殺シ屋鬼司令II

世界一物騒な題名の育児ブログです。読書と研究について書いてきました。このあいだまで万年筆で書く快感にひたっていました。当ブログでは、Amazonアフィリエイトに参加してリンクを貼っています。

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美容整形のお医者さんになりたいという子供科学電話相談の質問者

冬休みの子供科学電話相談を聞いていた。

電話相談では専門家はだしの質問をするような子供がある。

おおきくなったらなにになりたいのかな?

この数日のことでは実はない、いつだったか忘れたのだが、そうした子供の懸命な質問に「ほおー」と思って聞いていると、アナウンサーが、XXさんは大きくなったら何になりたいのかな? と聞く。

子供は勢いよく応える。

「美容整形のお医者さん!」

過呼吸になるかと思うぐらい爆笑した。

その質問者がお医者さんになれたのか、あるいは、その意図がどういうところにあったのかはもちろん知る由もない。

そこにどういう気持ちがあるのか、しばらく瞑目した。

親の狂気

いったい義務教育も終えず、おそらくはまだ美容整形のお世話になるようなことのない、そもそも成長すら途上にある子供がなぜ美容整形を目指せるのだろうか。

真っ先に浮かんできたのは「二月の勝者」だった。

いわば「ドラゴン桜」の中学受験版として話題を集め、(首都圏の)中学受験の現実をとらえるマンガとしてブームになっている。

いわく、「中学受験は父の経済力と母の狂気」と。

わたしは中学受験には縁がなかったので、知らない世界をこのマンガで学んでいる。

大人になって、子供もできた段階で、自分の母に、小学校とか中学受験させようとは考えなかったのか、と聞くと、小学校は(するとしても大学附属小学校しかなかったが)父親が「せんでええ」といい(言いそうなひとだった)、中学校は4年生から勉強するのが普通と言われ、当時すでに5年生になっていたらしくスゴスゴとあきらめたらしい。そういうわけで、受験というものは高校までしたことがなかったし、その高校受験のときのこともほとんどおぼえていない。

人工知能に置き換えられない職業という議論はデタラメだと思う

その子供が質問していたのは、人工知能でどういう仕事がなくなってしまうのか、ということだったと、いっしょに聞いていた妻が覚えていた。

そういわれて確かにそうだと思った。

一般的にはたぶん、例えば医師、とりわけ美容整形のような職業は、人工知能に置き換えられないものであるといわれるように思う。正直なところ、どれが置き換えられて、どれが置き換えられない、という議論は、あまり把握していない。どうでもいいからだ。

例えばわたしが最近取得した電気主任技術者にしても、人工知能で置き換わらない仕事だという議論も目にする。

わたしはそれは大いに疑問だと思っている。

人工知能の花形の自動運転にしろ、電気主任技術者にしろ、医師にしろ、結局のところ、なにかあったときに詰め腹を切らされる要員が問題になっている、というところをみのがしてはいけない。

そもそも論として、たぶん、意識ということが問題になっているのはそれが帰責の対象になるからだ、ということを、戸田山和久『哲学入門』を読んでいるときにかんがえた。

個人的には原理的に人工知能で置き換わらない職業なるものは存在しないと思うが、結局詰め腹を切るのも、逆に切らせるのも、ヒトの個人だというのはかわらないだろう。

学術研究者にしたっておなじで、自分勝手に実験したり観察して新奇な諸分野の知識なるものを無限に吐き続ける人工知能が出てくることをわたしはひそかにこころまちにしている。そのときわたしの学術研究という職務はなくなるのだが、しかし、それを神ならざるヒトの身が理解するように翻訳する仕事はまだしばらくあるだろうし、それすらも人工知能がするというのなら、よろこんでその任をなげうちたい。そしてただ、「食糧人類」のチューブから肥育液がながれでてくるように、人工知能が垂れ流す知識を嬉々として飲むだけでよい。

結局なぜ自分が科学をするかといえば当然、美容整形のお医者さんになるのでもなく、ノーベル賞が取りたいわけでもない。給料のためではあるが、やはりちょっとは自分のなかで気になるというのも正直なところとしてあるのでやっている。

それが自動的にわかるというならその気になる気持ちが解消するということなので、いい。給料はまた別になんとかして稼ぐだろう。