科学考証といえば「シン・ゴジラ」公開の頃に
進化じゃない! 変態だ!
と盛り上がるネットを横目で見ながら、ちょうど公開直後に参加した進化学会で
「進化だよね……」
「うん、進化だ……」
という会話をしたことを思い出す。
科学考証といえば「シン・ゴジラ」公開の頃に「進化じゃない! 変態だ!」と盛り上がるネットを横目で見ながら、ちょうど公開直後に参加した進化学会で「進化だよね……」「うん、進化だ……」という会話をしたことを思い出す。
— 浜地 貴志 (@hamajit) 2022年1月26日
キムラw わたしは典型的に字が汚いほうでした。後にひとに手紙を出すようになってやや改善したが普段はいまでもたいそうなものです。字の巧拙と数学力 相関は「ほぼなし」: 日本経済新聞 https://t.co/BHzg2pdqvx
進化学会だから進化の理解が正しいわけじゃありませんが、すくなくとも進化について見たり聞いたり考えたり話したり書いたりしている〈量〉は多いのは間違いない。
そういう立場からしても「シン・ゴジラ」での「進化」という表現を無碍に排除することはできなかったんですね。
すこし言うと、個体の中での変化が通例では変態と呼ばれることに当然作中では意識的です。
現に登場人物に、形態の変容をいちどは「変態」と口にさせながら、その後おなじ登場人物に「進化」と表現し直させていることでもわかります。
変態だとおもっていたのが作品内の時間経過とともにその認識が変容して、また進化になるんです。
そもそも進化の面白さというのは、わたしの場合、認識の変容それ自体であるといってもいい。
だからそういう過程があらわになってるシン・ゴジラという作品はわたしにとって、最高にアツかったんですよね。
では、進化だというならばそれはどういう視点からか? というのはあらためて説明が必要でしょう。
いくつかの考え方があると思いますが、わたしにとってはまず、変態はプログラムされた発生過程・パターンとして捉えられるものです。つまり、クローズド・エンドなパターンとして認識されます。
ただ結局「シン・ゴジラ」は1個体しか出現していない以上、それがプログラムによるものであると結論することは躊躇われる。
何個体も観察して、ああ、やっぱり蒲田くんは品川くんになって鎌倉くんになるんだねというならいいのだけれど、そういうわけにはいかなかった。
むしろ、どういう帰結が生じるのかわからない、オープンエンドな過程であるととらえたほうが無理がないですし、そうした言及が作中でおこなわれています。
そして、そのオープン・エンドな変化というのはまさしく、進化にほかなりません。
単に「個体のかたちがかわったから変態」というわけではないわけです。
個体の中でも、実際に、個体のなかでの疾病である癌の出現などは、ある種の選択過程が進むことだとして、進化学のカンファレンスで議論されてもいます。
以前公開した科学的見地からの考察は以下になります。
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