まだ「ウイルスは生物か無生物か」で消耗してるの?

要点

  • ウイルスが無生物だと言いたいわけではない。仮にそう言ってもウイルスの生を主張する人は絶対に納得しない。
  • 確実にウイルスの生と細胞の生は違う。ミミウイルスがどんなサイズであったとしても、ほかの存在にその生を依存している細菌があるとしても、両者の「生」は異なるし、実はそれに対する意見の相違はほとんどないと言っていい。
  • 「生」というツヨイことばの影響をまず逃れないといけない。そしてその上で両者のありようを正しく捉えなおし、関係性を掴まなくてはいけない。ウイルスは細胞なしでは存在せず、細胞もまたウイルス出現の可能性を完全に排除することはできない。むしろ「生命圏」とでもいうような、両者の生をネットワーク的に包含した枠組みで捉えたほうが良い、ということを説く。


ウイルスの意味論――生命の定義を超えた存在

ウイルスの意味論――生命の定義を超えた存在

スゴ本のDainさんから、あなたこの本が気に入るんじゃない? と教えていただいて読んだ。

この本の著者・山内名誉教授は半世紀以上にわたってウイルス学を研究してきた。みすず書房の雑誌「みすず」で連載していたものをまとめたものらしい。

人類社会に災厄として忌み嫌われてきた疫病を引き起こす原因ウイルスの研究の現場を知る、著者の記述は、それ自体が貴重な証言だといえる。

ウイルスとの戦いは、人類社会の歴史でもある。

わたしが興味を引かれたのが「反ワクチン活動の源流」が顔を覗かせたところだった。

英国では(種痘の提供義務の)違反者に対する罰金制度が設けられていた。これがきっかけで、一八七一年に全国的なワクチン反対連盟が結成され、ワクチン反対運動の始まりとなった。 (p.23)

ある章のコラムの、さらにその傍注にあたる文章だった。
反ワクチン運動は、現在のイメージから、単に非科学的な不勉強な市民が、心情にばかり訴えて広まっていったものだとばかり思っていた。それが、そういう制度的な強制性を背景にしていたというのは意外だった。もちろんわたしはここでも制度の方をこそ支持したいというのは全く変わらないが。

また天然痘根絶に使われた二叉針と、それを要請した簡便な操作と皮内注射の必要性も印象的だった。

ほかの著名ブログでも絶賛する声が高い。

わたしたちは、ウイルスに囲まれ、ウイルスを内に保ち、ウイルスと共に生きている。これ、教科書が変わるレベル(パラダイムシフト)だぜ。

dain.cocolog-nifty.com

特に、本書の場合、生命とはなにか、人間とはなにか、ということについても、斬新な直感が得られる。

いやもっと単純に、知って驚くというものだ。例えば、まあ、恥ずかしながら、次のことを私は知らなかった。

finalvent.cocolog-nifty.com

この言葉の通りだ。これらのブログで取り上げられている、中世ユーラシア大陸で灰色牛がモンゴル民軍団の生物兵器として牛疫を撒き散らして焦土しながら進んでいったことや、合成生物学、麻疹と人類社会の都市化(その典型としてのネーション的な戦争)ということも重要だ。

一方で、大枠の概念は、知っていたものが多い。生物学課程で学んできたものを復習するかたちではあるし、最近の話題でも、CRISPRを利用したゲノム編集技術は、わたしが最近とても興味を持っている事柄の一つである。こういうことは知っている。

ウイルスがものすごく速く進化するということも、もちろん進化生物学者としては知っていることの範囲内だった。

巨大ウイルスについてもときどき耳にする。それも正直「ただデカイだけやろ?」と思わないこともない。

内在性ウイルスが哺乳類の発生に必須だということは、確かにわたしは知らなかった。ただ、概念を根本的に変えるというものではなく、既存の自分の知識の体系を精緻化することに役立ってくれたという感想を持つ。

生物学者という立場からは、幸いなことに、必ずしも「世界の様相」は変わらなかった、といえる*1

そして、それ以上に私は自分の意識を改めて刺激されながら読んだ。

「自分の」世界の様相(見方)を表現しなくてはいけない、それがそもそもここに書かれているものと異なる、という違和感をそのまま表明する必要があると感じた。

生命の定義という、地雷原だ。いまやわたしは、そこに足を踏み入れていかなければなるまい、と感じている。

ウイルスを語るときに、いつも取りざたされる「生命の定義」だが、わたしたちはそれをアウフヘーベン止揚)する時期に来ているのではないかと思う。それは、ヘーゲルの言う意味そのものでである。

あるアイデア(正、もしくは「テーゼ」)に対して、矛盾するかのように見えるアイデア(反、もしくは「アンチテーゼ」)があるとき、これら両者それぞれの内的な論理の構築を解きほぐしたうえで、互いに矛盾とならないような視点を見つけ、組み直したアイデアを「合」「ジンテーゼ」として抽出するのがヘーゲル弁証法アウフヘーベンだった。

ここでは細胞性生物の生命をテーゼ、ウイルスをアンチテーゼとする。

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dialectic

ここで何度も繰り返し想起したのは、かつて先輩研究者に教えてもらった

ウイルスは生物か無生物かというのではない。利己的な《細胞"外"オルガネラ》だ。

というアイデアである。


単に字面でだけ生物と生物学を知るひとは、オルガネラを「細胞内小器官」と訳して事足りてきたかもしれない。そういうふるまいからすれば、この言い方はかなり違和感を与えるものだろう。

しかし、原語のorgan-elle、すなわち「小」+「器官」であることにいちど注目すれば、訳語のなかの「細胞内」は単に、これまで細胞内の観察で見られてきたということを、サイズ感も含めて、意味してきたにすぎない。だから、まったく矛盾ではないのだ*2

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それよりもむしろ、ウイルスが生物か無生物かということよりもまず、単にウイルスと細胞の存在を真正面から肯定することが必要だ。

一般向けにウイルスを扱ったいろいろな本でも、ウイルスと細胞の間で「生命」や「生物」の概念の定義を曖昧にして連続に論じようとするふるまいはしばしば見られるわけなのだが、この両者が存在すること自体は誰も疑っていない。ウイルスは細胞ではなく、逆も然りで、細胞もまたウイルスではない、ということを、出発点とすべきだと思う。

そして、次に何を考えるべきかがまた重要なのだ。

ウイルスは細胞なしでは増殖できないわけだが、逆に細胞はウイルスなしに増殖できる……と考えてはならない。

実は問題となっているのは、増殖というメカニズムではないのだ。

むしろ、細胞は、可能性としてのウイルスが出現しうることを、防ぐことが絶対にできない、と考えるべきだと思った。先に生命あるいは生物の定義のようなものをアウフヘーベンすべき、一段高い視点から捉え直すべきだと言ったが、それはこういうことだ。

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interaction

ここで、「ウイルスの起源」という、この本の中でけっこう大きな存在感をもって論じられている問題が関わってくる。三つの仮説があるという:「ウイルスは細胞が存在する前から存在した」「ウイルスは細胞から飛び出した遺伝子」「ウイルスは細胞が退化したもの」。

個人的にはこの話はどれであってもいいと思う。たぶん、わたしはあくまで細胞に興味がある。細胞生物の進化に興味があるんだと思う。だから「生命一般」なるものの問題に興味がない。

細胞の生とウイルスの生はずいぶん異なる概念で、同じではない。どちらも生きている、と言ってもいいと思うが、その生き様はずいぶん異なるよということは強調しすぎてもしすぎることはない。そして、お互いの生き様がぶつかったり、ときに寄り添ったりするということは、これまでに書いてきたこととなにも矛盾することではない。

この本を読んで思っていたのは、細菌・アーキア(真核生物を含む)に対するウイルスが共通した構造を持っていて、だからウイルスは生物最終普遍共通祖先(LUCA)以前からいた、という。それはわかるのだが、だからといって細胞の起源がウイルスだというのはどう考えてもちょっと距離がある。もちろん可能性としては消えない。

それより、上の絵でも描いたのだけど、細胞はその成立直後からずっと、ウイルスという存在とともにあったということだと思う。ウイルスの可能性を排除する細胞というのは、たぶん有り得ない。コンピュータプログラム開発の現場で言われる「脆弱性のないプログラムは有り得ない」という警句を思い出してもらってもいいと思う。そして「細胞外オルガネラ」という概念はこのアイデアともすんなりなじむものである。

細胞の生とウイルスの生を包含したシステムとして、ひとつの「生命系」とか「生命圏」のようなものとして捉えるべきなのだと思う。これは幾分概念的なもので、例えば「生態系」とは光の当て方が違う。

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もし気になったら、是非読んでみてください。



……と書いてきたが、わたしの脳内には突如ここでニック・レーンが華麗にエントリーし「生命とは生体膜に埋め込まれた鉄硫黄クラスターに電圧がかかってる状態だ」と言い始める*3と話が一気にややこしくなるだろう。レーンは情報の流れに対して「方法的に」、意図的に興味を持たないそぶりを見せながら、あくまでエネルギー的に論じるからだ。

生命、エネルギー、進化

生命、エネルギー、進化

しかし、それを論じるにはまた話をあらためるとしよう。

*1:さらに斜に構えて言うなら、ウイルスが新しいSFのネタになるというとき、むしろ、もっともクラシックなSFのひとつがそもそもそれに依拠して組み立てられたことを思い起こしさえする。

*2:こういう、「いっけん語義矛盾と見えて、定義に従って考えるならば些かも矛盾していない」という表現にわたしは激しく萌える傾向がある。

*3:『生命・エネルギー・進化』をひとことでいうとこうなる。

元号末進行

忙しい。
いろいろと作業が出来したところに迫りくる、10連休である。
ナマモノしごとなのでいつもどおり休んだり休まなかったり気持ち休みめで仕事したりすると思うのだが、外注する配列決定やプライマー合成は止まる。配列として確認が済んで出来上がってしまえばこちらの勝ちだ。休み中は、やったりやらなかったりできる。

#やっていき 力を高める戦術書・『やってのける』

やってのける

やってのける

ハイディ・グラント・ハルバーソン『やってのける』を読んだ。
頭を殴られるような衝撃を受けながら「やっていき力」がバキバキと自分の中に埋め込まれていく感覚があった。

個々のトピックは聞いたことがある。

「マシュマロ実験」
「意志力の枯渇」
「眼高手低」……

Twitterでsaconさんの指摘があって訂正)
だが、その意義を包括的に論じて提示されるとぐうの音も出ない。

眼高手低(間違い。理想を高く持ちながら、実行は着実に行うこと)とはなにか……本当にわかっているか?

眼高手低ということばは、聞いたことがあったし、心がけてもいたつもりだった。
しかしこの本を読むことを通じて、モチベーションのありようを、「重要なことにモチベーションがわくこと」と「困難さの前にモチベーションがくじけないこと」に、分けて考えるべきだとわかった。そのうえであらためて「眼高手低」の意義を強く認識することができた、と思う。

「眼高」でない、つまりその先に大したことがないのであればモチベーションがわかない。どうでもいいことはやってもしかたがない。

「手低」でない、つまり、いきなり難しく複雑なことをやろうとしても意気阻喪してしまうだけだろう。

こうしたことがていねいに説き起こされている。

「意志力を使わず」とはどういうことなのか

表紙に「意志力を使わずに自分を動かす」と書いてある。どういうことなのか? 何でも習慣化しろ、ということなのか? と、思うかもしれない。

そうではない。習慣化は重要なツールではあるが、それだけではない。

実は、私なりに言い換えれば、単に「意志力を使え」「やる気を出せ」というのではなく、目標それぞれのいろいろな性質に応じて、「意志の戦術」のようなものをさまざまに組み合わせていくのが効率的だよ、ということになる。

そして、その戦術を個人的にまとめてみた。

やっていきの戦術とツール

なぜ思考 何思考 証明型パーソナリティ 習得型パーソナリティ 獲得型基準 防御型基準 自発性
簡単なこと・得意なこと
やる気が湧かない
難しい課題
誘惑に負けそう
スピード重視
正確性重視
クリエイティビティが求められる
過程を楽しむ

自分の能力を証明せずにはいられない(あるいは逆に証明されることを過剰に怖がる)証明型のパーソナリティと、能力向上を楽しんでいく習得型。自分は後者の価値は認めつつもどうしても前者が抜けないということだと思う。本では、習得型パーソナリティが多くの場合に推奨されてはいるものの、ときにそれが有効になるときもある、ということも書かれている。

「獲得型」「防御型」というのは、相対的なもので、案件に関する基準のおき方ということだと思う。

自分の研究の場合の実現可能性とモチベーション

モチベーションと実現可能性の間の駆け引きを、自分の分野に引き寄せて考えてみる。

論文を書くということは任意のトピックについて一応可能なものだ。その手順は自分は押さえてきた。

ただ、私はたとえば自分でネイチャー誌に出すような研究を思いついて成し遂げるようなことができなかった。いまのところ思いつきもしない。

難しい問題ならいくらでもあるだろうと思う。しかし、特定の問題が「解ける」かどうかは、わかったものではない。

かろうじて、そこまでの道程をブレイクダウンして、マイルストーンを設定し、戦線を押し上げるということなら、なにがしか可能だと言えると思う。

もっと絶望的なことも考えてみた。教員公募、就職活動だ。これは全く不可解だ。自分はともかく、「いったいどうして……」というひとが苦労しているのを見ると目の前が暗くなる。だからこそ、「この人こそ」と思う人が出世をしていくのを見るのはとても気分のいいものだ。

いっぽうで、何かの試験というのは、決して容易ではない困難はあれ、まっとうに勉強すれば解けるようになるだろう。
前回の記事のようなStudyPlusを利用することで着実な進歩を可視化するようになることは助けになるはずだ。

thinkeroid.hateblo.jp


「やっていき」の戦術書として利用する

実際、自分もいろいろな本をこれまでに読んでいて、なんか「増やしたい」ことと「減らしたい」ことというのがあるていど似たフレームに落とし込むことができそうだな、とは感じていた。

それがまさにこの本だった。

「やっていき」といういいかたがある。だが、やっていけるし、やっていかずばやまじ、という気持ちが芽生えて育っていく。暗雲に一条の光を見た気分だ。

Studyplusで勉強とアウトプットをブーストする

Studyplusという学習支援ウェブサービスを、去年の後半から使っている。

Studyplus

Studyplus

  • Studyplus Inc.
  • 教育
  • 無料

資格試験や入学試験などの目標を打ち立てたり、参考書・問題集を登録して、取り組んだ分量や時間を記録することで可視化し、モチベーションを維持しようというサービスだ。

基本的には中高生が受験や学期の学習に用いている例が多い。
いわば「勉強用のSNS」だ。

かつての自分であれば、きっと

東京大学合格
TOEIC900達成

という目標を掲げて、

大学入試英語頻出問題総演習 (即戦ゼミ) 最新六訂版
「チャート式」
難問題の系統とその解き方物理

あるいは

英単語・熟語ダイアローグ 1800 三訂版

といった本を登録して、どれだけ取り組んだかを嬉々として記録していただろう。

大学受験は20年近く前に終わってしまったわけだが、その時でさえ、受験関連の個人ウェブサイトや掲示板にアクセスしていた。
刺激を受けたり、理解を深めたりするのに役立った。それだけでなく、アクセスしていたウェブサイトの管理人そのひとと、大学入学後に出会う(同じクラスだった)ということさえあった。

そういうわたし自身の経験とおなじことがきっとここで起きているのだろう……とStudyPlusの雰囲気を見て思った。

一方で、いまのわたしにはわたしの為すことがある。

入学試験を終えても勉学は終わらない。語学への興味はやはり持ち続けている。
行動に移せない期間が多いのは確かで、それが勉強が達成できない理由の根幹である。
また、いくつかの資格試験も気になっているので、そうしたことも時間があれば……と思いながら、日々の業務以外の余裕がどうも、ない。関係のない勉強をする暇があるなら、少しでも研究を進めろという内心の切迫がある。ただ、そうやって研究は進むものではないから、結果として、研究は進むわけではない、勉強はやらない、というままに年月が過ぎてしまう。

自分の時間利用をもっとうまくしたい。

本は読みたい。
勉強はしたい。
いろいろなことについて書きたい。
それでいて、研究(キャリア)はしっかり進めたい。

誰しもが思うことではないだろうか。

時間管理問題におけるメジャーな対策として「見える化」や「細切れ時間の活用」があることもまた周知だ。
そして、こういった方法論のために、スタディプラスは絶好のプラットフォームになる、という思いが日増しに募ってきた。

最初は英単語暗記の記録をしばらくやっていた。だがこの1ヶ月ほど、スキマ時間の読書や執筆へのコミットメント可視化にスタディプラスを適用してみた。

読書はとても簡単だ。

通勤電車に乗る。
スタディプラスで、読んでいる本の記録を開始し、ストップウォッチを開始する。
読書に没頭する。
到着駅の直前でストップウォッチを止め、進んだページを記載する。


この繰り返しである。コマ切れ時間だ。一回の読書時間は短い。せいぜい30-40分だ。しかし往復で1時間から1時間半になる。一週間で6時間ほどになる。こうして、なんとなく積ん読になった本が次々に読めるようになった。コマ切れ時間の読書には、専門の系統立った読書だけでなく、たゆたう興味が赴くままの雑書濫読もお似合いだ。

読書だけではない。執筆もできる。ストップウォッチを走らせている間に、一心不乱に書く。

スタディプラスの勉強記録では、勉強の「単位」を変更し、好きに登録することができる。
これがいい。

執筆の際は、日本語なら文字数で「字」を単位とするし、英語だったら「語」をワードカウントして書いていける。
自分の場合は出先ではiPhoneiPadで、Pagesアプリを使うことで語数をカウントしながら執筆することができる。

すこし気取っていうなら「study」の意味づけを、変えたのだ。
インプットに偏った勉強としてのstudyから、イン・アウト両面を包括する「書斎」へのコミットとしてのstudyへ。

「習慣をつくる」ことの力は、もはや強調しすぎることはないぐらい、周知のことになっている。
研究業界では『できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか (KS科学一般書)』が、「なぜ論文が書けないか」「論文を書くダメな方法は何か」という考察を心理学の専門のバックグラウンドから明解に説き起こされている。
変な話、この本は私の周りの研究者連中がこぞって読んでいる。

できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか (KS科学一般書)

できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか (KS科学一般書)


ではそれを誰しもが出来るかというと、出来ていないのではないか。

習慣を実行するうえで重要なのは、意志ではなく仕組みを設計することである。
さらにそのときに、達成に対する報酬を実感できると強い。

時折言及されるのは、ソシャゲのデイリークエストやログインボーナスといった仕組みだ。心理学的に報酬系に働きかけて、アクセスさせる、アクセスしたくなるよう働きかける仕組みである。
最初にどこで読んだかさえ思い出せないし、実際、無数のひとがあらゆるところで書いているのだと思う。
エストが「達成!」と表示されて、ピコーン!という音がなるだけで、報酬として解釈してしまう仕組みがある。
これは形のない捉えどころのない行為というものを見える化することそのものである。

スタディプラスの達成報告は、音は出ない(というか音を出してないからわからない)けれども、「やったね GOOD JOB!」というテロップが出てくる。
いや、ドラクエ・FFのレベルアップ音のようなファンファーレより重要なのが、何か目に見える数字が蓄積されることだろう。
ソシャゲの任務やログインボーナスでは、アイテムや資源が増加する。単なる達成音ではない。

勉強において、本当に蓄積したいものは、知識や能力だ。それは間違いない。
でも知識も能力も、蓄積はなかなか目に見えない。
だから、かわりになる指標を使うことになる。
それが知的活動時間の長さと、そのページ数や単語数のような取り組みの量だ。

指標は、直接可視化できない存在の動きを捉えやすくしてくれる。
訓練をするためには時間がかかる。
たくさん勉強したという「数字」が積み重なっていくと、ひとはそれを報酬だとみなすのではないだろうか。

それはフィクションだろうか?
フィクションでもかまわないとおもう。
実際の勉強をしっかり行なっているなら、それを比喩的に表現して、一種の娯楽・楽しみとして享受することを誰がとがめられようか?

スタディプラスを使う上での問題点でこちらから申し上げておきたいことがひとつある。

上で、勉強の「単位」を自由に設定することができると書いた。
もうお分かりかもしれない。

単位の数値が違いすぎるのだ。
例えば、500字の文章を読む労力と、書く労力は、非対称だ。
だからもしもこの字数を「読む」ときと「書く」ときで同じ単位として採用するなら、知的活動を見積もる数字としてはややアンバランスになってしまうということになる。
この事実は私に、以下のグラフを思い起こさせる、ということを書いて、オチとして締めくくりたい。




#シャドーイング のススメ

この本が2019/2/14までKindle版がセールで半額になっていることを知ったので、ぜひ紹介したいと思ってこのブログを書いた。
いや、うちのかみさんがね、シャドーイングを実践して英語での会話が上達したんですよ。……コロンボみたいな書き出しになってしまった。
彼女も、最初はうまくコツが掴めなかったようだった。
録音されている教材の発話文を追唱するときに、意味を取りながら発音することができない、というのが、はじめのころのハードルだったように記憶している。
私はその「意味を取れない」という話を聞いたとき、なにかピントがズレているな、と思った。うまくは言えないのだが、それはこのトレーニングで目指すものではないのではないか、と。
私も彼女の助けになることがないだろうかと、本屋を覗いてみた。そして一冊の本……というか、一人の著者がシャドーイングについて教育上の効果測定をして実証することを試みているのを知った。
この著者は後に新書を出していて内容がコンパクトにまとめられていた。それが冒頭に上げた本である。
この本はとてもいい本で、シャドーイングが認知の訓練になることを分解して説明していた。この本を読むことでどういう意味でシャドーイングを行うのかを理解することができる。単なる苦行ではなくて、一つ一つの行為の意味をはっきりと自覚することができる。
第4章「シャドーイングによるアウトプット産出への効果」で、「復唱する」という行為を四段階に分けて説明している(pp.107-8)。

  1. オウム・九官鳥のものまねに相似な「音響レベル」の復唱
  2. 単語の意味はわからないが発音の構成単位である「音素」としてはかろうじて認識できている「音韻レベル」の復唱
  3. 複数の音素が何かの語を構成していることを認識している「語彙レベル」の復唱
  4. 語彙からその文章の意味まではっきり理解した上で復唱する「意味レベル」の復唱

そしてさらにシャドーイングレーニングを進めることで学習がどのように達成されていくかが順を追って説明されている。

シャドーイングの学習の最初の段階では、意味もわからないまま音声をひたすら復唱するという、上記(1)(2)で示した音響・音韻レベルの復唱になりがちです。しかし、その学習に時間をかけて徐々に音声復唱することに慣れてくると、少しずつ復唱の自動化が進み、シャドーイングがだんだんと楽にできるようになります。そうすると、復唱と同時に、聞いた音声の意味も楽しみながら、シャドーイングを実行することが可能になってきます(つまり、(3)(4)の単語・意味レベルに移行します)。 (p.108)

私はこの箇所が、かみさんの当初のつまづきに対応すると思った。いまはつまづくとも、音響・音韻レベルの復唱で基礎固めをすることが、語彙・意味レベルでの熟達への近道であるという説明だ。だから、彼女にこの本を読んでもらった。そして彼女は実践し始めた。
彼女は最初、英単語・熟語ダイアローグ 1800 三訂版のものを0.5-0.8倍速再生してシャドーイングを行っていた。その後、彼女はTOEICの公式問題集に移り、そのリスニング問題をシャドーイングするようになった。2ヶ月ほど経過して、彼女は自分が1倍速でもシャドーイングができることに気がついたらしい。やはり効果はあるのだと思った。

ひとつ注意しないといけないのは、新書版ではあるが意外に専門用語をポンポン入れて書いてある。イメージすることが難しいことはあるかもしれない。
Amazonのレビューを見ると「シャドウイングのやり方についての詳細が知りたかった」と書いているひとがいる。しかし、読んで見れば第6章で経験の浅い段階から熟達の過程を説明してある。ほんとうに読んだのか疑問になった。
確かに、中に教材が入っているわけではないという意味では実践の本でないということもできるかもしれないが、自分に合った教材を探すのもまた重要な学習のいち場面だろう。著者はこういった実践教材も出しているようだ。

決定版 英語シャドーイング【改訂新版】

決定版 英語シャドーイング【改訂新版】

#英語多読 のはじめかた

多読について検討しているということを、前の記事ですこしふれた。

 

多読の全体像

多読というメソッドの全体像をつかむにはこの本が手軽だ。

英語多読法 やさしい本で始めれば使える英語は必ず身につく!(小学館101新書)

英語多読法 やさしい本で始めれば使える英語は必ず身につく!(小学館101新書)

この『英語多読法』のキンドル版は2019/01/09まで50%ポイント還元セールをやっているらしい。

要するに……この本のサブタイトルの

やさしい本で始めれば使える英語は必ず身につく

ということの通りなのだが、じゃあどれだけ「やさしい」のか?

それは簡単で、

子供向けの本

である。絵本であり、読み物である。

それは日本語を人生で最初に身につけたひとでもまったく同じだ。子供は簡単な本から読んでいく。

多読の教材

このための教材は英語でもたいへん豊富である。OxfordやPenguin、Cambridgeなどさまざまな出版社から子供向け・初学者向けの非常にわかりやすい初級英語で綴られた本がたくさんある。

こういう教材はユーモラスで、ドラマティックな演出も巧みである。さらに、「Level 1」のように進度別に分類されていて、数字が上がっていくにつれて徐々に表現や単語が高度になっていく。こうしたものは、Graded readersとかLeveled readersという名前で呼ばれている。

多読教材は、たいていは薄い。ただ、問題は、厚みに対してやや割高であることだ。「多」読と言っておきながら、量がこなせないのでは本末転倒だ。

多読の入門には、無料で200冊もの教材を読むことができるOxford Owlをまず試してほしい。

Oxford Owlには、Oxfordのleveled readersであるOxford Reading Tree (ORT)という、絵本教材とも言ってよいシリーズが多数収録されている。

ORTは絵本であるから文章は簡単だが、実際にそれをちゃんと楽しもうとすると、絵をすみずみまで読み解く必要があり、大人でも結構楽しかった。

さらにOwlサイトでは、Audioの再生までできる。

ORTはLevel 1から始まっているのだが、文章が出てくるのはLevel 1+からだ。私はそこから読み進めている。

登録は

を見るとよい。

OWLの代替案としては公立図書館の多読コーナーがある。いま私の最寄りの図書館には英語多読コーナーがあって多数の教材が揃えてある。これをかたっぱしから借りていけばいいわけだ。

正直なところ、多読教材は基本的に個人で買うものではないなと思っている。購入するにしても、数人で出資する仲間を募ってやるべきだろう。

まず、それはひとつの望ましいルートであるにせよ、最終的な到達地点ではない……通り過ぎていくべきものだ。そして、一般の英語の原書を買ってどんどん読んでいったほうがいいと思う。もちろん「特に思い入れの強いものをいくつか手元に置きたい!」というときには、この限りではない。

多読の効果

自分も文献的な検討段階ではある。しかし多読というアプローチはさまざまな大学の一般教養課程の英語の単位でも積極的に採用されているし、私も前向きにコミットし始めている。そして、おそらくその結果・成果のような手ごたえを感じている。

論文や英語書籍を読むときの視線がスムーズになった。知らない単語やフレーズはさておいて、文章の流れのグルーヴに身を委ねるということが簡単になった。

そしてなにより、「あからさまに簡単なものから徐々に強度を上げていく」メソッドにプリズナートレーニングと共通するものがある。

英語と筋肉という違いはあるが、アイソレーショニストな、ウェイトや単語帳をいったん離れてどちらも実地の動き(英文)のなかでの機能向上を目指す。

従って某囚人勢にはたったひとこと「英語を子供向けの易しい本から読んでいくプリズナートレーニング 」というだけでわかってもらえると思う。焦ってレベルを上げすぎてはいけないことも同じなら、「だいたいこれぐらいが適正レベルでしょ」と入門者が思うレベルがだいたいステップ5(監獄換算)で、その前にこなしておくべきステップがかなりあるということも奇妙なまでに符合している。

自分もORTをOxford Owlで進めていきながら、多読の真髄は「1ページに3語くらいしかない本」から始めることだというのを納得している。私は大学受験のときも英語は単語や英文法や英文和訳だけでなく音読にも非常に力を入れてやったし、大学ではESS(英語会)に所属していた。三年半のアメリカ留学も経験した。それでもなお「1ページに3語くらいしかない本」に強い力のパワの解放感を感じている。自分が幼児になって無邪気に遊ぶ解放感、それはアカチャンの可能性だ。

英会話は英作文じゃない

英会話の練習をするひとは、はじめは単文を並べることからはじめてみることを提案したい。
いきなり関係代名詞のような複文を使おうとすると、「Lv1なのにバハムートを召喚しようとしてMPが足りなくなる」ような状況に陥る、と思う。
まずは、初級のワザをスムーズに繰り出せるようにする。
いや、初級のワザを積み重ねることでひとまず十分なんじゃないか? と思う。

最近、英語の「多読」用教材を眺めている。本というかパンフレットサイズで、使った人も少なくないかもしれない。使ったことがなくても、洋書売り場などで見たことがあるだろうか。この多読教材で初級次のシリーズを見て、単に単語が易しいだけではなくてそもそも複文がほとんど使われていないなという印象を持った。

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多聴多読マガジン2016年4月号から

多聴多読マガジン2016年4月号」から

多聴多読(たちょうたどく)マガジン 2016年4月号[CD付]

多聴多読(たちょうたどく)マガジン 2016年4月号[CD付]


このことは英会話練習でも同じだと思う。
もしかすると、多くの場合、複文は書き言葉のためのものかもしれないなという感じがしてきた。もちろん、口語でもand, but等の接続詞はよく使う。でも、その場合でも、繋がれた個々のフレーズはあんまりデカくなると正直よくわからなくなる。

単文を並べることが英会話になるのだろうか? と思うかもしれない。でも、英会話はやっぱり単文がよく合っていると思う。
口頭ってことは、聞く人がいるはずだ。単文を1つ言ったら、アレが来るんですよ、アレが……あいづちが。
あいづちに続けて、文章をつないでいく。相手の表情やしぐさをみながら、自分の言っていることが相手に伝わっているかフィードバックを受け取りながらコミュニケーションが進む、というのが定石だと思う。

英会話はその場その場の当意即妙のセッションだ。コミュニケーションのラリーがテンポよく続けられると楽しい。
ところが、長い複雑な文章を正しく作成してからそれを読み上げようとしたらどうなるだろう? まず内容を自分の頭の中で考えて、そしていったん日本語で構成して、さらにそれを翻訳しようとして単語が思い浮かばず、無限の時間がかかり、相手は黙ったまま離れていき、天人は降りてきて衣の裾で石を撫でて帰っていき、老い、二人はそれぞれ別れ別れになって死ぬ……THE END.

つたなくてもカタコトでも、短い文章を相手に伝えるといい。
それが、ことば以前にあなたが相手に伝えたい一番大事なこと……「私はあなたの前にいて、あなたとコミュニケーションしたい」ということそれ自体を雄弁に語るからだ。そのひとことを、その都度、言外にお互いに確認していこう。

書き言葉ではあいづちがない。
書き言葉を綴るときに目の前にあるのは紙かディスプレイだろう、と思う。
だから、実質的にあいづちを織り込んだ文章を構成する必要がある。そこであいづちとして機能するのが接続詞や関係詞なのではないか。このあいづちは単語として目に飛び込む。そして意味を息継ぎさせる。読者はそこで一休みできる。
これがいわゆる「英作文」で求められていることなのだと思う。そこでは、面と向かっての相手なしに、伝えたいことの要素を十全に自分の頭から引き出して、誤解ないように構築して提示しておく必要がある。このときに、文章を構築するテクニックとして、関係代名詞などで実現するリズム感が、読み手の側のストレスを軽減し、結果として誤解を減らすことにつながる。

英文法の課程・授業ではひとつのカリキュラムの重要な部分として関係代名詞などの項目が出ないことはない。しかし、それを無理に使う必要は必ずしもないはずだ。

「単文を重ねる」というアイデアは、すでに有名な本「瞬間英作文」シリーズにも見られていることであるといえる。このシリーズは、単文がすぐに口をついてだせるようにあらかじめ練習しておくというものだ。ただ、そのためにあの本を丸ごと覚えなければいけないかというと、わたしにはよくわからない。それよりも、「単文……ひとつの主語とひとつの動詞だけを含む文章……を積み重ねよう」という心がけを抱いてさえいればいいのではないか?

どんどん話すための瞬間英作文トレーニング (CD BOOK)

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イメージしてほしい。自分がお腹をすかせてソフトクリーム屋の前にいる幼児であると。
あなたは隣にいる保護者にソフトクリームをねだる言葉を投げかけなくてはいけない。
そういう、ステップ1からトレーニングしていくということが、英会話において単文から始めるということなのだと思ってほしい。

単文を口にしてみることを思い浮かべてみる。そうすると自分がちょっと舌ったらずな幼児のように思えるかもしれない。幼児みたいに相手に舐められるという気がするかもしれない。

満を持して舐められればよい、ソフトクリームのように。溶ける前に。そして幼児から徐々に精神的に成長していけばいいということだ。