殺シ屋鬼司令II

世界一物騒な題名の育児ブログです。読書と研究について書いてきました。このあいだまで万年筆で書く快感にひたっていました。当ブログでは、Amazonアフィリエイトに参加してリンクを貼っています。

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「DNAのダーク・レディ」ロザリンド・フランクリン評伝の読書会(読んでない)

ロザリンド・フランクリンというひとの存在は、科学という人類のいとなみがもつ暗黒面を、さらけ出し突きつけるところがある。

現在所属している研究所が、時折セッションを設けて、適正な研究の遂行を啓発していることはかつて書いた。

論文捏造ケーススタディのディスカッション、読書会、ImageJなどのソフトウェアを使用する指針などがテーマになっていた。

毎度それほど驚くほど新しい話題がでるはずはない。

  • 共同研究において共著者たちをどう処遇するべきか
  • 貢献はどうか
  • ラボのヘッドとメンバーの間の仮想や現実の事例

こうした取り組みを通じて考えるということは、ある程度きまりきったかたちに収束してしまう……というのは、最近のニュースに敏感な人でなくとも容易にイメージできるかもしれない。

所員は参加が義務付けられている。
それでも、所員の方で決してその意義を低く見ているわけではない。
事実、所内で近年ある事案があって、研究室がひとつ無くなった。

今回は、DNA二重らせん構造の解明に大きな貢献をしたロザリンド・フランクリンを扱った評伝The Dark Ladyが題材の読書会だった。

出席義務以上に、本それ自体にも興味があったし、アメリカで読書会(book club)というのがどんなものかというのに興味もあった。というより、日米問わず、読書会というものそれ自体に興味があった。

友人と読書会をしたこともある。だが、それはたいていサシだった。参加者ふたけた規模の読書会にでたことはなかった。

一番大事なことは、全員が最後まで読んできているということを前提としないということだ。読書会がうまくいかなくなる最大の原因は、読書会当日までに本を読み終えることができない人が多数出てしまうことだ。そのために出席しない人、出席しても話ができずに疎外感を味わう人などが出てくる。そうして立ち消えになっていく読書会は多い。
読書力 (岩波新書)

今回、わたしは、いくつかの理由で、ほとんど「読む」ということができずに参加をした。

  • 題材が英語の原書であること、
  • 準備する時間がとれなかったこと、
  • 中心的な話題となるはずの内容はほかのいくつかの本でしっていたこと

ということだ。

どういう内容である、と知っていたか?

20世紀の分子生物学の象徴ともいえる、DNAが二重らせん構造であると解明された研究がある。現在それは、ワトソンとクリックという2名の科学者の名とともに想起されることがおおい。事実、このふたりが、DNAが二重らせん構造をとるかたちとして、いましられているようなものを提唱したのはたしかだ。

しかしかれらはその実際の証拠として、まったく別のグループに所属する、ロザリンド・フランクリンの実験の未発表データを、ぬすみみた。

フランクリンのデータは非常にうつくしく、明確だった。
しかし、フランクリンは、そのデータを的確に解釈することができなかった。
そのうえ、所属するチームとの不和とによって、不幸にも、論文として発表することができないままだった。

そしてワトソンとクリックが構造を考案し、1953年、Nature誌にはなばなしく論文が掲載された。
そのおなじ号には、フランクリンたちの論文も、掲載されている。

10年後、DNA二重らせん構造は、重要な科学的業績としてノーベル賞を受賞する。
受賞者は、ワトソン、クリック、そしてフランクリンの上司であったモリース・ウィルキンスだった。

張本人として決定的なデータをみずから得ていながらフランクリンが名誉を得なかったのは、彼女はそのまえに世を去っていたからであった。

分子生物学に少しでも興味を持った人であれば、誰でもが聞かされる、薄暗い逸話だ。

名誉どころか、彼女にははなはだ不名誉な称号があたえられた。

いけ好かねえ女。

ワトソンが回顧録『二重らせん』のなかで彼女を顕彰するどころかこきおろした。

ワトソンは単なる天才であることも、分子生物学の確立と普及に尽力した功労者であることも間違いないが、同時に、人格的に偏りのあるひとだったこともまた誰も疑っていない。

生物学を専攻する大学生のほとんどがこの回顧録を読む。
そして、そのほとんどが同情的に彼女のことを知ることになる。

それは半世紀以上が過ぎたベストセラー『知の逆転』でもビタイチ変わっていない。
既に遠い昔に死んだフランクリンのことを難詰して躊躇わない。

つまり、ロザリンド・フランクリンというひとりの人間と分子生物学の関わりをたどるとき、当時はおろか現在に至るまでほとんどかわらない、科学の暗黒面がいくつも見えてくる。

それは、

  • 男女の機会均等
  • 未発表データの適切な取り扱い
  • 競争
  • 名誉

である。

この評伝『ダーク・レディ』は、『二重らせん』書で一面的に描かれたロザリンド・フランクリンというひとの実像を追い、以上の問題を考える足がかりとして格好の題材であるのはひとまず疑いをいれない。

英語原書のKindle版にてスキミングで記述を追っていって、結局読書会開始までに追い切れなかった。
最初のほうは、生い立ちだ。しかも「イギリスにおけるユダヤ人家庭のありよう」のようなことになる。
どう考えてもそこは今回の題材からは離れているだろうと思った。

英語圏のノンフィクションというと、どうしてもこういうかたちで、記述がうすいという感じを受けることがある。
日本の四六判にして380ページぐらいないと、彼らはノンフィクションとして出版ができないのかと思うことがある。
無論、そのページ数を超えてなお記述の詰まった『ミトコンドリアが進化を決めた』 (参照) のような本も、あるわけだが。日本の出版でよいのは新書版というのがあることだ。

とにかく、それで飛ばして行くと、核心部へと近づいていくことになる。
キングス・カレッジでの研究生活と、キャヴェンディッシュ研究所の面々や当時の大御所ポーリングを始めとする世界の研究者たちとの競争、こここそ議題の中心となるだろうと思って、スキミングのスピードはにぶってしまう。
そうでなくても、サスペンスが高まる。
実際、記述の時系列も、ここがいちばんスローになっている。

そこを過ぎたところで読書会の時間になった。

座長のPIは、さいしょ、参加者がこの本を読んできたか問うた。

わたしは手を上げた。上記のような状態であるにもかかわらずである。

座長はついで、その他の関連する本を読んだことがあるかというのも尋ねた。

案の定というか、フランクリンがウィルキンスのチームで唯一の女性だったこと、つまり男女の発言権の均等についての発言もあった。

また、『二重らせん』でワトソンが口をきわめてフランクリンへの嫌悪をあらわにして憚らなかったので、性格が悪かったんじゃないかという話題もあった。

わたしは、それらはこの問題ではないと感じていた。

読んでいる時もそうだったのだが、わたしの問題はほぼ

ロザリンド・フランクリンは、歴史にのこるあのうつくしいX線回折写真を出しておきながら、構造がほんとうに解けなかったのだろうか?
それはそう考えてしまってよいのだろうか?

ということに尽きた。どうも信じられなかったわけである。
それで、読書会では意を決して聞いた。

「彼女はどうして論文をさっさと出してしまわなかったの? (What was the final piece she needed? Why did she postpone her publication?) 」

で、即座に
「「「モデルが立てられなかったんだよ!」」」
という感じで何人かに言われた。

それで、ああ、そう考えていいんだと思った。

これが集団で本を読むということなのかなと感じた。

要は、らせんのモデルにA型とB型があって、フランクリンたちはAだと思っていたが、ワトソンとクリックはBであると適切に解いて勝利したというわけだ。

内心、ああ、無理解なやつだと思われたかな、と思いつつ、でも、自分としては話すべきことに流れを持っていったと思ったけれど、いずれはそうなったのだろうし、また、この自己満足感というのも読書会のひとつの機能かもしれないな、と思った。
これ、Twitterとかブログに書くのと似ているかも。

もうひとりの座長のPI(彼は、こないだバイオリンの論文を出版した)が言った。

「じゃあさ、仮にだけど、ウィルキンスたちとワトソンとクリックが共同して、著者が三十人ぐらい(笑)ならんで、一本の論文にしていたら、いまのような、DNA二重らせん構造の印象になっているだろうか?」

そうなのだ。

究極的には、反実仮想として、もっとも幸福な……かどうかはさておいて、問題の少ない、ありえた……結末は、データをフランクリンとウィルキンスが、ワトソンとクリックがモデルを考案した、というかたちで、発見への双方の貢献を正当に評価しあい、それをそのまま反映した共著論文であるべきだったのだと思う。

事実、フランクリンのデータと、ワトソン=クリックのモデルが現在知られているDNA二重らせん構造なのだし、実際に双方のチームの論文はNature誌の同じ号に掲載されたし、ワトソンとクリックとウィルキンスの三名が10年後にノーベル賞で同時に評価されていることでも、妥当なありかただったはずなのである。

そしてこのとき、わたしは直観的に、この構造はいまもいささかも生物学において衰えていないどころか、むしろはるかにおおくの研究者たちが直面する問題に重ねてみることができることに気がついた。

個々の生物学者ではとうてい解析しつくせない量のデータを算出する生物情報の海と、そのエキスパートであるバイオインフォマティクスのおかれた、いわゆる「ウェット」(実験生物学)と「ドライ」(バイオインフォマティクス)の対立だった。どちらかといえば数の多いウェット研究者が、けっして正当にドライ研究者を評価していないことがある。このことは「何故現場で役に立つバイオインフォマティクス人材は不足しているのか?」まとめ - Togetterをみるとその一面が伺えるかもしれない。