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疎遠になったまま永遠のわかれとなった肉親を弔う
疎遠でほぼ絶交状態になっていた兄の急死で身辺整理をした5日間の経験を村井理子さんがおかきになったエッセイです。
村井理子さんの名前は、「ぎゅうぎゅう焼き」などの料理にかんするトピックでみたことがありました。
そのほかにもエッセイストや翻訳の分野で活躍されているということでしたが、こうした家族を題材にするかたというイメージがなかったので意外におもいながら、てにとりました。
生前は葛藤と軋轢の関係だった兄の存在とむきあい、兄が生前にもったさまざまな関係、とくに、兄と同居していた甥と、その母親である、村井さんの元義姉らとのあたたかな関係性を、まっすぐとらえてえがきだしているすばらしいエッセイでした。
ウェブではその兄の死に様を孤独死と表現している記事があったが、息子と暮らしていたのでいわゆる孤独死とはちょっとちがうのではないかとおもいましたが、おおきな問題ではないですね。
ひとばんでよみきってしまいました。これは、わたし自身が、けっして同一ではないですが、ながいあいだ音信不通であった父の10年前の死のことをおもいうかべながら読んでいたからかもしれません。
わかれたあともつながっている縁をつたわっていくこころのふるえ
エッセイとしては、突然の状況にとまどいながら事態にたちむかう、そのとまどいや混乱までふくめてそのままえがかれているのがすばらしいです。
うえで書いたわたしの父の死のことを、わたしはいつかかいてみたいとおもっているのですが、そのときの参考にしたい、まなびたいということで読んでいるところもあります。
また、兄の終の棲家をともに片付けた元義姉たちとの関係性や、彼女らのこころのふるえもゆたかにえがきだされていて、こころがあたたかくなりました。
ひととひととの関係性・縁というものはたとえ物質としてきえてものこっている。だからこそあらためて大切にしなくてはならないのでしょう。
しがらみのテンションと、その解放のカタルシス
村井さんは非常に知的なかただというのはこの本を読んでもはっきりわかるのですが、そんなかたでも、兄が家を借りるための保証人になるのがどうかんがえてもフラグ、つまりやっかいごとをかならずよびこむとわかっていながら、やはり保証人になってしまったり、お母様の葬儀の際におかねをわたしてしまったりすることが印象的でした。
これは依存症などの枠組みでは「イネイブラー」ということだな、とピンときました。
おそらく、村井さん自身もそうしたことはわかりながら、それでもとめられなかったのかもしれない。
そのほかには、兄の遺品を、ゴミ処分場ですてるときの勇ましいかけごえのひびきが読んでいてひびいてくるようでした。
ある意味では兄がいきているあいだかかっていた緊張関係が、存在を喪っていっきに解放される。アリストテレスのいう「カタルシス」のような効果をもたらすということなのでしょう。
それで、おもたいはなしでありながら、どこかさわやかな読後感をのこしています。