村上春樹『アンダーグラウンド』『約束された場所で』を読んだ

ことしの3月は地下鉄サリン事件から20年であるということもあって、村上春樹の『アンダーグラウンド』と『約束された場所で』をたてつづけに読んだ。

アンダーグラウンド (講談社文庫)

アンダーグラウンド (講談社文庫)

約束された場所で (underground2)

約束された場所で (underground2)

どちらも長い長いあいだ積ん読になっていた。買ったものの読み進まなかった。そのほかの村上春樹の本はかなり踏破したけれど、この2冊は険しかった。インタビューごとにテンションがリセットされる。なによりテーマが重たい。
そして節目の年ということがあって、一念発起して、ひとまず通読を目指した。

事件が起こったのは1995年3月20日で、この日を覚えているのは私は小学校の卒業式を終えて帰ってきたところだったからである。

それから20年経っている。そうすると、勤め人としてその場に居合わせた被害者の方々の幾人とは、いまやさして人生のステージとして変わらない。

必然的に読み方は、事件を読むというよりも、各々の人生を読み、それがたまたま巨大な撹乱にあったというような構えになった。ひとりひとりがどう仕事をし、どう家庭をまかない、生きていたかということを読み、その運動をサリン事件がどう介入してしまったのか、どう変化したのか、ということを読むことになった。

とりわけ興味を惹かれたのは、両書が与えているオウム観への揺さぶりのかけかたが微妙に異なることだった。
アンダーグラウンド』のほうでは、信者というのもある意味では自分たちと変わらないのではないかということを被害者へのインタビューを通じてひとつ問いかけられたわけである。
しかし、『約束された場所で』で信者側の声に耳をそばだててみれば、むしろ、やっぱりちょっとこれは互換性がないなという思いさえする。それは一人目のインタビューからそうなっている。そうした、やはりかなり偏りの強い人たちの話を引き出し、時に議論を構えながら、巧みに言葉を操っていく。
そうやって読んでいると、最後のインタビューに来て、インタビュアーの村上春樹が一転、つかの間、圧された。
驚いた。
最近、村上春樹が一般からの質問に回答するという、何度目かの企画が進行してきたわけで、そうしたものを読むと、するりするりと質問をうまく答えている。そういうのはやはり言葉を巧みに使うプロフェッショナルだなあと思わざるを得なかった。
それが刹那、圧されたのである。
つまり、世界の薄皮を一枚めくった奈落の存在というのが村上春樹の小説でよく指摘されるありようであるとは思うのだが、最後のインタビュイーはその当の村上に対して、世界は薄皮一枚めくると奈落ですからねと、さもこともなげに言ってしまうので、村上があわてたそぶりさえみせる。

これらの重たい本が読み終わったので、次なる積ん読でさらに重たい大西巨人神聖喜劇』に進んでみた。
神聖喜劇も2002年に文庫で復刊したときに購入して以後長い間積んでしまっていた。こちらもまた節目の年で、第二次大戦から50年である。
まず分量が多い。また中身も、主人公が超人的な記憶力を有するという設定のもと、軍隊の教練の文章の文言が引用というカタチで掲載されているので、スラスラと読むという訳にはいかない。しかもあちらこちらへ脱線する。

なにかこの本を抵抗のよすがとして見なすような例もあるのだが、どちらかというと私はこれはスラプスティックな面白さだと思ってケタケタ笑いながら読んでいる。しかし、それにしたって長い。