で本質に肉薄する問題提起だと思っている。
サプリとは何か。
それはとりもなおさず、科学者にとって論文とは何か、知識とは何か、科学とは何か、を考える契機となるはずである。
これはつねに明文化して主張する必要はない。むしろ研究者各自の頭蓋という聖堂のなかでひっそりと秘めておくべきことかも知れぬから明示的に書くことは今はしない。ただし、確実にキッチリとオトシマエをつけておくべき問題群のサブセットである。
たとえばCell誌とNature誌を並べて考えれば、Cellに掲載される論文はデータは徹底的で実際長い。20ページを超えるかと思うものさえある。一方Natureは、いわばレター誌という位置づけが適切とされ、4ページ程度のことも多い。ただそのために必要なデータ量は実は膨大で、それが全部サプリにぶちこまれている。
この状況に拍車をかけているのが、いわゆる「ゲノム」論文の普及である。主要な生物だけゲノムを読んでいるのであればまだ「記念碑」程度でよかったのが、最近では、シーケンサー自体の精度が加速的に向上しているために、毎週のように新しい生物のゲノム配列を報告する論文が世に出ている。ゲノム論文はサプリメントに数十ページの長大なサプリメントが付いている。むしろ私のようなその方面の専門になるとサプリメントのほうがおいしい。ゲノム論文の本文というものはステーキについたパセリのようなものというと言い過ぎか。
いま思いついたが、その意味では今では生物学論文にサプリがあるのは当たり前になっているが、じゃあその前はどうしていたのか……というのは、たとえば、学部生向けのレポート課題になると思う。答えとしては、何十ページの論文があったりした一方で、何報かに分けて通し番号を振ったものも今よりは見られたのではないかと思う。そうした実例を昔の論文から引っ張ってきて、分析させ、現在の論文の構成と対比させることで学部生でも論文を書く足腰が養われるのではなかろうか。
あるいは、それに似た所で、「Illustrator(などのDTP)普及以前は、論文のFigureをどう作っていたのか」ということも課題として使えるのではないか。これは私自身が以前疑問に思って、学科の合宿実習で教授に質問したことがあったものであるが、その答えを知って「これってそれのためのものだったんだ!」と思った。今では別の用途(研究よりはむしろ趣味の領域で意識されることが多い)として使用されることの多いあるものがそのために使われていたのである。ズバリ、スクリーントーンとインスタントレタリングということだった。
そうした、技術(特にICT)の進展と研究活動の変遷というのは意識的であるにこしたことはない。これは梅棹忠夫『知的生産の技術』以来の普遍的な命題である。だから、学生レポートとして実地に例を採らせて、手を動かして分析させ、比較して認識する操作を体験させることの重要性は決して小さくはないと信じている。