怒りを手放したり克服したりということは大事だとよくいわれる。
なぜ大事なのか。
どう手放せばいいのか。
誰がそんなことを言っているのか。
有名なところであれば、アルボムッレ・スマナサーラ長老が上座部仏教の見地から書いた『怒らないこと』シリーズだ。
この2冊はわたしも最近読んだ。
そして、自分が最近考えるに至った結論がすでに出ていることにホッとした。
目次
『ホモ・デウス』で
最近私は怒りを手放すように心がけ、試みている。
それができるようになったのは本を読んだからだった。
『ホモ・デウス』だ。
この本のなかに、一切は無意味だということが書いてあった。
それがなにか重大なことを告げるように書いているのではない。
むしろ、それは当然だよね、この世界の万物ってのは無意味なのは明白だよねということがベタに書いてあった。
それがわたしには衝撃だった。
「いや、そうだけどさ。そんなにペロッとしゃべっちゃっていいんだっけ?」と焦った。
この「一切は無意味だ」というマントラを使うと、いともたやすく怒りが霧消する。
ストレスで怒りやすくなっている
はじめて怒りを何のストレスもなく手放すことができたのは、乗り合いバスの車内であった。
バスの中で、声を出してしゃべっているひとがいた。
声を出した発話は、新型コロナウイルスの感染リスクがある、と認識している。
しゃべっているひとの前にいて、口からコロナウイルスを含んだエアロゾルが、超音波加湿器の要領で噴霧され。マスクの隙間から漏れ、それが私の気道へと到達し、感染し、その結果家族が感染し……という過程を想像した。
まずその過程に対して、これまでなら怒りが自分の中で発生しただろうと看た。
そしてその怒りを手放したい、支配されたくない、と思った。
そのときどうしたらいいかと考えて出てきたのが、「一切は無意味だ」というマントラだった。
このマントラを思い浮かべた途端に、怒りは消えた。
「自分が感染する、家族が感染する。なるほど。でも、だからといってそれに何の意味があるの?」
それで一瞬で、おしゃべりが気にならなくなった。
同じようなことが、日常生活で延々と続く。
マスクをしない電車の客や、業者に回収してもらうはずの実験サンプルが回収されないままになっていたことなど、あらゆることで「一切は無意味だ」と観じて怒りが消える。
ふつうこういう場合に怒りを鎮めるのは「きっとなにか理由があるのだろう」という、あの「想像力」による。
わたしはどちらかといえばそうした想像力というものを強要されることがずっとキライだった。
しかしこの「一切は無意味だ」というアイデアには逃げ場がない。
絶対に成立する。
想像力が全くいらないところが素晴らしい。
「一切は無意味だ」という劇薬
「一切は無意味だ」というマントラは劇薬中の劇薬だ。
ベタにニヒリズムだと、考えてしまうのも一見無理がない。つまり、虚無主義であると。
まずはそこで「怒りは虚無主義よりも悪い」と考える。
怒っても問題は解決しない。
異議を唱えることは大事だが、その訓練で余計なコストを支払うべきではない。
怒ると、怒りに「熟達」する。
それは、怒りによって得られる問題の「解決」よりも実はよほどおおきな問題を引き起こす。
もっといえば、スマナサーラ長老の本などを自分なりに解釈して言えば、「怒り」と「幸福」との関係は、「怒り」に反応してそれを解消していくことでいつか「幸福」に至るのでなく、むしろ、徹底的に「怒り」を手放していくところにしか「幸福」が実現しない、ということなのだと思う。
「怒り」と「不安」の類似
同様に、「不安」も手放すことができると思う。
怒りが何だったかといえば、畢竟、「主観の中で期待していたことが叶わない」ということだ。
言い換えれば、「期待の破断」とでもいえるだろう。
一方、「不安」が何であるかといえば、それは逆に、「破断を期待している」ということになる。
どちらも、期待ということが主軸になっている。
これを、無意味のマントラは不活性化してくれる。
家庭でも
いちばん、期待と感情が惹起されるシチュエーションは例にもれず家庭だ。
ここで怒らないのは実際、毎日挑戦であり、恥ずかしながら、毎日敗北だ。
しかしその過程で、家庭での怒りというのが、家族への「甘え」であるということに気が付き始めた。
つまり、自分の期待どおりにいかないことを怒るというのは端的に甘えだということだ。
こうした姿勢を反省し、甘えることなく、関係を構築していく日々が、怒りを手放すことの中で追求できると思う。