進化生物学者を標榜しているものの、はずかしながら、これまでリチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』を通読したことがない。
- 作者: リチャード・ドーキンス,日高敏隆,岸由二,羽田節子,垂水雄二
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
- 発売日: 2006/05/01
- メディア: 単行本
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この本は、進化を、遺伝子頻度、いや極端に言えば複製機械の自然淘汰を中心にした説明で通す、という理解をしている。
昔、自分なりに自然淘汰説の6つの条件をまとめたときは、
1. 起源個体(群)
2. 拡散的自己増幅:生殖(無性/有性)
3. 表現型を生成する遺伝型(遺伝型:染色体)(表現型 => 分子レベル~集団レベル)
4. 突然変異:遺伝型の変更
5. 異なる表現型間での生殖能力の差異(これがいわゆる狭義の「自然選択」)
6. 圧倒的に長い時間をかけての蓄積
と考えた。
ただし、「利己的な遺伝子」について重要なのは、発刊当時いまだに根強く残っていた「群淘汰」説を解体し否定するために書かれた本であるということだ。つまり、特殊、その論争の文脈で、読み解く必要がある。
「群淘汰」説というのは、簡単に言ってしまうと、生物の形質の変化を説明するために、遺伝子頻度の多寡以外に「種」などの余計な概念を持ち込んでしまうことをいう。曰く、生物の或る形質は種の保存のためである、等々。それ以外にも、見落とされがちであるが、もっと低いレベル、つまり、たとえば「親子」関係を遺伝子頻度の動態に還元せずに説明に用いることも、群淘汰のうちにはいる。親が子供に餌を分ける、という記述は厳密には群淘汰であって、遺伝子頻度の地平にひきずりおろして考えようということである。
それに対向するために、ほとんどの生物現象を遺伝子頻度の動態(増えたり減ったり)にまで還元して説明してみようというのが『利己的な遺伝子』だった。
実査、地球上の生物がおりなす現象のほとんどは遺伝子頻度で説明ができた。しかし、それではどうしてもこぼれおちてしまう現象が、人間の文化行動だった。確かに、人間の文化性は、遺伝子の多様性に還元することができない。そこでドーキンスは奮然と、ミームという自己複製メカニズムを仮定すれば、自己複製ユニットの自然淘汰という枠組みになって、自然淘汰で統一的に理解ができるよ、と主張した。
したがって「人間の文化性が自然淘汰に乗るか」といえば、イエスだ、ただし、遺伝子のみでなく、ミームという複製機械を仮定してようやく可能である、と論じているのがドーキンスであった。
という理解をしている。
そうなると、次の疑問は、ミームという概念は(いかなる水準で)有用かということになる。
たしかに、遺伝子という概念のもとに推し進められた分子生物学という営みの、20世紀後半における華々しい成功は、同様の複製ユニットとして仮定されたミームを援用し、それにもとづく文化の解析を可能にし解明するのではないかと想像するのも無理はない。
これについては、先程も言ったように、『利己的な遺伝子』という本に限って言えば、自己複製ユニットの自然淘汰という枠組みに、生物一般の進化のみならず人間の文化現象(はい、行動生態学的現象です)を取り込む可能性として要請されたものにすぎなかった。
ここで実際の分子生物学の営みというものを考えると、遺伝子の配列は、それだけ眺めていても何の意味もないもので(じつは個人的には楽しい)、基本的にはただの意味不明な四種類の文字の羅列でしかない。そうではなくて、それを壊してみたり、増やしてみたり、ひっくり返してみたり、縮めてみたり、別のものとくっつけてみたり、また比較してみたりして初めて意味が見えてくる。
いま仮にミーム学というものがあるとして、その営みがどのような行為の連続になるかといえば、それはきっと、「模倣」と「突然変異」というところまで、手持ちの概念を禁欲したときに、通常行われているように文化的な諸現象を記述し比較し読み解き或いは批評することと変わらなくなるだろうというのが私の見立てである。
つまり、新たにミーム学なるものを打ち立てる意味というのはほとんどないのではなかろうか。
そういうところまでを「予断」としてもちながら、いま通読を期して再開しようと考えている。ひとまずの目標としては以上のことを読みながら天秤にかけていくということになる。
現在、増補前の旧版で、155ページ。
- 作者: リチャード・ドーキンス,日高敏隆,岸由二,羽田節子,垂水雄二
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
- 発売日: 1991/02/28
- メディア: 単行本
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