殺シ屋鬼司令II

読書と研究について書いてきました。最近は万年筆で書く快感にひたっています。当ブログでは、Amazonアフィリエイトに参加してリンクを貼っています。

#オートミール米化 はすごい

オートミール米化ダイエットレシピ

オートミール米化ダイエットレシピ

最近の弁当はこれのオートミールおにぎりレシピだが、確かに腹持ちが尋常でなくいい。

しかも所要時間が激しく短いので朝の忙しい時間に手際良く作れる。自分の生活におけるリアルイノベーションだ。

業務スーパーオートミールも1 kg、500円ぐらいでしょう。これはコストパフォーマンスもものすごいわけです。

ロールドオーツという種類で、吸水しやすい加工がされてないものですが、特に気にせず、レシピの通り米化できます。

オートミールって、粥みたいにして食べるのが、袋に書いてあり、スタンダードであるらしいわけですが、本当に受け付けないですよね。

それが、水の量を減らすだけでこんなに食べやすく、美味しくなるんだという驚きが、レンチン1分で目の前に突きつけられます。


そう、オートミール米化が簡単にできることや、おいしいことは、すぐにわかる。秒でわかります。

でも、おいしいからって、おかわりはストップ!

グッと拳を前に突き出して、ガマンして、どうだッ! としばらく過ごしてみてほしいんですね。

食欲が、ウソのように落ち着いている、平安時代が訪れます。

オートミールは、腹の中で増えるかのようです。非常に食物繊維豊富で、ダイエットに理想的です。

私などは、あすけんダイエットの記録をしていて、日に一食をこのおにぎりにしていると、1日に必要なカロリーに足りなくなって、あわてて何か食べないとという気になります。

おかわりするとどうなるか?

源平合戦が始まるんですよ……腹の中で……

ほんの少しでも子供を授かることを期待する夫婦と、夫婦に接するすべてのひとに読んでほしい本

この本は、

  • 「子供を授かること」を前向きに期待する夫婦(不妊治療中のひとはもとより、不妊治療は自分は関係ないと思っている夫婦も
  • その夫婦に接する可能性のある全ての人(夫婦の両親、きょうだい、親類、友人、同僚、隣人、バスの中で乗り合わせる人、等々……)

に読んでほしいのです。
そう書くと、およそ全人類が対象になってしまう。そんな主語で大丈夫か?という自信はなかったのだが、考えてみると、やっぱりそれでいいと思う。とりあえず(この書評だけでも)読んでいただけると私はとても嬉しい。
むしろ、不妊治療ということを考えたこともない人ほど読んでほしいと思う。それはなぜか?
不妊治療は、医療技術や制度が問題なのではない。それはどちらかといえば「こころ」の問題だということだ。まさにそういうことがこの本には、小説家ヒキタクニオの夫妻が経験した不妊治療についてのエッセイというかたちで明確に描かれている。

夫婦と妊娠・出産のありようはさまざまである。
結婚して特段の通院もないうちに妊娠することはありうる。
もちろん結婚する前に妊娠することも大いにありうる。
そして、妊娠を望むのにできない夫婦もあれば、妊娠を望まないのにできてしまう夫婦もある。
従って、「望む/望まない」と、「できる/できない」という、2x2=4通りのひとがある。

  • 妊娠を望んで、できる
  • 妊娠を望むのに、できない
  • 妊娠を望まないのに、できた
  • 妊娠を望まないし、できない

このうち、不妊治療をするのは「妊娠を望むのに、できない夫婦」である。

まずはちょっと不妊不妊治療ということの通りいっぺんの話から始めてみる。
結婚後1年以上自然な性交渉があるにもかかわらず妊娠しないと「不妊カップル」ということになっている(定義)。今は、その定義の是非は、於く。ただし、そういう概念の存在を知らなかったなら、それだけでもこころの持ちようが変わるかもしれない。
不妊治療を始めてみると、あるカップルの不妊の原因というのも、夫、妻、夫婦双方、その他がある。説明会に行けば、クリニックで円グラフを示してくれるであろう。
これは、ファクトとして厳然としてあるから、ここでは細かく取り上げない。不妊治療を始めれば誰でも目にするグラフだからである。

大事なことは、不妊リスクは「時間とともに高まる」。
リスクが高まるということは、X年前であれば問題なく妊娠できていた可能性があったが現在はできない、ということが起きうる、ということである。
つまり、スピードが第一である。
だからもちろん、一度子供ができたにもかかわらず、第二子ができない、という第二子不妊というのも稀ではない。
そして同じ理由で、「不妊治療」というこころを持つ前に知ってほしいということも同時にある。

もうひとつ大事なことは、不妊リスクへの寄与は、「夫婦ともにありうる」。
どちらが高い、というものではないし、そうしたことを論うと、要らない摩擦の元になる。
どちらも大いに寄与しうるということは強調しすぎてもしすぎることはない。
だから、夫婦双方がともに意識を高めることだ。
そのことをこの本の中では「心合わせ」と呼ぶ。
なかなか耳にしない表現だが、敢えて小説家の表現力で選び取ったのだと思う。
よく考えてみるべき一語である。

いや、妊娠という一事に限っていえば、その後の負担が妻側に全部のしかかる。
全部というのは「代替不可能な心理的・肉体的負担」がのしかかるということである。
まず、懐妊したかどうかを知るのは妻である。
生理が来る。
非情にも生理が来る。
懐妊すればめでたいが、そもそもが不妊治療というスタートラインで始めているので、失敗する経験のほうが多い。
「生理が来る」という形で突きつけられる失敗の経験というのは男性の想像を絶する、重い事実であり、状態でもある。
これは『ヒキタさん』書にも印象的に描かれている。
夫はそれを決して責めてはいけないし、また、逃げてもいけない。
「ハラスメント」である。

また懐妊後も、24時間・280日*1にわたって、つねに責任を負うこととなる。
これは、ヒトの人工子宮というような技術が存在しない現在の生殖医療技術においては、代替不可能な負担であるということだ。
この期間、妻の負担を肩代わりするものもないし、また、遅らせることも、先取りすることも絶対にできない。
妊娠においては「常に今しかない」というプレッシャーに、妻はさらされ続けることとなる。
夫はせいぜい色々読みかじってみたりするのだが、切実さは妻に比べようもない。
これは全く申し訳ないことである。
そうであるとするなら、夫が妻のいいなりになるくらいでちょうどいいのだろう、というのが実感ベースとしてある。

本記事では、自分たちの仔細な状態がどうであったかや選択について詳述はしないが、夫側である私の検査が遅かったことで妻の不安と不満をいたずらに高めたことは今でも後悔・反省している。
夫の検査は最初は基本的に非侵襲的だから、カジュアルに夫の状態を測った方がいいと思う。
繰り返すが、そうしたプレッシャーに最初に向き合うのは常に妻であることを夫は常に心に留めておかなくてはならない。

妊娠を望んでいる(かもしれない)夫婦に接するひとも、またこの本を読んでほしいと思う。
不妊治療を経験するカップルは、人に言えないまま、とてもつらい日々を送っていることが多い。
毎日が、どっちに転ぶかわからない、そんな尾根づたいに吹雪の中を歩いているような日々であった。
周囲の何気ない一言でも、つらさを倍加させることがある。
「ハラスメント」である。
突然の強風のように、平地であれば耐えられる出来事も、緊張の中で疲れている者たちにとっては致命的でありうる。
そうした言葉のいくつかも、この本の中には出てくる。

問題を解決する行為は当事者が負うのであり、アドバイスというのは、結局、責任を取らなくていい無責任だ。
責任を取らないで、アドバイスに従ったひとがうまくいけばドヤ顔をするし、うまくいかなくても身銭を切るわけではない。
こういうありようであってみれば、卑怯者、と言われても何ら仕方ないことになる。

まとめると、こうだ。

「子供は絶対に要らない・作らない」と(どちらかが)思っているカップルは普通にいると思う。そういったカップルでなければ、夫(あるいは夫になろうとしているひと)は「いますぐ」精液の状態を計測すべきである。
そうした「絶対妊娠拒絶」*2でない、例えば「欲しい気持ちはあるけど強く出られない」という妻にとって、夫が協力的でないストレスは徐々に蓄積していく。
これは、とても不幸なことだと思う。
そうした場面で向き合い、協力することが幸せにつながると思う。

ここで「幸せ」というのは、単に妊娠するかしないか、子供ができるかできないか、ということでは、もちろんない。
むしろ、夫婦の価値観をすりあわせ自覚したうえで、現在と将来の生活のありようを積極的に描いていくことこそが、家庭における幸せの階梯だと思う。
また、妊娠を望みながら妊娠しない、というカップルに向き合うひとたちには、この本を読んで、彼らの眼前にどういう世界が広がっているかを見てほしい。
『ヒキタさん、ご懐妊ですよ!』に描かれていることは、単に「いま不妊治療をしている」というカップルが見ているだけの世界ではない。
当然ながら、「かつて不妊治療を経験しながらできず、最終的に撤退を決断した」カップルが、渦中にあった世界でもある。
そして往々にして、そうした世界観というものを表現して共有することは、ふつうのひとにはかんたんにできるものではない。
ならば、小説家の表現力を借りるのはむしろ順当といえるではないか。
さらにいえば、「誰が不妊治療をしているのか、していたのか」オープンにすることは少ない。こういう経験談を「教養として」あるいは「保険として」読んでおくことで、スムーズなコミュニケーションも期待できますね。

*1:妊娠期間を日本の慣用句で十月十日というのだが、これは英語では280daysとされている。妊娠期間を記録するスマホアプリに「トツキトオカ」というものがあるが、この英題がまさに280daysになっている。我々も使用していた。

*2:無論そうした場合でもできてしまうことは存在するというのは最初に書いたとおりだが、本稿で考察する対象ではないので割愛する。

1月のKindle月替わりセールに名著・『逝きし世の面影』が入っているので強くオススメします

わたしも今ちょうど読んでいる(読み上げで聞いている)半ばであるものの、圧倒的に面白いので、この好機をみすみす逃す人が減るようにと思ってこの記事を書き始めた。

この本を推す声はほうぼうで目にすることがあった。私も興味があったし、新古書店でも目を光らせていたが、なかなか1,000円をおおきく切ることはなかった。

それが、Kindleの月替わりセールで2021年1月に入り、紙の本が2,090円のところ、549円になった。(1月31日23:59まで)

「逝きし世」とは、江戸期の日本と、民衆の生活(著者はそれを「文明」としている)のことだ。逝ったのは他でもない明治の到来と文明開化、それに先立つ外国人の「文明」の流入のためである。

逝ってしまった、喪われた世のありようは、その内部の人間からはほとんど描写されないことさえある。

実は、そうした過去の復元に、外部の人間すなわち外国人の目から見た記録が必要不可欠だった。

外国人たちの視点はそれ自体がユーモラスである。彼らは、江戸末期日本の民衆が「勤勉でもありながら怠惰」で、ときにスッポンポンで自分たちを見にくる一方、その工芸品は今も一部が伝えられているように上質であったり、度はずれに質素に見えたりすることがあって話題に事欠かないので、見聞録が残っている。そうした記述を著者・渡辺京二は拾い集めつつ、20世紀中の歴史家の見方(それは私自身が中等教育まで歴史を教えられた見方の基盤であっただろう)を丁寧に洗い直していく。

江戸末期に医者として来日したツュンベリーは、同時に分類学の祖リンネに教わった植物学者で、師の体系を普くせんと世界に放たれた「使徒」の1人でもあった。今もなお、日本の植物を発見し学術的に記載した著者として「ツュンベリー」の名が残っている種もある。

私自身が植物学者であるから、(朧げながら)わかるのだが、やはり未知の土地を訪っては、野にいでて草木を検めたいという気持ちで、大ツュンベリーもフィールドワークに出たらしい。そして彼はほぼ信じがたいものを目にすることとなった。

田畑に雑草が残っていない。

百姓が野良仕事の中で田畑をきれいに除草してしまっていた。

これを渡辺は江戸期百姓の勤勉さとして引く。しかし、その時の唖然とした大ツュンベリーの悲哀に私はどうしても心が行く。

これは江戸末期であるが、ではそれ以前の時代を復元することはできるかといえば、やはりそれは外からの目が見聞録として残っているのが江戸末期という、絶妙な時代だったからなのである。人数も多ければ、そもそも安全に海を越えて移動することができるようになったのが近世以後であっただろう。

記録のすべもまた然りである。

いかに今の自分と同じ国土の上で生活しているとは言っても、もうその世、或いは文明といったものは、消えてしまったので、今の我々とは本質的に異なる文明である。その彼我の差を越えて丁寧に復元していく作業がこの本であると言った。

知的営為の中でも、「おのれを離れた存在」を理解しようとすることそのものが尊く価値がある。もっというと、そうした営為を経験するかどうかが「大学」、特に学部教育課程の意義だと私は信仰している。

それは言ってみればなんだっていいのだが、私がそうした視点を教えられたのは、刈谷剛彦知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ (講談社+α文庫)』であり、ユクスキュル『生物から見た世界 (岩波文庫)』だった。そういうことがUniversity、つまり普遍性への階梯で、俗っぽい言い方をすればこうした本を読むことで自分の頭がずいぶんよくなった(これは、自分が「うわべだけ人間らしきもの」だったのがどうにかやっと中身も人間に近づいた気がした、というほどの意味である)という実感がある。

そういった、「アンパンマーン!! 新しい眼玉よ!!!」とでもいうかのように、スポッと眼球を更新されるような清新な読書体験がこの本にはある。

【予告編】子供が生まれたのでまたブログを書いていきたい

コロナのさなか、子供が生まれた。
もちろん、これは順番が逆で、子供が生まれようとする間にコロナ騒ぎが生えてきたのだ。
そこは間違えないでほしい。

よく育って生まれてきた。妻は子供をお腹の中でよく育ててくれた。
生まれるまでは本当に長かった。永遠に続くかと思った。
まだ臨月にならない、まだ予定日が来ない、予定日が来てもまだ生まれない……その時々で色々なイベントが挟まって、なおこの感覚である。
コロナで外出が憚られる中というのがその感覚を倍加した。

夜更けすぎ、子供は静かに眠っている。
私がミルクをあげたあと風呂を浴びている間、手伝いに来てくれた私の母(子供にとっては祖母)が寝かしつけてくれていた。
子供を起こさないよう、静かに文章を打つためにiPadを膝に乗せて書いている。

まだ、まとまったことが書けるわけではない。

ただ、色々書いておきたいとも思って久しぶりにはてなブログを開いている。

だんだん何か完成してからアップしようと思っていたのが普通に間違いだということを思い出した。もっとストロングスタイルでいかないとそもそもブログなんてもんは成立しないんだった。

そして、次のミルクの時間が来る。
見直しや、構想の時間があるはずもない。サイクルはタイトだ。ほぼ3時間おきにやってくる空襲警報は、しかし、微妙に気合を入れるとやっていけるのが罪深い。

気合だと思った。

さて、このエントリはいきおい、予告編の様相を呈していく。

今後書いていきたいことというのはこういうことだ。

では、またお会いします。

紙の日記に空欄が空いてしまう、ということを書くウェブ日記

2017年から紙の日記を使い始め、2018年以後はほぼ日手帳を使っている。
10月に入ってにわかに予定が立て込んで、紙でも書けなくなった。あまり大したことが書けるわけでもない。
近頃の大きな出来事で書けることといえば、家にプロジェクタを買った。

プライムデー周りで安くなっていたのか。家で大画面で映画が見たい、と妻が言う。調べてみると、1万円以下でも、それなりのものがあると知った。流石に、壁面に寄せて、真下から投影するのを眺めることができるタイプ、すなわち「短焦点型」は、5万円はする。これは躊躇してしまったが、1万円以下だと気軽だ。
DVDを借りてきてMacBookで見たり、前に買ったけどTVを廃棄してしまったので放置してたFireTV stickを見ることもOK。ステレオ的には無茶苦茶だけど、カーテンの裏のコンセントにひっそりと佇んでいるEcho Dotに、Bluetooth接続してサウンドを出すと意外と良く鳴ってくれる。それもこれも引っ越して、「壁」ができた。これまでは、大きな「壁面」スペースが家になかった。それが、押し入れが大きく、部屋も多くなって、大変壁面が大きく見えている。これを活用したいと言うことで、私はもっぱら、最近読んだある海外の小説の影響で、坐禅を壁に向かっておこなっている。

分類学の基本書『種を記載する』が増刷され入手&復刊と投票へのお礼

種を記載する 生物学者のための実際的な分類手順

種を記載する 生物学者のための実際的な分類手順


今年、年明けにkamefujiハカセが1本の記事を書いた。
kamefuji-lab.seesaa.net


この本は、生物分類学で論文を書く方法論をまとめた本だ。私は分類学者ではないが、分類学をやる研究室に所属していたから、その現場を門前の小僧で知っている。その分類学を身につけるガイドとして重要な本が『種を記載する』だが、10年ほど前に出版された後しばらくして、ずっと入手困難な状態が続いていた。ここ2-3年は、アマゾンの中古価格も80,000円のような法外なプレミアムのついた価格であった。

本書は統合困難な分類学者たちが孤立無援の未開の最前線で生き抜くためのサバイバルスキルを教示するものだ。分類学の「実践」についてのこれ以上ない最高の解説書である本書は、今すぐに復刊されるべきものであることを強く強く主張するものである。
『種を記載する:生物学者のための実際的な分類手順』は何故絶版になってはならないのかを力説する: かめふじハカセの本草学研究室

私はkamefujiのブログ記事を読んで、復刊リクエストをしようと思った。復刊リクエストは「復刊ドットコム」でできるということを知っていたから、ただちにそこにエントリを立てた。

www.fukkan.com

ありがたいことにTwitter経由を含めこれに賛同する方から144票もの投票をいただいた。3日間で50票、4日間で100票も入った。これはすごいことだ。

それから、7ヶ月以上、何の動きもなかった。

8月も終わり頃になって、Twitterで、『種を記載する』が増刷されたという情報があった。最初は、hontoで入手可能であり、丸善ジュンク堂で買えたようだ。各地の在庫状況を見ていたが、主だった店舗に比較的広く配本されたようだったが、それもかなりすみやかに売れていったようだった。

www.araishoin.jp

本書は長らく品切れになっていましたが、2020年7月末に増刷しました。
新井書院ホームページ

私は大学生協にオンライン注文したが、どういうわけかそちらには配本がうまくいかなかったのか、キャンセルとなった。

やがてAmazonで注文可能になった。それで私は注文した。買えた。

種を記載する 生物学者のための実際的な分類手順

種を記載する 生物学者のための実際的な分類手順

在庫状況は流動的だ。8,580円の税込定価を確認して、購入するのが良いだろうと思う。

この状況変化に、私が1月1日に復刊リクエストを募ったことが影響したか? それは、公式に明言はされていないし、わからない。純然にTwitter等の動きを見て経営の状況判断がなされたという可能性ももちろんある。

ただ、私としては、リクエストに賛同してくれた多くの皆様と、それに陰にか陽にか呼応して状況判断をしていただいた版元・新井書院への感謝をここで述べたいと思う。

ありがとうございます。

書きたいことは多いが書けることがあまりない

なにかそういう難しさとともに日々生きている、ということを思っている。毎日、いろいろなことを考えたりやったりする。しかし、それを書くことに差し障りが各方面にあって、なかなか書けないまますぎていってしまう。そうすると、また新しいことが出来する。

それでも何か書いておきたいと思ってはてダに戻ってきて欄を開きながら、今そのことを文字にして並べていっている。

一番書きたいことは、自分が「落ち着いている」ということだ。

落ち着けるようになったということではなく、たまたまタイミング的に落ち着きが瞬間的にあったということだ。

なぜ落ち着いたか? 7月以来のコロナ第二波(らしきもの)が落ち着きを見せているということ、そしてそれ以前に季節が移ってだいぶ涼しくなり、家庭生活の変化も落ち着いてきたこと、そういういろいろな事があって、本を読んだり、ブログを書いたり、ということに意識が戻りつつある、ということだと思う。

Twitterは見なくなり、コロナのニュースも見ないようにするようになった。新しいことがないからである。本当に、新しいことがない。

このところ眺めていたのはインテリアとDIYに関する書籍とウェブサイトだった。こんまり本を読み直したりしていた。ミニマリストの生活を紹介する本も何冊か眺めた。

ミニマリストというのが、所有物を減らしたり、活動を減らしたりすることだとするなら、それに関連する本を何冊も読むことは矛盾ではないのか、と思ったりもした。ただ、それは必ずしも矛盾ではない。生活のイメージができるようになるためにサンプルをいくつか比較することはむしろ有益でもある。

図書館の利用を増やそう、ということを、思っている。通勤路のどの図書館を利用するかということを、思う。自宅から一番近くアクセスできる図書館か、通勤路の定期券区間のうちで駅から最も近い図書館か、それとも同じ区間で特急停車駅の図書館か、……と考え始めるとキリがないので、結局生活の中で一つ一つ掴んでいくしかない。

落ち着きまでの中で、万年筆の生活はしばらく止まってしまっていた。万年筆もまた、落ち着きが必要な文房具であった。