目次
はじめに
平井靖史先生の『世界は時間でできている──ベルクソン時間哲学入門』を読みました。分厚い本ですが、平易に説明が始まり、一気に読んでしまいました。
19世紀と20世紀にまたがって活躍したフランスの哲学者であるベルクソンの思想、特に『物質と記憶』を手がかりに、時間と意識を理解する本です。
もしくは、時間と意識に対して哲学が投げかけてきた誤解をときほぐそうとする本です。
そうした説明や誤解の解消のために、各章ごとに考えもしなかったようなアイデアが展開してきます。
興味が持続して、読んでいて飽きている時間がありません。
ただ展開を把握するという点では、目次を眺めるだけではわかりませんでした。
わたしがこれまでに考えたことのないアイデアで構成されているのですから、読んでみないとわからないのは当然でした。
本文自体が平易なので、内容を把握するためにはわからないところがあってもひとまず飛ばすというやりかたのほうが使える、と、これからお読みになる方には申し上げたいです。
まぎれもない哲学入門
『世界は時間でできている』は「ベルクソン時間哲学入門」という副題がついている。この「入門」は、ベルクソンにも、時間(哲学)にもかかるけれど、なにより私のようなアマチュアにうれしいのは、「哲学」にもかかっている、と思う。
私としては自分がこれまで読んできた中でも傑出した「哲学」の入門として読んでいる。ですが、書籍紹介・概要には「時間」のことをフィーチャーするにとどまっているので、ここでは「哲学入門」であるということを強調したい。
わたしが読んできた哲学の入門書でいまもこころにのこっているのは、中島義道『哲学の教科書』、左近寺祥子『本当に生きるための哲学』、戸田山和久『哲学入門』というあたりです。
これらの本はわたしをかたちづくるのに重要な役割をはたしてきました。
そして今回の『世界は時間でできている』は、わたしの気持ちのなかでは、これらの本に置き換わるものとしてすでに認識が固まっています。
哲学入門というのは、哲学の問題を提示しながらそれにとりくんでみせます。
時間や意識や存在のような問題に、歴史上の哲学者は様々な思想をたててきた。
そのとりくみかたというのは、言葉や概念をひとつひとつ明確にしながら問題として提示したものをときほぐしていく。
つまり、見方・考え方を変えることによって、「ほんとうは問題でもなんでもないものを、別の視点からしか見ていなかったために問題として誤認していた」ことがわかるかもしれない。
それを実演してみせる。
あるいは逆に、問題とはつゆほどもおもわれていなかったものを、実は大変な問題だったということを指摘することもある。
哲学の古典は(たとえ翻訳でも)なかなかひとすじなわでは利用しづらいことが多いです。
いきなり古典・原典に取り組もうとしてもうまくいかない経験が多かった。
それよりも、入門を読むことで随分手がかりがつかめることもおおい。
そしてこの『世界は時間でできている』は、哲学が問題としてきた時間や意識という、相当ラスボスに近い概念に取り組む入門書になっています。
なお、『世界は時間でできている』の注では、この本が哲学一般の入門ではないということわりがきがついています。
ただわたしからみると、たとえ哲学一般の入門なるものがあったとしても、それはなにか特定の問題に取り組むことにほかならなかったように思います。
その意味で言えば、やはりなにか特定の問題に対して入門者という経験が浅い人間がふらっと読んで読み通して考えて議論ができるようになる(なった気がする)本書はやはり哲学入門にほかならないですし、哲学一般へと入門するために役に立つとも思いました。
ただこの本はあくまで「時間」という問題を「ベルクソン」という哲学者をたどりながら解きほぐすもので、時間という問題に対して古今東西の哲学史からどう考えられてきたかをすべて網羅しているわけではありません。そこは自分で補完していく必要はあるでしょう。
『世界は時間でできている』の構成と特徴
時間という哲学の問題を扱う『世界は時間でできている』の流れはシンプルといえばたいへんシンプルです。
時間スケールを短いスパンから長いスパンまでどんどんつないでいく。
先日著者の平井先生が『世界は時間でできている』出版に関連して開催したトークセッションを視聴しましたが、その際の登壇者紹介で司会の先生が、平井先生といえばガンプラが大好きで、それもものすごいディテールに入魂するような哲学スタイルなのだというくだりがありました。
そうしたことばを念頭にこの書評を書いているわけですが、たしかにこの本も、時間という現象を、極小の、光の波1回分というところから始めて、われわれ人間の一生というまことに長大なスパンまで、まさしくプラモデルを組み立てていくかのようにイメージすることができるのかもしれないと思いました。
その過程で、どこをプラモのパーツと捉え、さらにどことどこを連合させていけばよいか、という手際が、哲学者の手腕です。
この本は哲学の本ですが、認知や知覚、そしてその基礎となる光のような物理現象を扱う以上、物理学者や心理学者といった関連する諸分野の専門家との共同研究・議論を通じて執筆されたということがわかります。
哲学の原典を読むと、ベースになっている知見がかなり問題に対していまと比べるとプリミティブすぎて、「いま」問題に取り組むうえでどう自分が考えていいのか迷うことになり非常に不満を覚えることが多々ありました。
そういう意味で、『世界は時間でできている』は、120年以上前に書かれたベルクソンの『物質と記憶』に依拠しているとはいえ、それを積極的にアップデートするものです。
『物質と記憶』をパーツから完全にリビルドしようとした本ということができるのかもしれません。
また、著者のユニークなのは美術大学で油彩を専攻されていたということがあります。
美大ではデッサンのような基礎技法の訓練を行うわけですが、そのときの経験についてこの本の中でも言及されています。
視覚のような知覚には経験や習熟度などが非常に影響力を及ぼすという認知現象を説明するために、美術予備校でデッサンを訓練していた際の「回り込み」を表現するときにおぼえた戸惑いを語っています。
今なお、私の知覚野は、「回り込み」や「彩度差」や「マッス」で賑わっている。
つまり、哲学というさまざまな言語や概念の操作に長けているだけでなく、そもそも知覚のレベルでの訓練を受けている著者によって書かれているということは、本書の価値を高めています。
本をおすすめするという話はここまでにしておきます。
自分がつまづいて、いまも頭を捻っている点
凝縮説とクオリア
本は「登山」になぞらえてはじまり、その四分の一きたところに突如、「凝縮説」という絶壁が出現して「?!」と思いました。しかし、粗視化と引き延ばし、そしてスケールギャップが生じるような感覚ー運動システムと生じないそれとの対比というのを考えれば、確かに考えたこともなかったアイデアに出会ったといえます。
スケールギャップに着目するところに、シュレーディンガーの『生命とは何か』で、「分子はなぜこんなに小さいのか?」を「我々は分子に対してなぜこんなに大きくなければいけないのか?」に転換した、個人的に分子生物学史上最大の大どんでん返しのくだりを連想しました。
つまり凝縮説をシュレーディンガーに倣ってパラフレーズするなら、「物質の時間はなぜこのように短いのか」を「われわれの意識の時間スケールは物質の時間に対してなぜ長くなければならないのか」と転換することになる。
あくまでこの『世界は時間でできている』では、当然「時間」にこだわります。
凝縮説は、この本の中で最初の難関でした。
正直、読み終えた今も、わかったといい切れない。
いちばん大事なところのはずなのですが、何度読んでもわからないのです。
それはクオリア(感覚質)が生まれるところです。
そもそもあまりクオリアがどういう問題なのか、自分でよくわかっていないところがあります。
クオリアというと「ありありとした赤色の感覚」という表現がよく使われます。
わたしも赤色というのはわかります。
また、いろいろ読んでいて、それが色覚多様性のような話でないことも知っています。
そこでわたしはどうしても「じゃあ、赤っていう知覚を見たときに、快とか不快とか感じるっていうのかな?」と考えてしまいます。
そうした知覚と感情がリンクするという話にばかりイメージしてしまう。
実はこの本でも、そのクオリアの問題意識は私は十分に捉えられませんでした。
すると、連鎖的に、クオリアが実在しなくてはいけないということもよくわからない。
さらに、いくつもの物理的な素現象が、生物に感覚されるときにクオリアが生まれるというのが、物理現象のミクロ性が失われる分を「量ではない識別次元が新しく開拓され」ることで補填されるということもやはりわかりませんでした。
ただ、その物理現象から生物現象の間に差があるということはもちろんわかります。
物理現象が極小で、生物現象がそれに相対して過大であることもわかります。
また、生物を感覚・運動システムと捉えることも何の違和感もありません。
わたしは植物学を専攻してきたため、一般の生物を表現する上では「受容・応答システム」と頭の中で翻訳していますが。
その上で、当のクオリアの出現の部分だけは、やはりわからないのです。
相対性理論で質量とエネルギーが等価であるということは知識としては知っているのですが、クオリアもそれに似たようなことだとしても、その背景がわからない、ということです。
この問題については、『世界は時間でできている』を読み直したり『物質と記憶』『試論』を読んでみて、あらためて考究したいと思います。
記憶
また、わたしにとってもうひとつつまづいたのは、記憶のところでした。
これも『世界は時間でできている』で扱われる重要な問題の一つであるため、そこで足踏みをするというのは自然な流れだったと思います。
さて、ベルクソンはこうした包括的な意味での体験が、「それ自体で」保存されると考えている。「それ自体における保存」とは、「他のものに収納するのではない保存」ということであり、言い換えれば「 媒体なしの保存」である。
正直字義どおりにイメージすることができずあたまをひねり、もしかすると、エンコードなしの保存、ということなのだろうか、と考えました。
どうしても痕跡の比喩が使いたければ、時間に書き込まれると言ってもいい。
この「時間に書き込まれる」というのは戸惑うが、私のいまの理解から言えば、記号化とか符号化とか外在化とか客観化とか疎外かもしれませんが、つまり「別のもの」にするわけではない、という言い方になるのかと考えました。
しかし、自信がありません。
『物質と記憶』を読んであらためて考えます。
人間(神経)中心主義ではないだろうか?
ベルクソンの哲学について考究しはじめてから、ひとつ不安だったのは、その思想が人間中心主義・神経系中心主義に一見すると至りそうになっているようにみえるところでした。
クオリアとして凝縮されるそのメカニズムは『世界は時間でできている』ではことさらに明記されることはないが、生物学を念頭に読むとどうしてもそれは神経系をベースにしています。
感覚質は体験質へ、さらには人格質へと凝縮を多段階に繰り返す。
これは、要するにシステムのヒエラルキーをあがっていくということとひとまずは理解しています。
そのヒエラルキーをのぼるのが、わたしがこれまで考えがちだったように、下位構成要素の「数が増える」とか、「種類が増える」と捉えるのは、ベルクソンの考え方からすれば「空間化」にあたるらしい。
そこを禁欲し、それぞれの「時間」を基軸として、ヒエラルキーを踏み登っていく、というのがベルクソンの持続と凝縮からなる、創発現象の描写とイメージした。
そして、このヒエラルキーの上方移行が可能になって開かれるのが記憶と人格・意識や心、そして自由といった、非常にセンセーショナルな概念ということだった。
これが、ややもすると人間中心主義になるのではないか、というのが(神経を利用しない、ともすれば「運動」しない生物を扱う生物学者としての)わたしの不安でした。
どうしても神経バンザイ・脳バンザイと書かれているという読み方をしてしまうところが私にあります。
創発には単に感覚・運動システムだけでなく、さまざまな受容・応答システムがある。
ひとまずはこれは、この創発を「神経でやってる」と捉えなければいいのかもしれません。
そうした点を念頭にベルクソン『創造的進化』に取り組んでみればいいのでしょうか。
最後に
わたしにとって『世界は時間でできている』で自分の知識が根っこから再構築されている気分でした。
特に、物理法則から生物現象、そして生物現象でも分子→細胞→組織→個体→……とヒエラルキーをまたいで考えていくことを「創発」として考えてきましたが、本書ではその創発を、単に数や種類として考えるのではなく、「時間」を軸に考えればスッキリするのではないかというアイデアを手に入れることができたと思います。
これは自分の研究分野で、緑藻クラミドモナスのような単細胞生物から、ボルボックスのような多細胞生物として連合していった(かのように見える)進化を表現する上でのアイデアとなる予感があります。
最終章直前には既に理解がいっぱいいっぱいだったが、あまり気にしていない。2020年代、あるいは40歳代はこの本をよすがにベルクソンを考究していようという決心になっている。この感覚は記憶があります。2002年に、進化生物学に出会った時と同じ知的衝撃でした。