殺シ屋鬼司令II

読書と研究について書いてきました。最近は万年筆で書く快感にひたっています。当ブログでは、Amazonアフィリエイトに参加してリンクを貼っています。

紙の日記に空欄が空いてしまう、ということを書くウェブ日記

2017年から紙の日記を使い始め、2018年以後はほぼ日手帳を使っている。
10月に入ってにわかに予定が立て込んで、紙でも書けなくなった。あまり大したことが書けるわけでもない。
近頃の大きな出来事で書けることといえば、家にプロジェクタを買った。

プライムデー周りで安くなっていたのか。家で大画面で映画が見たい、と妻が言う。調べてみると、1万円以下でも、それなりのものがあると知った。流石に、壁面に寄せて、真下から投影するのを眺めることができるタイプ、すなわち「短焦点型」は、5万円はする。これは躊躇してしまったが、1万円以下だと気軽だ。
DVDを借りてきてMacBookで見たり、前に買ったけどTVを廃棄してしまったので放置してたFireTV stickを見ることもOK。ステレオ的には無茶苦茶だけど、カーテンの裏のコンセントにひっそりと佇んでいるEcho Dotに、Bluetooth接続してサウンドを出すと意外と良く鳴ってくれる。それもこれも引っ越して、「壁」ができた。これまでは、大きな「壁面」スペースが家になかった。それが、押し入れが大きく、部屋も多くなって、大変壁面が大きく見えている。これを活用したいと言うことで、私はもっぱら、最近読んだある海外の小説の影響で、坐禅を壁に向かっておこなっている。

分類学の基本書『種を記載する』が増刷され入手&復刊と投票へのお礼

種を記載する 生物学者のための実際的な分類手順

種を記載する 生物学者のための実際的な分類手順


今年、年明けにkamefujiハカセが1本の記事を書いた。
kamefuji-lab.seesaa.net


この本は、生物分類学で論文を書く方法論をまとめた本だ。私は分類学者ではないが、分類学をやる研究室に所属していたから、その現場を門前の小僧で知っている。その分類学を身につけるガイドとして重要な本が『種を記載する』だが、10年ほど前に出版された後しばらくして、ずっと入手困難な状態が続いていた。ここ2-3年は、アマゾンの中古価格も80,000円のような法外なプレミアムのついた価格であった。

本書は統合困難な分類学者たちが孤立無援の未開の最前線で生き抜くためのサバイバルスキルを教示するものだ。分類学の「実践」についてのこれ以上ない最高の解説書である本書は、今すぐに復刊されるべきものであることを強く強く主張するものである。
『種を記載する:生物学者のための実際的な分類手順』は何故絶版になってはならないのかを力説する: かめふじハカセの本草学研究室

私はkamefujiのブログ記事を読んで、復刊リクエストをしようと思った。復刊リクエストは「復刊ドットコム」でできるということを知っていたから、ただちにそこにエントリを立てた。

www.fukkan.com

ありがたいことにTwitter経由を含めこれに賛同する方から144票もの投票をいただいた。3日間で50票、4日間で100票も入った。これはすごいことだ。

それから、7ヶ月以上、何の動きもなかった。

8月も終わり頃になって、Twitterで、『種を記載する』が増刷されたという情報があった。最初は、hontoで入手可能であり、丸善ジュンク堂で買えたようだ。各地の在庫状況を見ていたが、主だった店舗に比較的広く配本されたようだったが、それもかなりすみやかに売れていったようだった。

www.araishoin.jp

本書は長らく品切れになっていましたが、2020年7月末に増刷しました。
新井書院ホームページ

私は大学生協にオンライン注文したが、どういうわけかそちらには配本がうまくいかなかったのか、キャンセルとなった。

やがてAmazonで注文可能になった。それで私は注文した。買えた。

種を記載する 生物学者のための実際的な分類手順

種を記載する 生物学者のための実際的な分類手順

在庫状況は流動的だ。8,580円の税込定価を確認して、購入するのが良いだろうと思う。

この状況変化に、私が1月1日に復刊リクエストを募ったことが影響したか? それは、公式に明言はされていないし、わからない。純然にTwitter等の動きを見て経営の状況判断がなされたという可能性ももちろんある。

ただ、私としては、リクエストに賛同してくれた多くの皆様と、それに陰にか陽にか呼応して状況判断をしていただいた版元・新井書院への感謝をここで述べたいと思う。

ありがとうございます。

書きたいことは多いが書けることがあまりない

なにかそういう難しさとともに日々生きている、ということを思っている。毎日、いろいろなことを考えたりやったりする。しかし、それを書くことに差し障りが各方面にあって、なかなか書けないまますぎていってしまう。そうすると、また新しいことが出来する。

それでも何か書いておきたいと思ってはてダに戻ってきて欄を開きながら、今そのことを文字にして並べていっている。

一番書きたいことは、自分が「落ち着いている」ということだ。

落ち着けるようになったということではなく、たまたまタイミング的に落ち着きが瞬間的にあったということだ。

なぜ落ち着いたか? 7月以来のコロナ第二波(らしきもの)が落ち着きを見せているということ、そしてそれ以前に季節が移ってだいぶ涼しくなり、家庭生活の変化も落ち着いてきたこと、そういういろいろな事があって、本を読んだり、ブログを書いたり、ということに意識が戻りつつある、ということだと思う。

Twitterは見なくなり、コロナのニュースも見ないようにするようになった。新しいことがないからである。本当に、新しいことがない。

このところ眺めていたのはインテリアとDIYに関する書籍とウェブサイトだった。こんまり本を読み直したりしていた。ミニマリストの生活を紹介する本も何冊か眺めた。

ミニマリストというのが、所有物を減らしたり、活動を減らしたりすることだとするなら、それに関連する本を何冊も読むことは矛盾ではないのか、と思ったりもした。ただ、それは必ずしも矛盾ではない。生活のイメージができるようになるためにサンプルをいくつか比較することはむしろ有益でもある。

図書館の利用を増やそう、ということを、思っている。通勤路のどの図書館を利用するかということを、思う。自宅から一番近くアクセスできる図書館か、通勤路の定期券区間のうちで駅から最も近い図書館か、それとも同じ区間で特急停車駅の図書館か、……と考え始めるとキリがないので、結局生活の中で一つ一つ掴んでいくしかない。

落ち着きまでの中で、万年筆の生活はしばらく止まってしまっていた。万年筆もまた、落ち着きが必要な文房具であった。

スゴ本本 (すごほんぼん)

ゴールデンウィークはグロ漫画とグロ小説を読んで過ごした。

この本を読んだからである。

アルファブロガー「わたしが知らないスゴ本(ほん)は、きっとあなたが読んでいる」(以後、スゴ本ブログ)のDainさんが、満を持して初の著書を公刊される、と聞いた私は次の瞬間、ネット書店に予約していた。

本は発売日に届いた。その次の土曜日、Dainさんの出版を祝う会が夕方あった。それまでに読み切ってしまいたかったので、金曜の夜から土曜日の日中はずっと読んでいた。

スゴ本ブログと、スゴ本本の関係のことを、考えている。
例えば、誰かが、自分はスゴ本本を読むべきだろうか、と問いを発したとする。

スゴ本本は、本を読んで生きるために大事な姿勢がぎっしり詰まっている。
私はスゴ本ブログを読んで、そしてスゴ本ブログに倣ってスゴ本を読んできた。その膨大なブログの中から本を読んで生きることについて、一冊の本に集約されていることを限りなく価値あることだということがわかったから、迷いなく買った。

この本の最初には本をどうやって選ぶかと言うことが書いてある。たくさんある本の中から本と出会うための方法論が書いてある。そのうちでもオフ会や書店巡りのような方法論は幸いにもこれまで私は何度かご一緒する機会があった。たくさんの本を教えていただいたし、その結果私の家の本棚は大変なことになっていった。

その一方で私はやっぱり電子書籍書籍に対するスタンスはかなり違う。私は海外生活が4年間あったのでその間電子書籍に大いに助けられることになった。電子書籍なしでは私は知的に死んでいた。私は自分の知的生活の中で電子書籍の割合がとても大きい。電子書籍なしでは生きられない。そして電子書籍の良さもいくつも知っている。それは私はここで繰り返すことをしない。

本を買うこと、図書館で借りること、電子書籍古書店新古書店Amazon……そういう本の付き合い方のそれぞれを私はかなりやってきた。その時々で付き合い方が違う。何が普遍的なベストとかではない。一つ一つ探っていくしかない。

本を読む生き方を考察する書の中で、書くことが扱われているのは二つの意味があり、読んだことについて書く、書こうといろいろ考えることで読み方がどんどん深くなるからであり、また、本を書く側がどう書いているかの手の内を知ることで読み方も良くなっていく。

「よかった」で終わらせるのではなく、自分に生じた行動の変容を手がかりに読書の経験を全身で受け止めることになる。

もう10年以上前になるが、メディア論のマーシャル・マクルーハンに関する本を読んだ。マクルーハンは「メディアはメッセージである」という文句で有名だが、一方でその意味が広く理解されているとはいいがたい。私もその本を読むまで何もわかっていなかったが、読むことで良くわかった。

thinkeroid.hateblo.jp


メディアがメッセージであるということは、新しいメディアが出現することによって人類のあり方が変わるよ、という、今にしてみれば当たり前のことであるらしかった。ただ、当たり前のことほど、自覚的になるのは難しい。

「よかった」で終わらせるのはもったいない、自分がどう変わったかに向き合いなさいという。それは、本、本の後ろにある本、そして人、人の後ろにある本、等々、といったことを最大限に尊重することにつながっていくだろう。

私はどう変わったかと言えば、付録として紹介されている劇薬小説や漫画を連休で読んだ。充実した連休を送ることができた。

そして、Twitterに書き込んだ。

私は劇薬本として、第一に『メイドインアビス』を推す、と。

thinkeroid.hateblo.jp

『最高の呼吸法』で、鼻詰まりが通る経験をした

きょう語りたいのは『最高の呼吸法』についてである。

いきなりディスクレイマーしたいことがいくつかある(Amazonアソシエイトしているということとは別に)。

  • このメソッドは、一般に「ビューテイコ・メソッド」と呼ばれていて、ロシア人医師ビューテイコが開発したものであるという。そして、喘息が治る、と触れ回って全世界に信奉者がいるらしい。そして、これが最も大事なのだが、医学的にはエビデンスが確認されていない。
  • だからこのメソッドを私は推奨はしない。アイデアとして個人的に試してみた結果だけを、書く。
  • オススメするわけではないのだし、当然のことながら、この本を読んで健康に問題が発生しても私は一切責任を負わない。責任とはそもそも自己責任であるから。

ビューテイコ法のアイデアはいくつかあるが、

  • 鼻呼吸(口呼吸絶対殺すマン)
    • わかる
  • 腹式呼吸
    • ↑わかる
  • 二酸化炭素が大事
    • ↑わか……ん?
  • だから息を止める訓練をする
    • ↑わからん

というあたりを読み取った。当たり前の部分(鼻呼吸・腹式呼吸)と、謎の部分(二酸化炭素→長く30秒以上息を止めることを目指す)が混ざった非常に不思議な本である。

息を止めて鼻詰まりが消えた

私は長年、鼻詰まりに悩んでいる。左右の鼻腔のどちらかはたいてい詰まっていて空気が通っていない。

以前どこかで、強いてでも鼻呼吸することで、鼻詰まりが緩和するという情報をみたような気がして、やってみたがうまくいかなかった。ずいぶんいい加減なことだ。

で、この『最強の呼吸法』なるものが、かなり前にKindle本のセール対象になっていて、買ってあった。

最近になって、積読消化の一環で読んでいたら、存外怪しい。そもそも「トップアスリートが実践」と言うそのトップアスリートは、アイルランドの国技かなにかのもので、ずいぶんニッチな記述である。

しかし、鼻詰まりについてだけは確かに一時的な緩和があった。

やりかたは

  1. 背すじを伸ばす
  2. 口を閉じて鼻から息を吐き切る(ビューテイコ者は、口呼吸絶対殺すマンである)
  3. (鼻をつまんで)息を止める
  4. 我慢が難しくなってくるまで息を止め続ける
  5. ゆっくり鼻呼吸する
  6. 2から繰り返す

本ではこの息を止めている間に歩いたりしろとか色々書かれているのだが、「息を吐いて止める」というところだけでも効果がある。

不思議なのだが、作用機序はよくわからない。二酸化炭素が重要とか、いろいろとゴタクがこの本の中に書かれてはいるのだが、最初にも書いたように、エビデンスはない。たぶん生理学的な実験でも実証されていない。

しかし、である。実感ベースで書くと、確かに息を止めている間に、副鼻腔の奥の感覚が変わる。

「腫れ・充血が引いていく」ような感覚である。

止めているのだから当然なのだが、苦しくなってくる。苦しむと同時に、少しでも空気を取り込もうと気道が陰圧になるのがわかる。このときに、鼻の奥が「ほぐれる」「ゆるむ」という、マッサージやストレッチのときの筋肉と似たような感覚を得る。

これは不思議な感覚で、生理的に説明できるわけではない。しかし確かにあり、そして息をゆっくり吸うと確かに鼻の奥を空気が通過していく。

言い換えると、これまでは「少しでも鼻で息をすることが鼻詰まりの解消になる」という、ポジティブフィードバックを意識していた。しかし、実は、「現在の呼吸量が何の基準でかはわからないがとにかく多すぎて、鼻の奥がそれをセーブするために詰まりを引き起こしていたのが、意図的に息を止めるワークを行うことで水準が緩和して閾値を下回るようになり(止めているのだから当然だが)、むしろ必要になって、呼吸量を増大させるために鼻の詰まり・鼻腔内の腫れを抑える」というような、ネガティブフィードバックをネガティブフィードバックでオーバーライドをかけるようなモデルで考えたらいいのかもしれないが、本当のところは何もわからない。ただ想像しているにすぎない。

寝ている間に口にサージカルテープを貼るといびきが少なくなった

もうひとつ、寝ている間の呼吸を修正するメソッドとして、口にサージカルテープを貼る方法が紹介されているのを実践した。

私は長年、いびきがうるさい。それで家族から、折々に酷い仕打ちを受けてきた。

それがサージカルテープを貼ることで、いびきが軽減したという。

サージカルテープの貼りかただが、私は、大きな「バツ」を口につけている感じで貼っている。

20センチくらいのテープを、右の頬骨から左の顎の下まで1本、左の頬骨から右の顎の下まで1本、唇の真ん中で交差するように、貼る。これが自分にとって一番安定する。

いろいろな貼りかたを試したことがある。唇を横一文字に蓋するように貼ったこともあれば、縦一文字に開く力に抵抗しようとしたこともある。バッテンを小さく、鼻の横あたりから唇の下あたり、テープを5センチずつくらいでやったこともあるが、これらはいずれもダメであった。

横一文字のテープは縦の力に弱く10秒もたたないうちに崩壊し、縦一文字のテープは横方向に口が動くと終わる。小さいバッテンも力不足すぎる。

要するに、口腔を縦横に動かして開こうとする表情筋そのものを丸ごと力学的に制約してしまう、大きなバッテンでしかうまくいかないのである。

これできわめて安定的に、朝までテープが残存している。いびきも少なくなったと家族から好評である。

私は今回何も勧めない。ただ、『最強の呼吸法』にインスピレーションを受けた私の経験だけを書いた。

サージカルテープはお近くの百円均一のものを使っている。とにかく百均では自由にやっている。

#絵を見る技術 を読んで #美術館 に行こう

この本が話題になっていたので読み終わって呆然としている。

たとえていうならば

絵心

ということばで、自分が感じていたことが、これでもかと徹底的に平易に、古今の名画の実例を出して説明してある。

構図を手がかりとして名画を順序立てて解読する方法をこの上なく平易に解説している。もっと早く知りたかったし、美術館が再開したらすぐに行きたい。

こんなこと知らなくて、本当にすいません……生きててすいません……って泣きながら読んだ。

もしかすると、この本に書いてあるようなことは、人文系の学科を出たひとたちにとっては常識なのかもしれない。

自分は、バカにされるかもしれない、と思う。それを恥ずかしく思うかもしれないと思う。

……いや、ちょっと待ってほしいんだ。こんなこと、本当に基本的なことだっていうなら、なぜ誰も言わないのか? こんなことをいうのは「初心者向け」だと、わざわざ説明したことでバカにされるからなのだろうか、と邪推してしまう。

実際、本書の最初の方で、いちいち構図を解釈するために、どこからどこに放射状に線が配置されていて、焦点が集まるようになっているとか、美術館の解説文には書いてない、と述べられている。「あたりまえ」なのだろう。

たしかに、この本がやっていることは「チャート式」的・「アンチョコ」的かもしれない。

わたしはこれまで、Amazonやブログ等のいろいろなレビューで、一般向けに平易に人文の諸知識を解説する本や、特定の新書レーベルに対して「チャート式」「アンチョコ」とバカにしているひとたちを散見した。私はそうした言説を見るときいつも心が痛み、そのたびにその方面を見る心が少しずつ冷たくなっていくのを感じるのである。

でも、そこが重要な橋渡しなんじゃないのか。

いわば「知の高速道路」のインターチェンジのところにおおきな断絶があるのだ。インターにはいるまさにそのポイントで、「決死の跳躍」みたいな行為に及ばねばならない。そういう事故製造機みたいなのはやめたほうがいいだろうと思う。むしろこのように、ちゃんと橋渡しをする本を高く評価して、私のような、人文系に縁の薄い読者が絵画(のみならず、視覚藝術)にアクセスするための安全な橋渡しを増やすことが、文化的な社会の「再興」にとって近道なのではないだろうかと思う。

実際、この秋田書を読み終わった後、書店をぶらついて、絵画を読み解く系の本を眺めていた。

イメージやモティーフ、アイコンと言った記号を、個々にゆびさす本は数あるようだった。それはたとえばキリストや聖母マリアの図像的な解釈の蘊蓄を垂れる。しかし、それらには、自分が『絵を見る技術』をもって自覚した絵心観に到達するものは、探し方が悪かったのもあるだろうが、出会えなかった。

視覚藝術全般に通じる技術

この知識を念頭に、たとえば写真とかを見直してみても、やはり自分が撮った「これは良い写真だ」と思う写真も、この「文法」に従っていると見ることができる。

そうなのだ。最後の最後でも著者が述べているように、この本の射程は、絵画にとどまらない。

目で観て、脳で理解する、いわば「視覚藝術」全般、つまり、写真や彫刻、建築、工藝、デザインなど、様々な領域に波及する。「スケール」する技術なのだ。そして、その技術を端的に、系統的に鍛えるための題材として絵画に取材している。

たぶん、自分がかつておこなっていた演劇も、きっとそうだったのだ。

演劇を演出する際に、「一瞬を切り取ると一枚の絵画のような舞台」という表現がある。

絵画の文法を意識することで、写真を見るときのよさを知るのは、自分にとっては革命的で、しかもそれが平易に表現されているのはとてもありがたかった。

他の官能を用いる藝術はどうか

同じような革命性が、『作曲少女』についてもあった。

これは作曲について書かれた本だが、

「メロディは、ハ調に転調するとすべて白鍵の上に乗る」
(原文ではなく私がわかったところの表現)

という知識は40年近く生きてきて革命的だった。もっと若い時に知りたかった。

小説で何かこれに類するものあったかしらと考えていたがアリストテレスの「詩学」なので解散。

詩学 (光文社古典新訳文庫)

詩学 (光文社古典新訳文庫)

(え、この古典新訳の詩学には「喜劇編」についての記述があるの?)

麻生幾『38°C』を再読するとコロナウイルス対策が書いてあった

38℃ 北京SARS医療チーム「生と死」の100日

38℃ 北京SARS医療チーム「生と死」の100日

  • 作者:麻生 幾
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2004/01/10
  • メディア: 単行本
むかし読んだ、麻生幾『38°C』に、北京でのSARS対策医療チームのことが書かれていたことを思い出して、読んでいた。
アマゾンで見ると絶版か品切で、現今の情況下であろう、中古価格が高騰していた。

コロナウイルスというウイルスの性質で自分が最近わからなかったのは

  • 医療関係者はうがい・手洗いのことばかりいうし、ふつうのマスクはあんまり意味がないという
  • でもマスクは品薄になっている
  • エアロゾル飛沫感染するとも言われているがよくわからない

だった。

そういうことがよくわからなかったのだが、この本に特別寄稿されている、角田隆文医師がSARS対策のことをまとめた文章でずいぶんイメージできるようになったので抜き書きをした(読み上げて音声入力したものを誤字を直した)。

角田隆文「SARSへの大いなる誤解」
麻生幾『38°C  北京SARS医療チーム「生と死」の100日』pp.205-211

……さて「隔離」について話を進めましょう。
「ライノウィルス」(風邪を引き起こす代表的ウィルス)を始めとする、いわゆる「風邪症候群」の起炎ウィルス(原因となるウィルス)が感染していく仕組みは、くしゃみや咳などで1メートル以内のウィルスが浮遊することで感染する「飛沫感染」よりも触る、飲むと言う方法で感染する「接触感染」である‐ ‐まず、このことを頭に入れていただく必要があります。
ゆえに、こういった疾患に感染しないための方法は、まず何より「手洗いによる感染防止対策」が最も有効であるーーこの事実も非常に有効です。
非常に気になる事は、感染症について様々な議論がなされる時‐ ‐今回のSARSでもそうですが‐ ‐いつも新しいウィルスが登場すると「空気感染」ではないのか、と言う話が飛び交います。しかし、そんな噂に振り回されることより、はるかに重要な事は、とにかく「手洗い感染対策」を行うことなのです。
今回のSARSでは、アパートの上と下の住人が発病したことなどから、空気感染が疑われ、「陰圧病室」(外気より部屋の中の気圧が下がっていることで、部屋の中の空気が漏れないようにされている)への隔離が進められました。つまり「空気感染」への対応が行われました。
ところが現実はどうでしょう。ほとんどの国と病院ではーー突貫工事をしてSARS専門病院を建てた中国のケースを除き‐ ‐「陰圧病室」は準備できなかったのです。ハノイではむしろ病室の窓を大きく開けて対応したのです。
では日本はどうでしょう。読者の中にはいぶかる方もいらっしゃるかもしれませんが、実は、空気感染をする結核の患者を治療する病院では、またわが国の法律の上でも、病室の窓を開けて換気することを推奨しているのです。
SARSの恐ろしさを知ったわが国では2003年10月に法律を改正し、SARSを「1類感染症」の分類に入れることにしました。
そのことによってもしSARS患者が発生した場合、「陰圧病室での隔離」が原則となり、必ず閉め切られた空間で診療することになったのです。
これは患者の診療する医師や看護師、そして救急隊員たちを危険にさらす結果となりました。何しろ、いわばウィルスが充満してとどまっている“汚染濃度”が高い空間に、医療関係者が放り込まれることを意味するからです。
「陰圧病室」のことばかりが先走りしていますが、今こそ、冷静な知見が求められるべきでしょう。

さらに“常識”にまで飛躍している「誤解」は、「マスク」と言う問題も存在します。
SARSを報道するメディアでは、必ずと言っていいほどマスクをつけた人々の映像を流し、そしてその「マスク」についての安全性についても様々な意見が噴出しています。
WHOは、SARSアウトブレイクが発生した当初、患者に「N95認証マスク」という高性能のマスクをつけさせるよう勧告しました。ところがここで不可思議なことがあります。
この感情がつける「N95認証マスク」についての“効果“や“信頼性“について、WHOからは新たな分析はほとんど発信されていないことです。
「血液中酸素飽和度」(肺の活動を知るデータの1つ)が低下する、いわば「呼吸困難」を訴えている患者が、健康な人でも息苦しさを感じるマスクをつける事は容易ではありません。しかも、中国などでは、酸素マスクの上に、さらに「N95認証マスク」をかぶらされている患者の姿をテレビニュースで数多く見かけましたが、全く医療の目的とそぐわないという他はありません。
N95認証マスク」とは0.3 µの粒子を95%カットすると言う強力な遮断能力を持っています(SARSウィルスそのものは、0.2 µだが、水分が付着したりするので効果があるとされている)。
ところが多くの人々が‐ ‐医療関係者であっても‐ ‐「誤解」しているのは、マスクの性能として、顔と鼻などとの厳重な密着性が要求されている、と言うことを忘れている点です。「N95認証マスク」の能力を発揮させるためには、マスクと顔や鼻の間にものを挟むことなどは絶対に許されません。また逆に、密着性を高くすれば、健康な人でも息苦しさを感じて長時間の装着はできないのです。
その後、WHOからは「N99」(0.5 µの粒子を99.95%カットする)と言うマスクまで飛び出しましたが、SARS発生から1年以上経った今、臨床医たちによる冷静な分析を行っている文献の中に、「サージカルマスク」(手術用の簡易マスク)でも充分だと言う記述も見られます。
重要な事は、「N95認証マスク」が本当に必要とされたかどうか検証すべきである、と言うことです。
N95認証マスク」をつけず、サージカルマスクだけで感染してしまった人々は、おそらく、サージカルマスクを素手で触れるなどの後、手洗いが不十分だったからだ、と言う意見もあります。
それを物語るのは、SARS患者発生国の中で、カナダを除いたヨーロッパなどの先進国でのケースです。そこでは医師や看護師たちへの院内感染など「二次感染」があったと言う報告がほとんどなされていません。ベトナム、カナダ、シンガポールやフィリピンで医療従事者の感染率を引き上げているのは、WHOから警告が発せられたときにはすでに感染が拡大していたからです。その後は「輸入感染者」が患者のほとんどを占めています。
これらの教訓としては、一般市民に対して、何よりまず「手洗いの励行」を強調すべきであっただろう、と私は思います。

感染拡大で重要な役割を果たしたと言われている「スーパースプレッダー」になる存在にも、大きな「誤解」があります。
この名前だけから連想されるのは、あたかも患者自身に固有のリスクがあるかのようなイメージの言葉が飛び交い、それが一人歩きしてしまったことです。
SARSアウトブレイクについて2003年秋ごろから公開されつつある知見では、「ネブライザー」(気管支などの症状は和らげるために薬を霧状にして喉の奥深くに吹きかける医療器具)を使った医療行為や「気管内挿管」(自立呼吸が困難となった時、口から管を入れて体に直接空気を送り込む医療行為)などによって感染拡大が起きたことが報告され、貴重な教訓としてSARSに立ち向かった医師達が警告しています。
ネブライザー」によって発生した霧は、患者の奥深くにへばりついたウイルスを付着させ咳嗽とともに口から排出され、病室全体に広がってしまうリスクがありました。また「気管内挿管」は患者の口と極限まで自分の顔を接近することが求められることから、簡単に飛沫感染してしまう危険性があったのです。それら非常に危険な空間の真っ只中に医師や看護師たちが常に放り込まれるという光景が多くの場所で繰り広げられました。
むしろ、この2つの医療行為に「スーパースプレッダー」の原因を求めるべきではないでしょうか。
また、高流量の酸素投与がウィルスを遠くまで拡散させてしまう、という実験も教訓の中で示されています。
今回のSARSでは、「可能性例」の10%が重症患者となったと言う報告がなされていますが、そうなった患者に対しては当然、「低酸素血症」(酸素不足の血液)を引き起こしているため、治療現場では大量の酸素が投与されていました。酸素投与と言う医療行為も、ウィルス拡散の引き金の1つとなった、と言う事は想像に難くありません。
「空気感染」をする結核の場合でも、「気管支鏡施行医」による検査(ファイバースコープによる気管支検査)や病理解剖医(病気で亡くなった人の解剖)の中での結核感染が多いのです。
例えばそのリスクが患者を運ぶ救急隊員にとっても同じで、搬送途中、緊急措置が必要となったとき、手で操作する呼吸補助で用いるアンビューバックにより大量のウィルスが室内にまき散らされた事は想像に難くありません。つまり、医療行為中における感染拡大防止の方法にこそ、実は感染拡大の大きなリスクがあったと思われるのです。
……

こうしたことを読むと、要するに、

  • たしかにエアロゾル感染はしそうだが、エアロゾルを人体が常に発出するというよりは、医療行為のなかで作成されたエアロゾル操作によってむしろ「エアロゾル性ウイルス粒子」が作出され、それがバンバン感染を広げたらしいというイメージ
  • やっぱり手洗いぐらいしかすることがないらしい
  • コロナウイルスという点で、SARSウイルスであるSARS-CoV-1と、COVID-19 (いわゆる「新型コロナウイルス性肺炎」)のSARS-CoV-2の間で、ある程度バイオケミカルに共通性をもつのだろうし、そこのイメージもついてきた
  • マスクが有効なのは要するに、汚染に接触した手・指が、鼻・口のダイレクトアクセス頻度を下げることによって劇的に感染のレートを下げるということなのだろうというイメージもわいた

ということで頑張って手洗いしていきたいと思った。