読んだ。あらゆるハウツウ本を爆砕する勇敢な本だ。
非常に重要なことが書かれている本だ、と私は思う。ただし、それを読み取るのは、残念ながら一筋縄ではいかない。この本に書かれていることの全てがその「重要なこと」に整合的であるわけではないからだ。いくつかは明らかに齟齬をきたす。それを注意深く分けていく必要がある。
正しい読み方の前に、間違った読み方はいくつか確実に指摘することができる。
もっとも間違った読み方は、巻末の「有限性を受け入れるための10のツール」だけ読んでそれを実行しようとすることだ。
次に間違った読み方は、この本を読みながらなんか色々やったりやめたりしようとすることだ。
そのふたつは何より、読み込んでいく前のわたしがやろうとしていたことだ。
SNSとかスマホをやめようとか、マインドフルネスをしようとか、資本主義が問題だとか、カフカが婚約者と延々と文通ばかりして最後に破局したとか、本を読もうとか、そういうことは書かれているが、そういうこと全ては割とどうでもいい、というぐらい衝撃的なことが私には迫ってきた。
ひとつは宇宙的無意味療法Cosmic Insignificance Therapyだった。わたしは『ホモ・デウス』でこれは逢着していた。あるいは般若心経でもあるかもしれない。
ふたつめはあらゆるタイムマネジメントは失敗を余儀なくされているという指摘だ。
これはそのまま読めば単にハウツウ本は意味無いよねというシニシズムだ。そこで皮相的にハウツウ・ライフハックを揶揄するのがこの本の読者の9割なのではないだろうか、と訝しむ。
しかし、ひとたびそこを超えて考えたとき、そもそも取りうる行動の選択肢に優劣をつけうると考えることが崩壊してしまうことに気がつくだろう。
これはおそらく資本主義どころか、近代を貫く主知主義そのものの否定になる。
進歩を否定してラッダイト主義に走ってもお釈迦様の掌からは逃げることはできない。
それもまた、選択肢の優劣の軸を別様に転倒して取ろうとしたにすぎないで、別様のハウツウをしているにすぎない。
みっつめはその帰結として、その時点で熟慮して……つまり、明らかに自分の望みと矛盾したりするというような……行為を取り除くなどしていくつかの選択肢を選びだしたうえで、どれにするか悩むけど、その段階ではもうどれを選んで踏み出しても、行為したことはなんであれ基本的に肯定されることになる。
こうしたことを考えると、いくつかこの本には指針が書いてあったり、ラッダイト的なことが書いてあったりするのだが、すべて本のもっとも恐るべき部分からすれば消し飛んでしまうのだ。
こうしたことを(わたしが見る限り)読み抜ける読者はあまりいないのではないかと思う。
例えばTwitterやめるというようなことも、瑣末なことになってしまうからだ。
この本は、いわば「われわれはうまく時間を使える」と考える発想自体が罠というか爆弾に変わるスタンドだ。
よっつめに、指針というよりも指摘として、休息をしている時に感じた「違和感は、あなたがまちがっているという意味ではない。/ むしろ『絶対にやりつづけるべきだ』というサイン」というくだりには大きく目を見開いた。
これが、選択肢に優劣をつけていく姿勢からログアウトするトーテムだ。
読者はこの一見してハウツウ本をハウツウ本として読まないでいられるか、そして著者自身もハウツウ本として書いてはいけないのに少しはハウツウ本めいて書いた方がいいのではないかという誘惑や観念に引き摺られて書いてしまった部分があるとわたしは見ている。その意味で読者は挑戦されている。
およそこれらのことをもって、この本での間違った読み方と、実のある読み方の双方を指摘し得たと信ずる。
とりあえず美術館に行ってみたい。