台風連休にTOEICの効果絶大な英語勉強法を知ること

連休で台風に閉じ込められている人にこの本を紹介したい。

アプローチが正しい

  • 教材を公式問題集に絞ること
  • 日本語訳を読んですぐに英文を読み(リスニングであればさらにそのあとにパッセージ音声を聞く)解説があれば読むこと
  • 翌日など間髪入れず復習すること

など、基本的に誰でも応用できる。

公式問題集はこれ

TOEICテスト公式問題集 新形式問題対応編

TOEICテスト公式問題集 新形式問題対応編

公式 TOEIC Listening & Reading 問題集 1

公式 TOEIC Listening & Reading 問題集 1

公式TOEIC Listening & Reading 問題集2

公式TOEIC Listening & Reading 問題集2

公式 TOEIC Listening & Reading 問題集 3

公式 TOEIC Listening & Reading 問題集 3

公式 TOEIC Listening & Reading 問題集 4

公式 TOEIC Listening & Reading 問題集 4

公式TOEIC Listening & Reading 問題集 5

公式TOEIC Listening & Reading 問題集 5


手法が単純な場合、むしろその根幹にある思想が重要

シンプルなアプローチで、どういうことが大事なのか、本質を読み抜くことが必要だと思う。組み立て方が、やっぱり学校英語教程とは180度違う。真面目に学校勉強をやってきたひとほど、この手法に認知不協和をおぼえるかもしれない。脳ミソがバグるわけだ。

だからこそ、あえてメソッドのままを墨守することが近道になるはずだ。

著者の実体験がニート状態*1で時間が無尽蔵という筆者の特徴から、たしかに彼がそれをすごく短期間(5週間)で達成したことは印象的に思える。しかし、期間は実際今回ある程度割り引いて考えたほうがよさそうだ。

それよりも、アプローチを正しく読み込むべきだろう。

英語の勉強は、脊髄反射を鍛えることがアルファでありオメガなので、再読的な反復・復習が効くのは、むしろ明白だ。

日本語訳を読んでから英文を読むことも、「わかり」の身体感覚が根幹にあるから、英語が自分に結晶化していきやすいと思う。

特に「日本語→英語」の効能は、自分も米国にいるときに日本のアニメを英語字幕で見ることでいろいろと役に立つ表現を獲得したので納得があった。

先日、妻にこの方法を教えた。はじめは彼女は不承不承、精読のようにやっていたが、この本を再読してから、間髪入れず復習するようになって、イディオムなどの吸収が良くなったらしい。

公式問題集の衝撃

実はわたしは以前にもTOEIC勉強のエントリを書いたことがある。14年前だ。しかし、あるとき読み直して完全に時代遅れになっていることがわかって取り下げた。

それは、よくできた公式問題集が発行される前だったからだった。

現行の公式問題集は非常にデキが良い。各パッセージの日本語訳も、イディオムの解説も行き届いている。

そうした解説をすべて読み込むというのが「春名メソッド」の根幹だ。しゃぶりつくそうというわけだ。

そして、私の目からもその価値は十分にあると思う。なぜなら、TOEICのシチュエーションは英語圏の生活でほんとうに「ある」からだ。

TOEICと世界の「現実」

TOEIC教師とミステリ作家がコンビを組んで書いた、TOEIC世界にどっぷりひたりつつ相対化してメタに描く小説『不思議の国のグプタ』がある。

不思議の国のグプタ

不思議の国のグプタ

「そんなに図書館がずっと工事中なわけがないだろう」

「そんなに飛行機が欠航するはずがないだろう」

「そんなに会議室が変更になるはずがないだろう」

日本でだけ暮らしてきたひとにはひょっとすると笑い話かもしれない。

ひとつ申し上げるとするなら、これらはすべて非常にしばしば生じる事象である。頻度としては高くないかもしれないが、決して非実在というわけではないものだ。

余談だがアメリカで暮らしはじめたときにいちばん激しく驚いたのは、道にバナナの皮が落ちていたことだ。あの、コメディーで登場人物が上から踏んづけてサマーソルトキックをキメる、あのバナナの皮である。

現実なのだ。

ともあれ、飛行機などはもう、ポピュラーさがぜんぜん違う。米国は飛行機がなければほとんど都市間の移動は現実的ではない。そして飛行機は気象状況に容易に左右される。欠航することも日常茶飯事だ。

そうした現実はTOEICの問題の世界の中にきわめて適切に反映されていると申し上げて差し支えない。

英語という言語での生活を送る上でもTOEICの勉強は決して無駄にはならないということをいいたい。様々な文書を読めるようになることは言うまでもない。

この連休でTOEICのこの効果絶大な英語勉強法を知って本質を読み取ったら、台風一過落ち着いてから、ただちに公式問題集を入手されるのがよい。

*1:「状態」とついているのはニートは定義上35歳までだからだ。

万年筆で書くことの快楽

文章を書くといえば「キーボードで打つ」。

それがこれまで20年間続いていた。修正も、保存もでき、色々とよかったからである。実際、20年昔の高校時代の文章さえハードディスクドライブには残っていた。その結果、全てとは言わないまでも、これまでの人生で自分の書いたテキストの大部分が、デジタルで格納されている。

私はこれまで手書きに一切重きを置いてこなかった。どちらかというとわずらわしいと思っていた。この10年の間に、ゲルインクボールペンとしての書きやすさでは完全にスタンダードとなった「ジェットストリーム」でさえも、「必要に迫られて使うもの」であって、ボールペンの中ではヨリましという程度にしか思わない。長文を手書きで書くことでアイデアや知的生産の面で何かが起きるかも、という期待がこれまで一度もなかったとは言わない。しかし、何かが来た顕著な例は記憶している限りない。そして、書く事はキーボードに戻っていくのであった。

2010年代後半になり、そこに1つの揺さぶりが生じた。スマッホの音声入力モードである。

これまで自分が参考にしていた本の著者が幾人も、自作を音声入力を使って執筆、作成したことを同時多発的に公表し始めた。勝間和代野口悠紀雄、その他大勢だ。いずれも自分が読んで参考にしてきた著者ばかりだ。当然、この人たちは、元来テックとかライフハックの話題に明るい。だからこそ自分が好んで読んでいたという面もある。それでも、音声入力技術が実用レベルになったという状況は、私に強い印象を与えた。私もやってみよう、と思った。

そしてくじけた。

私はどうも、考えるというと、選択肢が少ない。特に自分1人で行うとき、机に向かってキーボードに手を置いてコンピュータの画面を見上げるか、ノートを広げてペンを持つか、ということしかうまくいかない。そういった姿勢がいわば「ホームポジション」のように要求されて、慣れきってしまっていた。

だから、急に「音声入力で文章ができるようになったから、ソファーや散歩でそれを実践してみよう」としても全くうまくいかなかった。

私は音声入力をしようとすると、あらぬ方向を見つめてうわごとを吐く、頭がおかしい人になる。それ自体は自分では気にしないのだが、なかなか慣れず、そういうことができる場も意外と見つけられない。同僚のひしめくオフィスでやるわけにはいかない。気にしなければ路上でもかろうじて行けるが、やはり個室が必要だ。カフェはいけない。自宅も家族の相手をするのが難しい。そうなってくると、残念なことに音声入力が出る幕はどんどん縮小した。

専門で要求される文章では、ジャーゴン・専門用語に弱いことも響いた。

そして1年半が過ぎた。

相変わらず私はものを書くときはキーボードに向かっていた。それでも何とか書いているが、それもやむにやまれず戻ったのであって、いつでも音声入力で効率化することを夢見てきた。

書く行為はやむにやまれぬもので、書かれた内容だけが重要なのだ……書く内容が良ければ、別に最初からキーボード入力しようが、手書きしたものをキーボードで打ち込もうが、音声入力しようが、構いはしない……読者もそれを誰も構わない……どうでもいいことだ……と思っていた。

妻が、万年筆を使い始めたのは今年の夏だった。

自分も万年筆の経験が全くないわけではない。

かつて「人に手紙を書くときは、万年筆ではなくては失礼にあたる」あるいは「履歴書を書くときは万年筆でなくてはいけない」と読んだことがあって、「万年筆様の何か」としか言いようのない安いものを手に入れて使ってみたことがある。その経験は他のペンと大して変わらなかった。

インクの交換や何やかやで面倒なところのある万年筆は、その面倒さがクローズアップされるいっぽう、利点をあまり見出せていなかった。万年筆をすすめる本でも、まず書いてみて、と言っていたが、私のこれまでの安いものでは、あまり心を動かされなかった以上、そのまま深追いすることもなかった。

妻の最初の1本は、パイロットのカクノだった。極細字EF、コンバート洗浄用スポイト付限定版で1500円。

(これはコンバーターと洗浄用スポイトがないもの。それらのついた限定版は、文具店在庫があるかもしれない)

同時に彼女は、「本格的な」万年筆を買いたいといった。10,000円台の国産万年筆こそ、本格的な万年筆の初体験に選ぶべきだと、老舗伊東屋の万年筆チームは『万年筆バイブル (講談社選書メチエ)』でいう。中でも、パイロットのカスタム74は本格万年筆の入門として最適らしい、ということを、妻は文具仲間から聞きつけた。

ひとつきほどした8月のなかば、たまたま、カスタム74を非常に安価に入手できた。彼女の入手した万年筆カスタム74(ペン先F)で私も試し書きをしていた。それは実に衝撃と言えた。

書くことがこれすなわち、快楽であった。

妻がこの機会に、と、私の分も、2ヶ月後の誕生日でのプレゼント扱いとして、1本買ってくれた。妻に感謝した。

私は夢中になって書き始めた。これはいつかあらためて説明したいと思っているのだが、瞑想的な筆記ワークの「モーニングページ」を、昨年末から続けている。モーニングページは、毎朝起きぬけに「意識の流れるまま」を手書きで記し、ノートを3ページ埋めるものだ。The Artist’s Way(邦題『ずっとやりたかったことを、やりなさい。』)という、創造性涵養・再発見のためのワークブックのなかで紹介されているが、それに言及した『男子劣化社会』という本で私は最初に知った。

ずっとやりたかったことを、やりなさい。

ずっとやりたかったことを、やりなさい。

ノートのサイズは、原著者はレターサイズを使っているらしいが、私はA5版のツバメノートを使用している。アマゾンで安かったからである。

ツバメノート ノート A5 横罫 7mm×24行 100枚 H100S H2006

ツバメノート ノート A5 横罫 7mm×24行 100枚 H100S H2006


私は、モーニングページのために早速カスタム74を採用・投入した。使っているツバメノートが、万年筆とりわけカスタム74に非常に適している。カスタム74は私の初めての金ペン先で、これまでに使った廉価ペン先とは完全に違う感触があった。

すごかった。

『4本のヘミングウェイ』という本がある。

萬年筆くらぶ」という、筋金入りの万年筆愛好者集団が、昭和期の万年筆業界のキーピープルの証言を、1990年代の平成初期に集めた本だ。万年筆はその頃には、ビジネス用途としては完全にボールペンに置き替わられ、すでに愛好家向けのものとなっていたといっていいと思う。

この本の「はじめに」が、奮っている。

万年筆を使っていると、「ああ、万年筆いいですね。」と、
よく声をかけられる。
あなたもお使いですか? と言葉を返すと、
「いやいや私はそんな高価なものは必要ないんです。
ほら、これで十分!」と、
たいてい百円のボールペンか水性ペンを見せられる。
あげくに「本当に書きやすいんだから!
ちょっと書いてみなさい!」とわざわざペンを貸してくれる。
しょうがないので二、三文字書いて、
結構ですなあと、満足気にのぞき込んでいる持ち主にお返しする。
それでもたまに脈のありそうな人には、逆に私の万年筆を、
ちょっと書いてみますか?
と筆記角度を指定してお貸しする。
そういう人は「ほうほう、どれどれ」と書いてみた瞬間、
「え!」と絶句する。
天にも昇る書きごこち、とか、
ヌルヌル、ヌラヌラ、スルスル、カリカリという形容詞は
万年筆のためにあるのであって
他の筆記具ではそうはいかない。
万年筆が書きにくいという人は
その人の筆記角度にペン先が合ってないか、
筆圧や運筆のしかた、そしてそのスピードに合った
万年筆を選んでいないからである。
4本のヘミングウェイ―実録・万年筆物語

私はこれを二十年近く前に読んだとき、ちょっと引いた。でも、そんなに良いものなら、と思い、自分で「万年筆に似せた何か」を使ってみて、全くそういう感触がなくてがっかりした、と思う。

いまなら、このことばを完全に理解できる。

たぶん、そのためには、カスタム74という本格万年筆と、ツバメノートという万年筆筆記に適した紙の、両方が揃う必要があったのだ。紙を選ぶ、本格ペン先を選ぶことの凄みを知った。

そうすると、ほかの選択肢はどうなのだろうか?

いま、ツバメノートとカスタムという組み合わせに対して、手許で試せるバリエーションの選択肢は、ペン先では妻のカクノEF。

そして、紙ではモーニングページに以前使ったライフ・ノーブルノート、測量野帳モレスキン、そしてほぼ日手帳だった。

ほぼ日手帳は、実は今年分を昨年購入したものの、今年はモーニングページで「日誌欲」が解消されてしまうため、年始早々から使わなくなってしまっていた。ほぼ日手帳はご存知の通り、高額な商品で、ずっともったいないと思っていた。来年はもう購入を中止し、ツバメノートでモーニングページで一本槍にしよう、と思っていた。

カクノでツバメノートに書いてみたところ、なかなか良いのだが、EFで細すぎるのか、こすれる感じがあって、やっぱり、カスタムほどの鮮烈さがない。ただ、「カスタムの面影」をカクノの筆触りに探してみると、たしかに通じるものはある。廉価品カクノを通じて、本格品カスタムの「良さみ」を思い浮かべる、という感じだ。

一方、カスタムに対してノート(用紙)の方を変えてみた。これはもう断然、ほぼ日手帳の筆触りが良かった。なぜこれまでほぼ日を使わなかったのか、いまにして後悔するレベルであった。もちろん、それは、8月になってカスタムを入手して初めてそれがわかったのだから、仕方のないことだったのである。

モレスキンは良かった。抜群と言うわけではないが、ツバメノートの次くらいに書くのが楽しかった。測量野帳は値段なりだ。ノーブルノートは値段の割に、気持ちよさが分かりづらい。書いているとにじんだり裏抜けたりもしないので、いいノートではあるのだと思う。でもツバメノートほどの、心地よさが出てこない。

ノートの順位は、だからほぼ日>ツバメ>モレスキン>ノーブル>測量野帳……というあたりだと感じた。特に、ほぼ日は、書かずにいてはもったいない。書くこと自体が、気持ちいい。万年筆を使わないでボールペンを使うのではもったいない。せっかく高い紙なのだから。

こうして、万年筆を書くことそのものが愉しい、ということが知れてみれば、文豪たちが執筆に万年筆を愛用した理由もおのずから知れよう。

彼らは、第一に、キーボードという選択肢がそもそもなかった。しかしそうではなく、執筆そのものが万年筆を使えばストレスなく進められる。筆圧が必要ない。さらに、万年筆とその良きパートナーとなる紙(原稿用紙)で書くということが、直接自らにとって快い刺激となるのだ。

書くことの快楽。思想が文字になることが快いのではなく、文字になる以前、ペン先が紙に接触する感覚の淫靡にこそ、快楽・愉楽・悦楽が、源泉する。そのことが、ようやく自分の感覚としてはっきりわかった。

書くことは、やむを得ずすることでは無いのだ。ややおのれの狂気と思われることを恐れずにいうならば、筆記そのものが愉悦なのだから、その筆記行為の中で行使される「内容」とか「思想」と言うのはむしろ、「筆記」という行為のなかで「使っていただく」ものとさえいえよう。ペン先が紙の上を走ることが主としてあり、思想がむしろ従となる弁証法の地平だ。

キーボードで書くのは小回りが利く。音声入力は、手軽だ。それに加えて私は、快楽としての万年筆執筆に、出会ってしまった。さて、これらの使い分けは一体どうなっていくべきなのだろうか?

少し考えれば、既に答えは自明だ。

万年筆でツバメノートに執筆して快楽し、それを読み上げて音声入力に供する。

後は画面上でキーボードで修正を加えることが、読みうる文章、公開しうる文章としてデジタル化されることになる。

ノートを使えば手を前に「構える」ことになるから、考えることにまつわる「ホームポジション問題」も、これで解決する。音声入力に伴う入力ミスや、構成のための順序転換といった事はそもそも、キーボードで行う必要がある、ということは、音声入力の先達が口を揃えて述べていることだ。

特に、野口悠紀雄は、音声入力によって文字を入力するストレスが圧倒的に低減したことで、書く内容の有無が決定的になってきたことを指摘している。

つまり技術の進展は、古い技術を駆逐したわけでは必ずしもない。また正気の境界の細い赤い線を踏み越えるのを恐れずいうなら、音声入力と言う異次元の手法により、却って万年筆筆記の技法・習慣が純粋な「悦楽の源泉」としてクローズアップされつつ、技術的には互いに補完されて、ギャップがフラットになった、という事さえできるはずだ。

そういう意味でいえば、ボールペンや鉛筆と言う筆記具の出番は私の生活圏からは、ごく限られた業務上の要求を除いて使わない日々が増えた。

ノートの1日の中での機能分担ができた。朝のモーニングページは、まとまった紙面を要するので、ツバメノート。日中・出先ではモレスキンを使っている。バレットジャーナル風にメモをしている。そして、帰宅後、晩にほぼ日手帳を出す。半年以上放置していたほぼ日手帳が、ここにきて、純粋な喜びの源泉となった。

もし書き起こしてウェブに流したいことがあれば音声入力をすれば良い。音声入力がエラーを起こしたらキーボードで直せばいい。

最後に言っておかなくてはならないのは、私はアナログ最高ともデジタル万歳とも言うつもりはないということだ。それはつまり技術の進展は駆逐ではない。むしろ、おのおのの利点を損なわないかたちで共存することが可能になっていくかもしれないのだ。

無論、消えていくものはあり、新しいものも出てくる。また人間の習慣さえも変化していく。技術の進展の中では、いま手書き文字の認識はある程度精度が高いとは言え、やはり音声入力のほうに現在は軍配が上がりそうに思う。逆説的に、音声入力は音声しか拾っていないので、間違いが浮かび上がってきやすいように思える。文字認識OCRは、印刷物には良いけれど、人間が生身で書いたものを入力するにはまだ時間がかかりそうとも思う。

そういった将来的な変化も見据えながら、その時々でベタープラクティスをただ積み上げていくことのみが我々の成す事と考えて執筆をしていきたいと考えている。

渡辺佑基『進化の法則は北極のサメが知っていた』を読んだことと相分離について最近考えたこと

正直なところ、感想をどう表現したらいいのか今も決めあぐねたまま書評を書き始めている。フィールドワークの本かバイオロギングの本かと思いながら読み始めたら、名高い『ゾウの時間ネズミの時間』をアップデートするような理論も登場する。

フィールドワーク・紀行と理論、どちらに重点を置いて紹介したらいいのか、ためらっている。紀行と理論がこの本では相互に絡み合っているからである。どちらも面白いのだがどちらかに偏ってしまうと十全にこの本を紹介できる気がしないし、なによりも紀行と理論というのは、どこか自分の頭の中の活動として真逆の方向を向いている。こんなとき自分のことばは無力だと思う。

 

紀行文としては北極、南極、オーストラリア、バイカル湖へ地球を飛び回り、相手にするのも、誰もが知るホホジロザメかと思えば、初めて聞いたニシオンデンザメ(西、隠田、鮫)やアデリーペンギン、バイカルアザラシと、テンションの高い文章がこれでもかと続いていく。だんだん「進化の法則って一体なんだろう?」という最初の疑問が、どうでもよくなっていく。


もう少し図が多いとイメージしやすかったかもしれない。振りほどかれないように必死に想像力で食らいついていった。

 

イカルアザラシの話も論文が公刊されているということで、サプリメント(付録データ)にはひょっとするとムービーとして記録映像がアップロードされているのではないかと思い、調べてみた。やっぱりあった。


https://doi.org/10.1073/pnas.1216244110


この論文、Supporting informationのムービーの1番目が、紹介された結果になる。紹介されている通りの、ペンギンが海の中でバババババババババーッとオキアミを食べる様子が捉えられている。

 

パイプ式輸送ネットワーク(space-filling fractal networks of branching tubes)モデルは初めて知った。多細胞生物の話だろうとタカをくくって読んでいたら単細胞生物もおなじ式に乗るという。自己相似的……フラクタルとはまた懐かしい、昔聞いたことがある単語が出てきたものだと思った。


しらべてみると、総説が出てきた。


https://www.esa.org/history/Awards/papers/Brown_JH_MA.pdf

 

『北極のサメ』書が紹介した、代謝からの生態学の理論的統合が評価されて、提唱グループのリーダーであるジェームズ・ブラウンは米国生態学会の賞を受賞して、その時の記念論文らしい。


所属を眺めていると「サンタフェ研究所」と出てくる。なるほどと思う。誰でも知っている複雑系・カオス研究のメッカだ。そうであればフラクタルを口にするのも全く不思議ではない。


さて、私は主に単細胞生物を扱って研究をしてきたので、フラクタル分枝チューブモデルにおける単細胞生物とは何か思いを馳せると、やはり細胞の中の細胞骨格系のことに考えが向く。アクチンや微小管のような細胞骨格系の構築を、サイズと関連させているのだろうと想像した。


その当否はまたいずれあらためるとして、自己相似の重要性をようやく納得できるようになった気がした。


最近の分子生物学では「相分離」という概念が急速に注目されている。らしい。らしい、というのはわたしも同僚が話題にしていて初めて知ったからだ。相分離、生物学で問題になるのは特に「〈液-液〉相分離」ということになる……らしい。


あらゆる分子は、固体・液体・気体のどれかの状態をとっている。これが「相」だ。温度と圧力でどの相になるかが決まる。しかし相のはざまとなる条件では、複数の相がいっしょにあらわれる。ペットボトルの水は0°Cで凍る。このペット氷を机の上に置いておくとだんだん溶ける。でも、この氷の入った水は、氷が溶けきるまでは、0°Cである。つまり、0°Cでこの水は固相と液相が同時に存在している。これも相分離だ。固体と液体の相分離なので、〈固-液〉相分離と……いうことになるのだろう。

 

正直、専門外すぎて自信がないが、先を続ける。

 

それで、生物細胞内の分子の挙動では液-液相分離である、として、それは一体何か。


生化学に明るい同僚に、「で、相分離て、なんなんですか?」と聞いた。彼は「わかんないですけど……」と前置いて、説明を続けた。

「ちょっとこんなことを考えてるんですよね。とりあえず、溶液の中で分子の濃度を上げていくんですよね。どんどん分子を濃くしていく。例えばシオだったらどんどん濃くしていくと溶液の濃度は一様に高くなるわけです。そうやって濃くしていくとある濃度で飽和して析出してきて、それが飽和溶液ですよね。でも、生体高分子にはそうじゃなく、飽和に達しなくても凝集するものがあるわけですよ」

「うん、そうですね」

「そういう高分子溶液は、いわば、溶液全体の濃度と、凝集体の近傍の濃度とに差があるわけですよね」

「ああー! そうだ。そうか、だからグローバルな濃度を上げていったときに、ローカルな濃度の分布にばらつきが出るんだ。シオだとそうじゃなくてグローバルな濃度=ローカルな濃度だけど、凝集するような生体高分子だとかならずしもグローバルな濃度がローカルな濃度そのままにならないんだな。そういう分散が高いような状態になることを相分離と考えたらいいのか……なるほど、相分離を完全に理解した」

「よかったですね(ニッコリ)」


正直そうやってあらましがわかってみる(わかったのかどうかはわからないが)と、「なにがそんなに新しいのか?」と思った。細胞の中で、互いに親和性の高いタンパク質分子同士がひきよせられ凝集するということは、自明のこととして教えられ、考えてきた、ような気がする。これまでの研究の中で誰もが何となく想像していた細胞内の分子の挙動が、物理化学的に定式化された概念を導入することによってあらためて大きなムーブメントになっているのだということだと思う。


それはともかく、このグローバルとローカルの違いということを聞いたときに思い出したのは、フラクタル図形だった。いや、よく考えてみたら「逆」、つまりフラクタル図形は、ミクロな図形がマクロな図形と相似だというのだが、相分離現象でいうところはローカルな濃度がグローバルな濃度と異なるということである。しかし、グローバル(マクロ)とローカル(ミクロ)を対比させて考えることが重要になるという点では自分にはとても近いように思われた。形態と濃度という、概念の性質どうしの違いなのかもしれない。

『植物たちの戦争』

よくきたな。この本は抜群に面白かった。過日公開したウイルスの話題とも関連するのだが、植物分野でも当然ウイルスは大きな関心が集まっている。
thinkeroid.hateblo.jp

当節流行といえば、タピオカである。タピオカはキャッサバという植物の芋(根)から作られる。キャッサバはアフリカの熱帯サバナ気候のような地域でよく生育する。生産性がものすごい。アフリカはいま人口がものすごいから、ものすごい地域のものすごい人口を養うものすごい作物が必要で、それがキャッサバだ。だからアフリカで生産されている量もものすごい。もともと生えていたのはブラジルあたりだが栽培されはじめたのは1万年……MEXICO……とにかく歴史もものすごい、植物の中の植物だ。

だいたい爆発的に栽培されている植物というのはいつもリスクがあると思っていい……MEXICO……俺が前にいたCENTERも、キャッサバをものすごくやっていた。所長は、キャッサバのウイルスを研究していたし、アフリカ出身の研究員もたくさんいた。「ものすごい植物をもっとものすごくする」という意識がビンビンだった。

作物と病気、というのは世界史を変える。言うまでもなく。

本書の中で取り上げられているのは、そのなかでも最大のものの一つ。

ジャガイモとその疫病菌だ。

この本はその疫病菌の正体が卵菌という生物であることを教えてくれる。「卵菌? 大腸菌とかとおなじだよね」とおまえわゆうかもしれないがおまえはここで100個ぐらい間違っている。卵菌は真菌、つまり「カビ」ではない。ついでに大腸菌も真菌ではない。

ながきにわたり人類は、みずからを取り囲む生き物の世界を自分との関わりにおいて解明して理解してきた。そうであるとするなら、赤の他人同士をおなじくくりにして呼ぶということは、ひとにとっておなじ現れ方をしたということに、ほかならない。

それは、病いをもたらすもの、ということだ。病の原因となる存在、つまり病原体である。

ウイルスも細菌(バクテリア)も菌類(真菌)も卵菌(その他の真核生物)も、人間活動に対して災いとなる病いをもたらすもの、つまり病原体としていっしょくたにされた。

いまここでそれを縷々説明することはしない。

ただ、この本ではそういう、植物への病原体に対する、植物自身の戦い、そして、その植物からめぐみを受け取りたいと願う人類の戦いが描かれているといってよい。生物の中の生物、植物の中の植物が、病原体の中の病原体と血みどろの争いを繰り広げる。それはメタファーであり、ROMANだ。

この本はどのように読んでも面白いと思う。植物が病原体と出会った時にみせる振る舞いの多彩さ、病原体そのものの多様さを楽しみ、ときに圧倒されるのも良いと思う。

「植物病理学」という重要な分野のコアとなる発想を表現したいと、学会が力を結集して書いたものだ。図表は的確である。全国の大学での講義で煮詰められた結晶のようなものであると言ってもいいだろう。

また、私のように、関連する分野(植物学・進化生物学)の立場からも、読んでたくさんの勉強することがあった。なにしろ、病原体・感染症というのは、生物の多様性の中でも常に最先端を走るものである。そこでは、おまえがスマッホをはなをほじりながら眺めている間に、文字通り生存のために、相手を出し抜き、あるいはやり込めて自分の繁殖を進める、軍拡競争が展開される最前線である。絶え間ないイノベーションのるつぼである。

例えば不勉強な私が知らなかったのだが、真菌アルタナリア・アルタナータの病原性は、ひとつの染色体が中心となっているという。

このアルタナータは本来は別に生きている植物ではなくて枯れた植物体に生える。この生き方を腐生という。腐生自体は病原性ではない。

しかし、リンゴ、イチゴなどで見つかった病原体が、もともと腐生だったアルタナータとほとんど変わらなかった。それだけでなくて、このリンゴ病原菌やイチゴ病原菌などで病原性に必要な毒素を作る遺伝子群が、ひとつの染色体に固まって載っている。毒素生産遺伝子クラスターが存在している。

そこまでは対して驚きではない。私がびっくりしたのはこの毒素生産遺伝子クラスターを乗せた染色体が、時々なくなることがあるということだ。こうしたありようの染色体を、Conditionally Dispensable (CD)染色体という。「ときどき・要らないことがある」染色体という意味である。

そういう遺伝因子として、バクテリアだとプラスミドがある。もちろん、真菌である酵母でもプラスミドをつかって遺伝学操作をするんだが、プラスミドは、記憶容量が小さい。メディアも小さい。USBメモリみたいなもんだ。

一方、染色体というのはハードディスクぐらい大きい。いや、当然ポータブルハードディスクというのはあるわけで、たとえとしてあまり上手くないんだが、普通は染色体はそんなにポータブルじゃなくて、いろんなしがらみで細胞の中からほかのゲノムとわかちがたくされているものだと思っていた。

それが、ときどきなくなるとは。ぶっとんでいる。

どういう動きをしているのか、いったん細胞から失われた染色体が別の細胞にひょっこり入ったりする(水平伝播、という)のか、しないのか、ということも生物学者としての想像力をかきたてるもので、ひとえに不勉強を恥じた。

それにしても、アルタナリア・アルタナータって、すごい名前だなと思う。

水平伝播といえば、卵菌であるジャガイモ疫病菌の病原性は、赤の他人である真菌から獲得したものであるという。これも、よく考えてみると、バイオテクノロジーで全然別の生物の遺伝子を使うことはあって、CRISPR/Cas9などももともとバクテリアの遺伝子を勝手にぶっこぬいて来てヒトの細胞に叩き込んだりしているシステムだから、全然不思議ではない。でも、そんなにうまいこといくのか? と思ってしまうから、やはり自然は人間の発想など軽々と超えていくのだ。

この水平伝播の現象を論じる第5章で説明される、腐生生活(死んだ生物を餌食にする)からだんだん生きた生物を栄養にするようになる過程はこの本のクライマックスだろう。

病原性、つまりその栄養を獲得する際に一方的に、相手(宿主)の都合も構わず振舞っていれば、植物側から反発されるような植物自体の抵抗性が出現するようになる。

そのうちに、病原体から腐生生活に絶対寄生菌になってしまったり、お互いが必要になる共生関係を結ぶようになる共生菌など、そういう多彩な戦略が出現したシナリオの仮説が巧みに描かれている。

他にも、ジベレリンの種無しブドウの作出への利用に病原体が関与しているおなじみの話や、アグロバクテリウムの効用など、植物の基本的な操作の背景になっている発想や現象がひととおり押さえられていてお得。

外山滋比古『知的生活習慣』(ちくま新書)

『思考の整理学』の著者の、最近の新書だ。
「思考の〜」と似たようなモチーフで、毒にも薬にもならないエッセイだな、と思って読み始めた。もっとも、やや毒寄りとも思えなくもない。

そんな中、ふとメモ術のところで目が留まった。

曰く、メモは、一時集積場(インボックス)としてのノートと、それとは別個に、2系統の「マスター・ノート」を準備する。つまり、3系統が平行するかたちになる。

マスター・ノートは、インボックスからめぼしい記述を抜き出して整理し、再考する。

マスター・ノートは、大テーマの系統と、細々したテーマおよび喫緊の課題を扱う系統の2系統を準備する。

新しいアイディアは、メモを朝書く。

メモには通し番号を振る。

ざっとこういった話が続くのだが、私が目を見開かざるをえなかったのはそれに続く記述だった。

長い間に、いつしか、多くなり、大テーマ用ノートが四十三冊、小テーマ関係が七十三冊目である。それぞれ通しのナンバーがふってあって、前者は四四〇〇をこえ、後者は、これを書いている時点で、一五三六三になっている。

これは真に驚くべき数字だと感じた。だからこそ毒にも薬にもならないというような文章が錬成できる。普段から、溜めている。しかもそれを繰り返し繰り返し考えようとする。
これを見習うにはどうしたらいいものか、と思う。

まだ「ウイルスは生物か無生物か」で消耗してるの?

要点

  • ウイルスが無生物だと言いたいわけではない。仮にそう言ってもウイルスの生を主張する人は絶対に納得しない。
  • 確実にウイルスの生と細胞の生は違う。ミミウイルスがどんなサイズであったとしても、ほかの存在にその生を依存している細菌があるとしても、両者の「生」は異なるし、実はそれに対する意見の相違はほとんどないと言っていい。
  • 「生」というツヨイことばの影響をまず逃れないといけない。そしてその上で両者のありようを正しく捉えなおし、関係性を掴まなくてはいけない。ウイルスは細胞なしでは存在せず、細胞もまたウイルス出現の可能性を完全に排除することはできない。むしろ「生命圏」とでもいうような、両者の生をネットワーク的に包含した枠組みで捉えたほうが良い、ということを説く。


ウイルスの意味論――生命の定義を超えた存在

ウイルスの意味論――生命の定義を超えた存在

スゴ本のDainさんから、あなたこの本が気に入るんじゃない? と教えていただいて読んだ。

この本の著者・山内名誉教授は半世紀以上にわたってウイルス学を研究してきた。みすず書房の雑誌「みすず」で連載していたものをまとめたものらしい。

人類社会に災厄として忌み嫌われてきた疫病を引き起こす原因ウイルスの研究の現場を知る、著者の記述は、それ自体が貴重な証言だといえる。

ウイルスとの戦いは、人類社会の歴史でもある。

わたしが興味を引かれたのが「反ワクチン活動の源流」が顔を覗かせたところだった。

英国では(種痘の提供義務の)違反者に対する罰金制度が設けられていた。これがきっかけで、一八七一年に全国的なワクチン反対連盟が結成され、ワクチン反対運動の始まりとなった。 (p.23)

ある章のコラムの、さらにその傍注にあたる文章だった。
反ワクチン運動は、現在のイメージから、単に非科学的な不勉強な市民が、心情にばかり訴えて広まっていったものだとばかり思っていた。それが、そういう制度的な強制性を背景にしていたというのは意外だった。もちろんわたしはここでも制度の方をこそ支持したいというのは全く変わらないが。

また天然痘根絶に使われた二叉針と、それを要請した簡便な操作と皮内注射の必要性も印象的だった。

ほかの著名ブログでも絶賛する声が高い。

わたしたちは、ウイルスに囲まれ、ウイルスを内に保ち、ウイルスと共に生きている。これ、教科書が変わるレベル(パラダイムシフト)だぜ。

dain.cocolog-nifty.com

特に、本書の場合、生命とはなにか、人間とはなにか、ということについても、斬新な直感が得られる。

いやもっと単純に、知って驚くというものだ。例えば、まあ、恥ずかしながら、次のことを私は知らなかった。

finalvent.cocolog-nifty.com

この言葉の通りだ。これらのブログで取り上げられている、中世ユーラシア大陸で灰色牛がモンゴル民軍団の生物兵器として牛疫を撒き散らして焦土しながら進んでいったことや、合成生物学、麻疹と人類社会の都市化(その典型としてのネーション的な戦争)ということも重要だ。

一方で、大枠の概念は、知っていたものが多い。生物学課程で学んできたものを復習するかたちではあるし、最近の話題でも、CRISPRを利用したゲノム編集技術は、わたしが最近とても興味を持っている事柄の一つである。こういうことは知っている。

ウイルスがものすごく速く進化するということも、もちろん進化生物学者としては知っていることの範囲内だった。

巨大ウイルスについてもときどき耳にする。それも正直「ただデカイだけやろ?」と思わないこともない。

内在性ウイルスが哺乳類の発生に必須だということは、確かにわたしは知らなかった。ただ、概念を根本的に変えるというものではなく、既存の自分の知識の体系を精緻化することに役立ってくれたという感想を持つ。

生物学者という立場からは、幸いなことに、必ずしも「世界の様相」は変わらなかった、といえる*1

そして、それ以上に私は自分の意識を改めて刺激されながら読んだ。

「自分の」世界の様相(見方)を表現しなくてはいけない、それがそもそもここに書かれているものと異なる、という違和感をそのまま表明する必要があると感じた。

生命の定義という、地雷原だ。いまやわたしは、そこに足を踏み入れていかなければなるまい、と感じている。

ウイルスを語るときに、いつも取りざたされる「生命の定義」だが、わたしたちはそれをアウフヘーベン止揚)する時期に来ているのではないかと思う。それは、ヘーゲルの言う意味そのものでである。

あるアイデア(正、もしくは「テーゼ」)に対して、矛盾するかのように見えるアイデア(反、もしくは「アンチテーゼ」)があるとき、これら両者それぞれの内的な論理の構築を解きほぐしたうえで、互いに矛盾とならないような視点を見つけ、組み直したアイデアを「合」「ジンテーゼ」として抽出するのがヘーゲル弁証法アウフヘーベンだった。

ここでは細胞性生物の生命をテーゼ、ウイルスをアンチテーゼとする。

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dialectic

ここで何度も繰り返し想起したのは、かつて先輩研究者に教えてもらった

ウイルスは生物か無生物かというのではない。利己的な《細胞"外"オルガネラ》だ。

というアイデアである。


単に字面でだけ生物と生物学を知るひとは、オルガネラを「細胞内小器官」と訳して事足りてきたかもしれない。そういうふるまいからすれば、この言い方はかなり違和感を与えるものだろう。

しかし、原語のorgan-elle、すなわち「小」+「器官」であることにいちど注目すれば、訳語のなかの「細胞内」は単に、これまで細胞内の観察で見られてきたということを、サイズ感も含めて、意味してきたにすぎない。だから、まったく矛盾ではないのだ*2

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それよりもむしろ、ウイルスが生物か無生物かということよりもまず、単にウイルスと細胞の存在を真正面から肯定することが必要だ。

一般向けにウイルスを扱ったいろいろな本でも、ウイルスと細胞の間で「生命」や「生物」の概念の定義を曖昧にして連続に論じようとするふるまいはしばしば見られるわけなのだが、この両者が存在すること自体は誰も疑っていない。ウイルスは細胞ではなく、逆も然りで、細胞もまたウイルスではない、ということを、出発点とすべきだと思う。

そして、次に何を考えるべきかがまた重要なのだ。

ウイルスは細胞なしでは増殖できないわけだが、逆に細胞はウイルスなしに増殖できる……と考えてはならない。

実は問題となっているのは、増殖というメカニズムではないのだ。

むしろ、細胞は、可能性としてのウイルスが出現しうることを、防ぐことが絶対にできない、と考えるべきだと思った。先に生命あるいは生物の定義のようなものをアウフヘーベンすべき、一段高い視点から捉え直すべきだと言ったが、それはこういうことだ。

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interaction

ここで、「ウイルスの起源」という、この本の中でけっこう大きな存在感をもって論じられている問題が関わってくる。三つの仮説があるという:「ウイルスは細胞が存在する前から存在した」「ウイルスは細胞から飛び出した遺伝子」「ウイルスは細胞が退化したもの」。

個人的にはこの話はどれであってもいいと思う。たぶん、わたしはあくまで細胞に興味がある。細胞生物の進化に興味があるんだと思う。だから「生命一般」なるものの問題に興味がない。

細胞の生とウイルスの生はずいぶん異なる概念で、同じではない。どちらも生きている、と言ってもいいと思うが、その生き様はずいぶん異なるよということは強調しすぎてもしすぎることはない。そして、お互いの生き様がぶつかったり、ときに寄り添ったりするということは、これまでに書いてきたこととなにも矛盾することではない。

この本を読んで思っていたのは、細菌・アーキア(真核生物を含む)に対するウイルスが共通した構造を持っていて、だからウイルスは生物最終普遍共通祖先(LUCA)以前からいた、という。それはわかるのだが、だからといって細胞の起源がウイルスだというのはどう考えてもちょっと距離がある。もちろん可能性としては消えない。

それより、上の絵でも描いたのだけど、細胞はその成立直後からずっと、ウイルスという存在とともにあったということだと思う。ウイルスの可能性を排除する細胞というのは、たぶん有り得ない。コンピュータプログラム開発の現場で言われる「脆弱性のないプログラムは有り得ない」という警句を思い出してもらってもいいと思う。そして「細胞外オルガネラ」という概念はこのアイデアともすんなりなじむものである。

細胞の生とウイルスの生を包含したシステムとして、ひとつの「生命系」とか「生命圏」のようなものとして捉えるべきなのだと思う。これは幾分概念的なもので、例えば「生態系」とは光の当て方が違う。

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もし気になったら、是非読んでみてください。



……と書いてきたが、わたしの脳内には突如ここでニック・レーンが華麗にエントリーし「生命とは生体膜に埋め込まれた鉄硫黄クラスターに電圧がかかってる状態だ」と言い始める*3と話が一気にややこしくなるだろう。レーンは情報の流れに対して「方法的に」、意図的に興味を持たないそぶりを見せながら、あくまでエネルギー的に論じるからだ。

生命、エネルギー、進化

生命、エネルギー、進化

しかし、それを論じるにはまた話をあらためるとしよう。

*1:さらに斜に構えて言うなら、ウイルスが新しいSFのネタになるというとき、むしろ、もっともクラシックなSFのひとつがそもそもそれに依拠して組み立てられたことを思い起こしさえする。

*2:こういう、「いっけん語義矛盾と見えて、定義に従って考えるならば些かも矛盾していない」という表現にわたしは激しく萌える傾向がある。

*3:『生命・エネルギー・進化』をひとことでいうとこうなる。

元号末進行

忙しい。
いろいろと作業が出来したところに迫りくる、10連休である。
ナマモノしごとなのでいつもどおり休んだり休まなかったり気持ち休みめで仕事したりすると思うのだが、外注する配列決定やプライマー合成は止まる。配列として確認が済んで出来上がってしまえばこちらの勝ちだ。休み中は、やったりやらなかったりできる。