ビル・パーキンス『DIE WITH ZERO 人生が豊かになりすぎる究極のルール』読んだ。
「若くて元気で体力があるほうが思い出いっぱい作れるよね」という至極当然だが無視されがちのことを思い出させる本である。
この本は、死ぬときはお金を使い切りましょうねという本だが、そういわれても、いまほぼゼロなのだから、すでに達成してしまっている。でもそういう本では、たぶんないのだ。
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ひとののぞみのよろこび……でも、なに?
以下のことは『DIE WITH ZERO』をもとに考えていたことだ。私はどんなことをほんとうにやりたいかかんがえてみたが、ほとんどおもいつかなかった。
人生でやりたいXXのリスト、タイムバケットともいわれるかんがえかたは、でも、じゃあ自分でなにがやりたいかというととてもむずかしい。
わたしは旅行するのはすきだけれど、それよりは本をよんだりして「わかる」ことのほうに自分のたのしみはあることを自覚している。
では子供にどうこう、という話もあるだろうが、そんなもの子供がやりたいことなのだから、自分のやりたいことではない。子供次第だ。
ひとと会って話したいというのはある。なにかはなすことがあるわけではないけど。
ひととも会いづらいのは、ひとつにはコロナがあり、ひとつには育児がある。八方塞がりというかんじがする。それ以外にはなかなかおもいうかばない。
のぞむこともかなえることも認知であり能力
たぶん、これも筋トレとおなじか。
つまりあまりにそうした活動からはなれていると、それに熟達できていない。自在にできない。
ここで「できない」といっているのは、なにかを人生においてやりたいとおもうことそれ自体である。
こういうことを解消するための方法は一般的に、ちいさいサイクルでやることだと「知っている」。
つまりいわば公文式だ。
のぞむこと、そして、それをかなえることも、人間の認知であり能力にほかなるまい。
そして認知なら、一般に、初歩的なサイクルをまわすことで熟達することがおおいといえるだろう。
のぞみ、そしてそれをかなえるというちいさなサイクルを日々くりかえすということになる。
逆にいうと「わたしたちはいつのまにか、なにかをのぞむことがヘタクソになっているのではないか?」といううたがいだともいいかえられる。
そうしないと、なにかをかなえるどころか、のぞむことさえできていない、そもそもそういうことに気がつくことさえできないことになる。