分析は過去形・問題は現在形・解決は未来形

2020年のオリンピックが東京に決まったという。
Twitterでは東京開催を嫌悪する声が目立った。経済効果であったり復興を看板に掲げていることも散々に忌避者から非難され、意味がないとか色々言われていたようだった。
でも、日本とは遠く離れた時差でスポーツの祭典があると、深夜まで観戦する苦労を嘆く声は、よく目にした。
日本人は少なくない人たちが、スポーツの祭典を時差なく見たい、生で見たい、と思っているらしい、というイメージぐらいはこれまでの30年間で醸成されている。
私はスポーツを見ない。スポーツ観戦の楽しさを享受するために必要な、文法であるルールも、語彙である選手も、ともに把握する能力を欠いている。したがって、スポーツ観戦に盛り上がる人たちに共感はできない。ただし上のように理解はできる。
では順当に考えれば「見たいです」「選手として参加したいです」だから「開催します」ということでよいのではないだろうか。
それはまた、スポーツという「人類の文化」が維持してきた営みについて、自ら責任を引き受けてコミットすることでもあるだろう。スポーツに限らず、藝術や科学も人類の文化として近い意味合いは持っている。
その後の数時間でTwitterを眺めていて驚いた。みな7年後のことを考え出す。これは大きいことだと思った。
すべての策は未来形で記述しない限り効能を有さないのだろう。
よく、「いま」「ここ」などというスローガンが人口に膾炙する。それは問題の記述としては妥当するのだ。問題はそれから目をそらなさいとしても結局解決策は未来から逆算して捻り出すしかないから、そうしないとモチベーションが出ないようである。
これらに引き寄せて考えてみると過去形で記述されるのは分析だろう。いかにも、論文の、あるいは実験ノートの記述というのはつねに過去形で書く旨指導されるのが常だろう。