これは、わたしの故郷のみやげもののはなしです。
津には平治煎餅という菓子があります。
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この平治煎餅の平治というのは、阿漕平治という伝承からきている。
むかし伊勢の阿漕の浜に平治という漁師がいた。平治の母は病気になったため滋養のある魚(ヤガラ)をたべさせたいと、禁漁区の阿漕浦で平治はヤガラを獲って母に食べさせた。これが露呈して平治は捕らえられた。平治は役人に、病気の母を助けるためであることを自白し、役人は親孝行に感動した。しかし、きまりだからということで役人は平治を簀巻きにして海に沈めた。
なんの救いもないはなしです。
わたしも平治煎餅をおみやげにもっていくことがあるのですが、阿漕平治の伝承はだれもしりません。
つまり、おみやげにもっていっても、うけとるひとは、おみやげとして平治煎餅がなぜさしだされたのかわからないのです。
モノとしての平治煎餅は、価格的にもそれほど高額ではなく、内容数も日持ちも、また味も便利にできています。おいしいです。
煎餅といいますが、どちらかといえばサブレーにちかい食感です。
そして、大正以来、土産物としてロングセラーになっています。いつの代かはわかりませんが、天皇・皇后もお買い上げになったとかいてある。
おそらく、当時はちゃんと、伝承まで通じていた。しかしいまでは誰もしらない。
だから問題は、ナラティブの変化にあるだろうということがわかります。
つまり、かつてはだれでもしっていた伝承を、いまではだれもしらない。
地元の人間だから現代のわたしも伝承を知っているけれど、結局なぜ一時はみやげものとしてせいりつしたのかといえば、戦前の修身の教科書に載って全国区に知られていたからです。謡曲・能の題材にもなっていますが、教科書のほうが寄与したのではないかとおもいます。
だから共通の話題・ナラティブとして「みやげもの」が成立した。これは、ながい昭和年間です。
旧「修身」で阿漕平治の悲話をよまされた子供たちはながい昭和年間をいきぬいた。
長じて、各地に旅行もした。
たとえばそうした世代であるわたしの祖父母も、昭和年間におおくの旅行をしたことが、実家にのこっていた写真からうかがえます。
かれらはあるいは、他の土地を、観光であれ用務であれおとずれるときに、この平治煎餅をもっていったかもしれない。
逆に、他の土地から伊勢をおとずれる観光客はまた、津近辺で一服したときに、平治煎餅をみて、ああこれが、かの阿漕平治の舞台であるか、と、平治煎餅を買ってかえったかもしれません。
みやげものとはそうした、各自の聖堂にかかげられた共通の話題という鐘をならすものとしてあっただろうことは容易に想像できます。
しかし、もはや修身を学んだ世代がアクティブにうごきまわらなくなったことで、阿漕平治はもはや共通の話題とはなりえなくなった。
そういうナラティブの喪失こそが平治煎餅の悲話であろうとおもいます。
個人的に、わたしはこうした、時間の経過とともにモノとその受け止めかたが変化する現象をしるのがこよなくすきです。