連休に一泊二日の二人旅に出て、夕飯をたらふく食べたあと、かねてから観ようと申し合わせていた「ボヘミアン・ラプソディ」のレイトショーに入った。今住んでいるところでは、普段はレイトショーは、終電が困難であることがあるため、観ない。しかし旅先では宿を取っているので、少々遅くなっても歩いて宿に戻ることができる。
クイーンの曲は昔から大好きでよく聞いていた。しかし全曲に精通しているというわけではなくて、グレーテストヒッツの類を繰り返し聞いていたという意味だ。
映画としてはとても見応えがあった。移民の生い立ちからロックの頂点に駆け上がり、歴史に永遠に残る名曲を星の数も作って、病に斃れたスター、フレディ・マーキュリーの生涯をドラマティックに描いている。登場したセットリストはストーリーとよく共鳴して配置されており、歌詞の意味を思い浮かべながらこみあげる思いが強かった。
主演のラミ・マレックという俳優を初めて知った。フレディの仕草・癖として印象に残っている動きが息づいていたし、近年稀に見る名演だった。癖を作り出すということで思い浮かべるのはヒース・レジャーが演じた「ダークナイト」のジョーカーだった。もっと遡れば、「レオン」でゲイリー・オールドマンの演技も印象的だった。癖というのは萌えポイントなのだろうと思う。
批判ということではないが、フィクションにありがちな「無理矢理直面させられるクライシス」みたいなものがないことに気がついた。それはそうで、もちろんクイーンというバンドの歴史で危機はいくつもあったしそれらを描いているわけだが、わりと軽い。実話に基づく作品の慣れがないのかもしれない。もうその実話として知っている経緯がどうやって実現するのかということになると、緊張が緩んでしまうところがある。つまらない、と言ってしまうと言い過ぎだし、クイーンは確かに最初から才能に溢れていたから早く見出されて正当な評価を受けていたのだということだろう。
その中でやはりいちばんのドラマの駆動力になっているのがフレディの病と迫りくる死ということになっている。これも史実とは時期的にやや前後が組み替えられていていかにも寓話らしいという話は映画を巡ってよく語られている。
だが、それがどうしたというのだ。
名曲「ボヘミアン・ラプソディ」が映画の題名にもなっているのは、曲のなかで人を殺した少年があげる叫び声を基本的にはそのまま映画のストーリーにしたということができると思う。もちろん、バンドのメンバーの誰も人を殺したわけではないが、ひとつひとつのフレーズが、フレディの人生とそこからの飛翔を反映するかのように聞こえてくる。
バンドメンバーの間の関係性は美しすぎるほど美しい。四人がお互いの存在を必要としていて、基本的には長年にわたり最高の協働関係を築いたことが描かれている。みなそれぞれに音楽性のこだわりを持ちながら作品を創っていったのだろう。劇中、フレディ以外のメンバーは家庭を構えていき、人生としては落ち着いていくことになるわけだが、音楽的には「ボヘミアン」=はぐれものとしての意識を持ち寄っていたということが描かれる。その意味でも、ボヘミアンたちの狂詩曲という映画なのかもしれない。
また、字幕で観たので劇中のセリフは英語の原文が聞こえて、英国風にとても気が利いていて面白かった。
マイノリティという問題もこの映画では幾重にも浮かんでいる。エスニシティもセクシュアリティも、そして身体的特徴の自意識も絡む。それぞれに悩み、思いを持ち、そして引き受けて生きるという姿勢が描かれ、葛藤の中でクイーンというバンドでフレディが創造性を発揮していったということも自然に感じられる。マイノリティのエスニックなバックグラウンドがありつつ人気の絶頂にのぼったことは、作中でも同時期の存在として言及されたマイケル・ジャクソンの例とも符合している。正直いまからは想像が付きにくいのだが、人種意識とポップカルチャーの相剋というのは70年代はかなり強かったらしいということが、以前読んだ西寺郷太『ウィーアーザ・ワールドの呪い』などから教えられた。この本は、「ライヴエイド」ムーヴメントの背景となったアフリカの飢餓を救う「バンドエイド」活動の時期に焦点を当てつつ、そこに至るポップミュージシャンたちの列伝にもなっていたので、今回の映画を見るのにも良い予習だったと思う。