渡辺佑基『進化の法則は北極のサメが知っていた』を読んだことと相分離について最近考えたこと

正直なところ、感想をどう表現したらいいのか今も決めあぐねたまま書評を書き始めている。フィールドワークの本かバイオロギングの本かと思いながら読み始めたら、名高い『ゾウの時間ネズミの時間』をアップデートするような理論も登場する。

フィールドワーク・紀行と理論、どちらに重点を置いて紹介したらいいのか、ためらっている。紀行と理論がこの本では相互に絡み合っているからである。どちらも面白いのだがどちらかに偏ってしまうと十全にこの本を紹介できる気がしないし、なによりも紀行と理論というのは、どこか自分の頭の中の活動として真逆の方向を向いている。こんなとき自分のことばは無力だと思う。

 

紀行文としては北極、南極、オーストラリア、バイカル湖へ地球を飛び回り、相手にするのも、誰もが知るホホジロザメかと思えば、初めて聞いたニシオンデンザメ(西、隠田、鮫)やアデリーペンギン、バイカルアザラシと、テンションの高い文章がこれでもかと続いていく。だんだん「進化の法則って一体なんだろう?」という最初の疑問が、どうでもよくなっていく。


もう少し図が多いとイメージしやすかったかもしれない。振りほどかれないように必死に想像力で食らいついていった。

 

イカルアザラシの話も論文が公刊されているということで、サプリメント(付録データ)にはひょっとするとムービーとして記録映像がアップロードされているのではないかと思い、調べてみた。やっぱりあった。


https://doi.org/10.1073/pnas.1216244110


この論文、Supporting informationのムービーの1番目が、紹介された結果になる。紹介されている通りの、ペンギンが海の中でバババババババババーッとオキアミを食べる様子が捉えられている。

 

パイプ式輸送ネットワーク(space-filling fractal networks of branching tubes)モデルは初めて知った。多細胞生物の話だろうとタカをくくって読んでいたら単細胞生物もおなじ式に乗るという。自己相似的……フラクタルとはまた懐かしい、昔聞いたことがある単語が出てきたものだと思った。


しらべてみると、総説が出てきた。


https://www.esa.org/history/Awards/papers/Brown_JH_MA.pdf

 

『北極のサメ』書が紹介した、代謝からの生態学の理論的統合が評価されて、提唱グループのリーダーであるジェームズ・ブラウンは米国生態学会の賞を受賞して、その時の記念論文らしい。


所属を眺めていると「サンタフェ研究所」と出てくる。なるほどと思う。誰でも知っている複雑系・カオス研究のメッカだ。そうであればフラクタルを口にするのも全く不思議ではない。


さて、私は主に単細胞生物を扱って研究をしてきたので、フラクタル分枝チューブモデルにおける単細胞生物とは何か思いを馳せると、やはり細胞の中の細胞骨格系のことに考えが向く。アクチンや微小管のような細胞骨格系の構築を、サイズと関連させているのだろうと想像した。


その当否はまたいずれあらためるとして、自己相似の重要性をようやく納得できるようになった気がした。


最近の分子生物学では「相分離」という概念が急速に注目されている。らしい。らしい、というのはわたしも同僚が話題にしていて初めて知ったからだ。相分離、生物学で問題になるのは特に「〈液-液〉相分離」ということになる……らしい。


あらゆる分子は、固体・液体・気体のどれかの状態をとっている。これが「相」だ。温度と圧力でどの相になるかが決まる。しかし相のはざまとなる条件では、複数の相がいっしょにあらわれる。ペットボトルの水は0°Cで凍る。このペット氷を机の上に置いておくとだんだん溶ける。でも、この氷の入った水は、氷が溶けきるまでは、0°Cである。つまり、0°Cでこの水は固相と液相が同時に存在している。これも相分離だ。固体と液体の相分離なので、〈固-液〉相分離と……いうことになるのだろう。

 

正直、専門外すぎて自信がないが、先を続ける。

 

それで、生物細胞内の分子の挙動では液-液相分離である、として、それは一体何か。


生化学に明るい同僚に、「で、相分離て、なんなんですか?」と聞いた。彼は「わかんないですけど……」と前置いて、説明を続けた。

「ちょっとこんなことを考えてるんですよね。とりあえず、溶液の中で分子の濃度を上げていくんですよね。どんどん分子を濃くしていく。例えばシオだったらどんどん濃くしていくと溶液の濃度は一様に高くなるわけです。そうやって濃くしていくとある濃度で飽和して析出してきて、それが飽和溶液ですよね。でも、生体高分子にはそうじゃなく、飽和に達しなくても凝集するものがあるわけですよ」

「うん、そうですね」

「そういう高分子溶液は、いわば、溶液全体の濃度と、凝集体の近傍の濃度とに差があるわけですよね」

「ああー! そうだ。そうか、だからグローバルな濃度を上げていったときに、ローカルな濃度の分布にばらつきが出るんだ。シオだとそうじゃなくてグローバルな濃度=ローカルな濃度だけど、凝集するような生体高分子だとかならずしもグローバルな濃度がローカルな濃度そのままにならないんだな。そういう分散が高いような状態になることを相分離と考えたらいいのか……なるほど、相分離を完全に理解した」

「よかったですね(ニッコリ)」


正直そうやってあらましがわかってみる(わかったのかどうかはわからないが)と、「なにがそんなに新しいのか?」と思った。細胞の中で、互いに親和性の高いタンパク質分子同士がひきよせられ凝集するということは、自明のこととして教えられ、考えてきた、ような気がする。これまでの研究の中で誰もが何となく想像していた細胞内の分子の挙動が、物理化学的に定式化された概念を導入することによってあらためて大きなムーブメントになっているのだということだと思う。


それはともかく、このグローバルとローカルの違いということを聞いたときに思い出したのは、フラクタル図形だった。いや、よく考えてみたら「逆」、つまりフラクタル図形は、ミクロな図形がマクロな図形と相似だというのだが、相分離現象でいうところはローカルな濃度がグローバルな濃度と異なるということである。しかし、グローバル(マクロ)とローカル(ミクロ)を対比させて考えることが重要になるという点では自分にはとても近いように思われた。形態と濃度という、概念の性質どうしの違いなのかもしれない。

『植物たちの戦争』

よくきたな。この本は抜群に面白かった。過日公開したウイルスの話題とも関連するのだが、植物分野でも当然ウイルスは大きな関心が集まっている。
thinkeroid.hateblo.jp

当節流行といえば、タピオカである。タピオカはキャッサバという植物の芋(根)から作られる。キャッサバはアフリカの熱帯サバナ気候のような地域でよく生育する。生産性がものすごい。アフリカはいま人口がものすごいから、ものすごい地域のものすごい人口を養うものすごい作物が必要で、それがキャッサバだ。だからアフリカで生産されている量もものすごい。もともと生えていたのはブラジルあたりだが栽培されはじめたのは1万年……MEXICO……とにかく歴史もものすごい、植物の中の植物だ。

だいたい爆発的に栽培されている植物というのはいつもリスクがあると思っていい……MEXICO……俺が前にいたCENTERも、キャッサバをものすごくやっていた。所長は、キャッサバのウイルスを研究していたし、アフリカ出身の研究員もたくさんいた。「ものすごい植物をもっとものすごくする」という意識がビンビンだった。

作物と病気、というのは世界史を変える。言うまでもなく。

本書の中で取り上げられているのは、そのなかでも最大のものの一つ。

ジャガイモとその疫病菌だ。

この本はその疫病菌の正体が卵菌という生物であることを教えてくれる。「卵菌? 大腸菌とかとおなじだよね」とおまえわゆうかもしれないがおまえはここで100個ぐらい間違っている。卵菌は真菌、つまり「カビ」ではない。ついでに大腸菌も真菌ではない。

ながきにわたり人類は、みずからを取り囲む生き物の世界を自分との関わりにおいて解明して理解してきた。そうであるとするなら、赤の他人同士をおなじくくりにして呼ぶということは、ひとにとっておなじ現れ方をしたということに、ほかならない。

それは、病いをもたらすもの、ということだ。病の原因となる存在、つまり病原体である。

ウイルスも細菌(バクテリア)も菌類(真菌)も卵菌(その他の真核生物)も、人間活動に対して災いとなる病いをもたらすもの、つまり病原体としていっしょくたにされた。

いまここでそれを縷々説明することはしない。

ただ、この本ではそういう、植物への病原体に対する、植物自身の戦い、そして、その植物からめぐみを受け取りたいと願う人類の戦いが描かれているといってよい。生物の中の生物、植物の中の植物が、病原体の中の病原体と血みどろの争いを繰り広げる。それはメタファーであり、ROMANだ。

この本はどのように読んでも面白いと思う。植物が病原体と出会った時にみせる振る舞いの多彩さ、病原体そのものの多様さを楽しみ、ときに圧倒されるのも良いと思う。

「植物病理学」という重要な分野のコアとなる発想を表現したいと、学会が力を結集して書いたものだ。図表は的確である。全国の大学での講義で煮詰められた結晶のようなものであると言ってもいいだろう。

また、私のように、関連する分野(植物学・進化生物学)の立場からも、読んでたくさんの勉強することがあった。なにしろ、病原体・感染症というのは、生物の多様性の中でも常に最先端を走るものである。そこでは、おまえがスマッホをはなをほじりながら眺めている間に、文字通り生存のために、相手を出し抜き、あるいはやり込めて自分の繁殖を進める、軍拡競争が展開される最前線である。絶え間ないイノベーションのるつぼである。

例えば不勉強な私が知らなかったのだが、真菌アルタナリア・アルタナータの病原性は、ひとつの染色体が中心となっているという。

このアルタナータは本来は別に生きている植物ではなくて枯れた植物体に生える。この生き方を腐生という。腐生自体は病原性ではない。

しかし、リンゴ、イチゴなどで見つかった病原体が、もともと腐生だったアルタナータとほとんど変わらなかった。それだけでなくて、このリンゴ病原菌やイチゴ病原菌などで病原性に必要な毒素を作る遺伝子群が、ひとつの染色体に固まって載っている。毒素生産遺伝子クラスターが存在している。

そこまでは対して驚きではない。私がびっくりしたのはこの毒素生産遺伝子クラスターを乗せた染色体が、時々なくなることがあるということだ。こうしたありようの染色体を、Conditionally Dispensable (CD)染色体という。「ときどき・要らないことがある」染色体という意味である。

そういう遺伝因子として、バクテリアだとプラスミドがある。もちろん、真菌である酵母でもプラスミドをつかって遺伝学操作をするんだが、プラスミドは、記憶容量が小さい。メディアも小さい。USBメモリみたいなもんだ。

一方、染色体というのはハードディスクぐらい大きい。いや、当然ポータブルハードディスクというのはあるわけで、たとえとしてあまり上手くないんだが、普通は染色体はそんなにポータブルじゃなくて、いろんなしがらみで細胞の中からほかのゲノムとわかちがたくされているものだと思っていた。

それが、ときどきなくなるとは。ぶっとんでいる。

どういう動きをしているのか、いったん細胞から失われた染色体が別の細胞にひょっこり入ったりする(水平伝播、という)のか、しないのか、ということも生物学者としての想像力をかきたてるもので、ひとえに不勉強を恥じた。

それにしても、アルタナリア・アルタナータって、すごい名前だなと思う。

水平伝播といえば、卵菌であるジャガイモ疫病菌の病原性は、赤の他人である真菌から獲得したものであるという。これも、よく考えてみると、バイオテクノロジーで全然別の生物の遺伝子を使うことはあって、CRISPR/Cas9などももともとバクテリアの遺伝子を勝手にぶっこぬいて来てヒトの細胞に叩き込んだりしているシステムだから、全然不思議ではない。でも、そんなにうまいこといくのか? と思ってしまうから、やはり自然は人間の発想など軽々と超えていくのだ。

この水平伝播の現象を論じる第5章で説明される、腐生生活(死んだ生物を餌食にする)からだんだん生きた生物を栄養にするようになる過程はこの本のクライマックスだろう。

病原性、つまりその栄養を獲得する際に一方的に、相手(宿主)の都合も構わず振舞っていれば、植物側から反発されるような植物自体の抵抗性が出現するようになる。

そのうちに、病原体から腐生生活に絶対寄生菌になってしまったり、お互いが必要になる共生関係を結ぶようになる共生菌など、そういう多彩な戦略が出現したシナリオの仮説が巧みに描かれている。

他にも、ジベレリンの種無しブドウの作出への利用に病原体が関与しているおなじみの話や、アグロバクテリウムの効用など、植物の基本的な操作の背景になっている発想や現象がひととおり押さえられていてお得。

外山滋比古『知的生活習慣』(ちくま新書)

『思考の整理学』の著者の、最近の新書だ。
「思考の〜」と似たようなモチーフで、毒にも薬にもならないエッセイだな、と思って読み始めた。もっとも、やや毒寄りとも思えなくもない。

そんな中、ふとメモ術のところで目が留まった。

曰く、メモは、一時集積場(インボックス)としてのノートと、それとは別個に、2系統の「マスター・ノート」を準備する。つまり、3系統が平行するかたちになる。

マスター・ノートは、インボックスからめぼしい記述を抜き出して整理し、再考する。

マスター・ノートは、大テーマの系統と、細々したテーマおよび喫緊の課題を扱う系統の2系統を準備する。

新しいアイディアは、メモを朝書く。

メモには通し番号を振る。

ざっとこういった話が続くのだが、私が目を見開かざるをえなかったのはそれに続く記述だった。

長い間に、いつしか、多くなり、大テーマ用ノートが四十三冊、小テーマ関係が七十三冊目である。それぞれ通しのナンバーがふってあって、前者は四四〇〇をこえ、後者は、これを書いている時点で、一五三六三になっている。

これは真に驚くべき数字だと感じた。だからこそ毒にも薬にもならないというような文章が錬成できる。普段から、溜めている。しかもそれを繰り返し繰り返し考えようとする。
これを見習うにはどうしたらいいものか、と思う。

まだ「ウイルスは生物か無生物か」で消耗してるの?

要点

  • ウイルスが無生物だと言いたいわけではない。仮にそう言ってもウイルスの生を主張する人は絶対に納得しない。
  • 確実にウイルスの生と細胞の生は違う。ミミウイルスがどんなサイズであったとしても、ほかの存在にその生を依存している細菌があるとしても、両者の「生」は異なるし、実はそれに対する意見の相違はほとんどないと言っていい。
  • 「生」というツヨイことばの影響をまず逃れないといけない。そしてその上で両者のありようを正しく捉えなおし、関係性を掴まなくてはいけない。ウイルスは細胞なしでは存在せず、細胞もまたウイルス出現の可能性を完全に排除することはできない。むしろ「生命圏」とでもいうような、両者の生をネットワーク的に包含した枠組みで捉えたほうが良い、ということを説く。


ウイルスの意味論――生命の定義を超えた存在

ウイルスの意味論――生命の定義を超えた存在

スゴ本のDainさんから、あなたこの本が気に入るんじゃない? と教えていただいて読んだ。

この本の著者・山内名誉教授は半世紀以上にわたってウイルス学を研究してきた。みすず書房の雑誌「みすず」で連載していたものをまとめたものらしい。

人類社会に災厄として忌み嫌われてきた疫病を引き起こす原因ウイルスの研究の現場を知る、著者の記述は、それ自体が貴重な証言だといえる。

ウイルスとの戦いは、人類社会の歴史でもある。

わたしが興味を引かれたのが「反ワクチン活動の源流」が顔を覗かせたところだった。

英国では(種痘の提供義務の)違反者に対する罰金制度が設けられていた。これがきっかけで、一八七一年に全国的なワクチン反対連盟が結成され、ワクチン反対運動の始まりとなった。 (p.23)

ある章のコラムの、さらにその傍注にあたる文章だった。
反ワクチン運動は、現在のイメージから、単に非科学的な不勉強な市民が、心情にばかり訴えて広まっていったものだとばかり思っていた。それが、そういう制度的な強制性を背景にしていたというのは意外だった。もちろんわたしはここでも制度の方をこそ支持したいというのは全く変わらないが。

また天然痘根絶に使われた二叉針と、それを要請した簡便な操作と皮内注射の必要性も印象的だった。

ほかの著名ブログでも絶賛する声が高い。

わたしたちは、ウイルスに囲まれ、ウイルスを内に保ち、ウイルスと共に生きている。これ、教科書が変わるレベル(パラダイムシフト)だぜ。

dain.cocolog-nifty.com

特に、本書の場合、生命とはなにか、人間とはなにか、ということについても、斬新な直感が得られる。

いやもっと単純に、知って驚くというものだ。例えば、まあ、恥ずかしながら、次のことを私は知らなかった。

finalvent.cocolog-nifty.com

この言葉の通りだ。これらのブログで取り上げられている、中世ユーラシア大陸で灰色牛がモンゴル民軍団の生物兵器として牛疫を撒き散らして焦土しながら進んでいったことや、合成生物学、麻疹と人類社会の都市化(その典型としてのネーション的な戦争)ということも重要だ。

一方で、大枠の概念は、知っていたものが多い。生物学課程で学んできたものを復習するかたちではあるし、最近の話題でも、CRISPRを利用したゲノム編集技術は、わたしが最近とても興味を持っている事柄の一つである。こういうことは知っている。

ウイルスがものすごく速く進化するということも、もちろん進化生物学者としては知っていることの範囲内だった。

巨大ウイルスについてもときどき耳にする。それも正直「ただデカイだけやろ?」と思わないこともない。

内在性ウイルスが哺乳類の発生に必須だということは、確かにわたしは知らなかった。ただ、概念を根本的に変えるというものではなく、既存の自分の知識の体系を精緻化することに役立ってくれたという感想を持つ。

生物学者という立場からは、幸いなことに、必ずしも「世界の様相」は変わらなかった、といえる*1

そして、それ以上に私は自分の意識を改めて刺激されながら読んだ。

「自分の」世界の様相(見方)を表現しなくてはいけない、それがそもそもここに書かれているものと異なる、という違和感をそのまま表明する必要があると感じた。

生命の定義という、地雷原だ。いまやわたしは、そこに足を踏み入れていかなければなるまい、と感じている。

ウイルスを語るときに、いつも取りざたされる「生命の定義」だが、わたしたちはそれをアウフヘーベン止揚)する時期に来ているのではないかと思う。それは、ヘーゲルの言う意味そのものでである。

あるアイデア(正、もしくは「テーゼ」)に対して、矛盾するかのように見えるアイデア(反、もしくは「アンチテーゼ」)があるとき、これら両者それぞれの内的な論理の構築を解きほぐしたうえで、互いに矛盾とならないような視点を見つけ、組み直したアイデアを「合」「ジンテーゼ」として抽出するのがヘーゲル弁証法アウフヘーベンだった。

ここでは細胞性生物の生命をテーゼ、ウイルスをアンチテーゼとする。

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dialectic

ここで何度も繰り返し想起したのは、かつて先輩研究者に教えてもらった

ウイルスは生物か無生物かというのではない。利己的な《細胞"外"オルガネラ》だ。

というアイデアである。


単に字面でだけ生物と生物学を知るひとは、オルガネラを「細胞内小器官」と訳して事足りてきたかもしれない。そういうふるまいからすれば、この言い方はかなり違和感を与えるものだろう。

しかし、原語のorgan-elle、すなわち「小」+「器官」であることにいちど注目すれば、訳語のなかの「細胞内」は単に、これまで細胞内の観察で見られてきたということを、サイズ感も含めて、意味してきたにすぎない。だから、まったく矛盾ではないのだ*2

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それよりもむしろ、ウイルスが生物か無生物かということよりもまず、単にウイルスと細胞の存在を真正面から肯定することが必要だ。

一般向けにウイルスを扱ったいろいろな本でも、ウイルスと細胞の間で「生命」や「生物」の概念の定義を曖昧にして連続に論じようとするふるまいはしばしば見られるわけなのだが、この両者が存在すること自体は誰も疑っていない。ウイルスは細胞ではなく、逆も然りで、細胞もまたウイルスではない、ということを、出発点とすべきだと思う。

そして、次に何を考えるべきかがまた重要なのだ。

ウイルスは細胞なしでは増殖できないわけだが、逆に細胞はウイルスなしに増殖できる……と考えてはならない。

実は問題となっているのは、増殖というメカニズムではないのだ。

むしろ、細胞は、可能性としてのウイルスが出現しうることを、防ぐことが絶対にできない、と考えるべきだと思った。先に生命あるいは生物の定義のようなものをアウフヘーベンすべき、一段高い視点から捉え直すべきだと言ったが、それはこういうことだ。

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interaction

ここで、「ウイルスの起源」という、この本の中でけっこう大きな存在感をもって論じられている問題が関わってくる。三つの仮説があるという:「ウイルスは細胞が存在する前から存在した」「ウイルスは細胞から飛び出した遺伝子」「ウイルスは細胞が退化したもの」。

個人的にはこの話はどれであってもいいと思う。たぶん、わたしはあくまで細胞に興味がある。細胞生物の進化に興味があるんだと思う。だから「生命一般」なるものの問題に興味がない。

細胞の生とウイルスの生はずいぶん異なる概念で、同じではない。どちらも生きている、と言ってもいいと思うが、その生き様はずいぶん異なるよということは強調しすぎてもしすぎることはない。そして、お互いの生き様がぶつかったり、ときに寄り添ったりするということは、これまでに書いてきたこととなにも矛盾することではない。

この本を読んで思っていたのは、細菌・アーキア(真核生物を含む)に対するウイルスが共通した構造を持っていて、だからウイルスは生物最終普遍共通祖先(LUCA)以前からいた、という。それはわかるのだが、だからといって細胞の起源がウイルスだというのはどう考えてもちょっと距離がある。もちろん可能性としては消えない。

それより、上の絵でも描いたのだけど、細胞はその成立直後からずっと、ウイルスという存在とともにあったということだと思う。ウイルスの可能性を排除する細胞というのは、たぶん有り得ない。コンピュータプログラム開発の現場で言われる「脆弱性のないプログラムは有り得ない」という警句を思い出してもらってもいいと思う。そして「細胞外オルガネラ」という概念はこのアイデアともすんなりなじむものである。

細胞の生とウイルスの生を包含したシステムとして、ひとつの「生命系」とか「生命圏」のようなものとして捉えるべきなのだと思う。これは幾分概念的なもので、例えば「生態系」とは光の当て方が違う。

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もし気になったら、是非読んでみてください。



……と書いてきたが、わたしの脳内には突如ここでニック・レーンが華麗にエントリーし「生命とは生体膜に埋め込まれた鉄硫黄クラスターに電圧がかかってる状態だ」と言い始める*3と話が一気にややこしくなるだろう。レーンは情報の流れに対して「方法的に」、意図的に興味を持たないそぶりを見せながら、あくまでエネルギー的に論じるからだ。

生命、エネルギー、進化

生命、エネルギー、進化

しかし、それを論じるにはまた話をあらためるとしよう。

*1:さらに斜に構えて言うなら、ウイルスが新しいSFのネタになるというとき、むしろ、もっともクラシックなSFのひとつがそもそもそれに依拠して組み立てられたことを思い起こしさえする。

*2:こういう、「いっけん語義矛盾と見えて、定義に従って考えるならば些かも矛盾していない」という表現にわたしは激しく萌える傾向がある。

*3:『生命・エネルギー・進化』をひとことでいうとこうなる。

元号末進行

忙しい。
いろいろと作業が出来したところに迫りくる、10連休である。
ナマモノしごとなのでいつもどおり休んだり休まなかったり気持ち休みめで仕事したりすると思うのだが、外注する配列決定やプライマー合成は止まる。配列として確認が済んで出来上がってしまえばこちらの勝ちだ。休み中は、やったりやらなかったりできる。

#やっていき 力を高める戦術書・『やってのける』

やってのける

やってのける

ハイディ・グラント・ハルバーソン『やってのける』を読んだ。
頭を殴られるような衝撃を受けながら「やっていき力」がバキバキと自分の中に埋め込まれていく感覚があった。

個々のトピックは聞いたことがある。

「マシュマロ実験」
「意志力の枯渇」
「眼高手低」……

Twitterでsaconさんの指摘があって訂正)
だが、その意義を包括的に論じて提示されるとぐうの音も出ない。

眼高手低(間違い。理想を高く持ちながら、実行は着実に行うこと)とはなにか……本当にわかっているか?

眼高手低ということばは、聞いたことがあったし、心がけてもいたつもりだった。
しかしこの本を読むことを通じて、モチベーションのありようを、「重要なことにモチベーションがわくこと」と「困難さの前にモチベーションがくじけないこと」に、分けて考えるべきだとわかった。そのうえであらためて「眼高手低」の意義を強く認識することができた、と思う。

「眼高」でない、つまりその先に大したことがないのであればモチベーションがわかない。どうでもいいことはやってもしかたがない。

「手低」でない、つまり、いきなり難しく複雑なことをやろうとしても意気阻喪してしまうだけだろう。

こうしたことがていねいに説き起こされている。

「意志力を使わず」とはどういうことなのか

表紙に「意志力を使わずに自分を動かす」と書いてある。どういうことなのか? 何でも習慣化しろ、ということなのか? と、思うかもしれない。

そうではない。習慣化は重要なツールではあるが、それだけではない。

実は、私なりに言い換えれば、単に「意志力を使え」「やる気を出せ」というのではなく、目標それぞれのいろいろな性質に応じて、「意志の戦術」のようなものをさまざまに組み合わせていくのが効率的だよ、ということになる。

そして、その戦術を個人的にまとめてみた。

やっていきの戦術とツール

なぜ思考 何思考 証明型パーソナリティ 習得型パーソナリティ 獲得型基準 防御型基準 自発性
簡単なこと・得意なこと
やる気が湧かない
難しい課題
誘惑に負けそう
スピード重視
正確性重視
クリエイティビティが求められる
過程を楽しむ

自分の能力を証明せずにはいられない(あるいは逆に証明されることを過剰に怖がる)証明型のパーソナリティと、能力向上を楽しんでいく習得型。自分は後者の価値は認めつつもどうしても前者が抜けないということだと思う。本では、習得型パーソナリティが多くの場合に推奨されてはいるものの、ときにそれが有効になるときもある、ということも書かれている。

「獲得型」「防御型」というのは、相対的なもので、案件に関する基準のおき方ということだと思う。

自分の研究の場合の実現可能性とモチベーション

モチベーションと実現可能性の間の駆け引きを、自分の分野に引き寄せて考えてみる。

論文を書くということは任意のトピックについて一応可能なものだ。その手順は自分は押さえてきた。

ただ、私はたとえば自分でネイチャー誌に出すような研究を思いついて成し遂げるようなことができなかった。いまのところ思いつきもしない。

難しい問題ならいくらでもあるだろうと思う。しかし、特定の問題が「解ける」かどうかは、わかったものではない。

かろうじて、そこまでの道程をブレイクダウンして、マイルストーンを設定し、戦線を押し上げるということなら、なにがしか可能だと言えると思う。

もっと絶望的なことも考えてみた。教員公募、就職活動だ。これは全く不可解だ。自分はともかく、「いったいどうして……」というひとが苦労しているのを見ると目の前が暗くなる。だからこそ、「この人こそ」と思う人が出世をしていくのを見るのはとても気分のいいものだ。

いっぽうで、何かの試験というのは、決して容易ではない困難はあれ、まっとうに勉強すれば解けるようになるだろう。
前回の記事のようなStudyPlusを利用することで着実な進歩を可視化するようになることは助けになるはずだ。

thinkeroid.hateblo.jp


「やっていき」の戦術書として利用する

実際、自分もいろいろな本をこれまでに読んでいて、なんか「増やしたい」ことと「減らしたい」ことというのがあるていど似たフレームに落とし込むことができそうだな、とは感じていた。

それがまさにこの本だった。

「やっていき」といういいかたがある。だが、やっていけるし、やっていかずばやまじ、という気持ちが芽生えて育っていく。暗雲に一条の光を見た気分だ。

Studyplusで勉強とアウトプットをブーストする

Studyplusという学習支援ウェブサービスを、去年の後半から使っている。

Studyplus

Studyplus

  • Studyplus Inc.
  • 教育
  • 無料

資格試験や入学試験などの目標を打ち立てたり、参考書・問題集を登録して、取り組んだ分量や時間を記録することで可視化し、モチベーションを維持しようというサービスだ。

基本的には中高生が受験や学期の学習に用いている例が多い。
いわば「勉強用のSNS」だ。

かつての自分であれば、きっと

東京大学合格
TOEIC900達成

という目標を掲げて、

大学入試英語頻出問題総演習 (即戦ゼミ) 最新六訂版
「チャート式」
難問題の系統とその解き方物理

あるいは

英単語・熟語ダイアローグ 1800 三訂版

といった本を登録して、どれだけ取り組んだかを嬉々として記録していただろう。

大学受験は20年近く前に終わってしまったわけだが、その時でさえ、受験関連の個人ウェブサイトや掲示板にアクセスしていた。
刺激を受けたり、理解を深めたりするのに役立った。それだけでなく、アクセスしていたウェブサイトの管理人そのひとと、大学入学後に出会う(同じクラスだった)ということさえあった。

そういうわたし自身の経験とおなじことがきっとここで起きているのだろう……とStudyPlusの雰囲気を見て思った。

一方で、いまのわたしにはわたしの為すことがある。

入学試験を終えても勉学は終わらない。語学への興味はやはり持ち続けている。
行動に移せない期間が多いのは確かで、それが勉強が達成できない理由の根幹である。
また、いくつかの資格試験も気になっているので、そうしたことも時間があれば……と思いながら、日々の業務以外の余裕がどうも、ない。関係のない勉強をする暇があるなら、少しでも研究を進めろという内心の切迫がある。ただ、そうやって研究は進むものではないから、結果として、研究は進むわけではない、勉強はやらない、というままに年月が過ぎてしまう。

自分の時間利用をもっとうまくしたい。

本は読みたい。
勉強はしたい。
いろいろなことについて書きたい。
それでいて、研究(キャリア)はしっかり進めたい。

誰しもが思うことではないだろうか。

時間管理問題におけるメジャーな対策として「見える化」や「細切れ時間の活用」があることもまた周知だ。
そして、こういった方法論のために、スタディプラスは絶好のプラットフォームになる、という思いが日増しに募ってきた。

最初は英単語暗記の記録をしばらくやっていた。だがこの1ヶ月ほど、スキマ時間の読書や執筆へのコミットメント可視化にスタディプラスを適用してみた。

読書はとても簡単だ。

通勤電車に乗る。
スタディプラスで、読んでいる本の記録を開始し、ストップウォッチを開始する。
読書に没頭する。
到着駅の直前でストップウォッチを止め、進んだページを記載する。


この繰り返しである。コマ切れ時間だ。一回の読書時間は短い。せいぜい30-40分だ。しかし往復で1時間から1時間半になる。一週間で6時間ほどになる。こうして、なんとなく積ん読になった本が次々に読めるようになった。コマ切れ時間の読書には、専門の系統立った読書だけでなく、たゆたう興味が赴くままの雑書濫読もお似合いだ。

読書だけではない。執筆もできる。ストップウォッチを走らせている間に、一心不乱に書く。

スタディプラスの勉強記録では、勉強の「単位」を変更し、好きに登録することができる。
これがいい。

執筆の際は、日本語なら文字数で「字」を単位とするし、英語だったら「語」をワードカウントして書いていける。
自分の場合は出先ではiPhoneiPadで、Pagesアプリを使うことで語数をカウントしながら執筆することができる。

すこし気取っていうなら「study」の意味づけを、変えたのだ。
インプットに偏った勉強としてのstudyから、イン・アウト両面を包括する「書斎」へのコミットとしてのstudyへ。

「習慣をつくる」ことの力は、もはや強調しすぎることはないぐらい、周知のことになっている。
研究業界では『できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか (KS科学一般書)』が、「なぜ論文が書けないか」「論文を書くダメな方法は何か」という考察を心理学の専門のバックグラウンドから明解に説き起こされている。
変な話、この本は私の周りの研究者連中がこぞって読んでいる。

できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか (KS科学一般書)

できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか (KS科学一般書)


ではそれを誰しもが出来るかというと、出来ていないのではないか。

習慣を実行するうえで重要なのは、意志ではなく仕組みを設計することである。
さらにそのときに、達成に対する報酬を実感できると強い。

時折言及されるのは、ソシャゲのデイリークエストやログインボーナスといった仕組みだ。心理学的に報酬系に働きかけて、アクセスさせる、アクセスしたくなるよう働きかける仕組みである。
最初にどこで読んだかさえ思い出せないし、実際、無数のひとがあらゆるところで書いているのだと思う。
エストが「達成!」と表示されて、ピコーン!という音がなるだけで、報酬として解釈してしまう仕組みがある。
これは形のない捉えどころのない行為というものを見える化することそのものである。

スタディプラスの達成報告は、音は出ない(というか音を出してないからわからない)けれども、「やったね GOOD JOB!」というテロップが出てくる。
いや、ドラクエ・FFのレベルアップ音のようなファンファーレより重要なのが、何か目に見える数字が蓄積されることだろう。
ソシャゲの任務やログインボーナスでは、アイテムや資源が増加する。単なる達成音ではない。

勉強において、本当に蓄積したいものは、知識や能力だ。それは間違いない。
でも知識も能力も、蓄積はなかなか目に見えない。
だから、かわりになる指標を使うことになる。
それが知的活動時間の長さと、そのページ数や単語数のような取り組みの量だ。

指標は、直接可視化できない存在の動きを捉えやすくしてくれる。
訓練をするためには時間がかかる。
たくさん勉強したという「数字」が積み重なっていくと、ひとはそれを報酬だとみなすのではないだろうか。

それはフィクションだろうか?
フィクションでもかまわないとおもう。
実際の勉強をしっかり行なっているなら、それを比喩的に表現して、一種の娯楽・楽しみとして享受することを誰がとがめられようか?

スタディプラスを使う上での問題点でこちらから申し上げておきたいことがひとつある。

上で、勉強の「単位」を自由に設定することができると書いた。
もうお分かりかもしれない。

単位の数値が違いすぎるのだ。
例えば、500字の文章を読む労力と、書く労力は、非対称だ。
だからもしもこの字数を「読む」ときと「書く」ときで同じ単位として採用するなら、知的活動を見積もる数字としてはややアンバランスになってしまうということになる。
この事実は私に、以下のグラフを思い起こさせる、ということを書いて、オチとして締めくくりたい。