殺シ屋鬼司令II

世界一物騒な題名の育児ブログです。読書と研究について書いてきました。このあいだまで万年筆で書く快感にひたっていました。当ブログでは、Amazonアフィリエイトに参加してリンクを貼っています。

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ベルクソン『物質と記憶』と『世界は時間でできている』を読み比べて

目次

古典というものの論争的な構成

物質と記憶』という本は論争の書である。
物質と記憶』にかぎらず、古典と呼ばれる本が多くそうである。
『統治二論』のような政治哲学だけでなく、たとえば『利己的な遺伝子』なども典型的に論争の書であるということは以前にも書いた。

thinkeroid.hateblo.jp
こうした古典はまずその論争の文脈で理解する必要がある。
物質と記憶』が論争を仕掛けているのは、「観念論」と「実在論」の伝統的な敵対的二大勢力の両方である。
物質と記憶』が観念論・実在論・随伴現象説を相手取って論争する本であるように、『世界は時間でできている』もまた『物質と記憶』をある意味ではレッスルする。
『世界は時間でできている』は『物質と記憶』を逆から書いている。thinkeroid.hateblo.jp

物質と記憶』の第四章で出てくる議論が『世界は時間でできている』の序章に登場する。
持続を未完了相ととらえる、という知見も『世界は時間でできている』では最初から書かれているが、『物質と記憶』には書かれていない。
これがわかっていると『物質と記憶』の大筋は信じられないぐらいシンプルになる(とはいえ、記述方法ゆえにそれでもなかなかとっつきにくい部分は多分にある)。

いちばんつまづきやすい、時間の実在性も『世界は時間でできている』では序章から書いてある。
体験の実在性はそのままベタに、体験のヴィヴィッドさであると書いてある。
それはそのままクオリアのことになる。
現象面だということとパラフレーズできる。
ここですでに現象面だということが書いてあることになっている。
物質と記憶』ではこれらは最後に出てくる。

このようなわけで、『世界は時間でできている』を読んだ後で『物質と記憶』を読むと「強くてニューゲーム」みたいなチートプレイになるといえる。
これはある意味では当然のことで、ベルクソンが知らなかったたくさんのことをちょうど1世紀後の我々は常識にしている。
その一方で、一世紀たって明らかになったことがあってなお抜け出せていなかった迷妄も多分にあるのを、『世界は時間でできている』によって乗り越えることができるというわけだ。
『世界は時間でできている』は、マルチ時間スケールモデルとして(ひとまず)ヒトの感覚・運動システム(知覚ー行為のサイクル)を描き出すうえで、いったん「イマージュ」という『物質と記憶』の最大のキーワードとされる概念を、注釈で触れるのにとどめている。
私自身は『世界は時間でできている』という本にレッスルするために『物質と記憶』という本を必要とした。それによって、以前『世界は時間でできている』を読んで理解できなかったことを解消することができた(フリーハンドで説明し切ることができるとは言っていない)と思っている。そして、そのことをここに書いてみたいと思っている。
いうなれば、自分で組み立てた『物質と記憶』というガンプラと、『世界は時間でできている』というガンプラを、両方の手それぞれに持って、ブーンドドドドドド(BUNDODO)する記事を以下に書く。

現象としての「質」(クオリア)の性格づけ

随伴現象説などとはちがい、感覚質(クオリア)の「ありか」は脳ではない。ベルクソンクオリア(……のそのもっとも細かいパーツとなる、いわゆる「純粋知覚」)のありかを、そのクオリアを引き起こすもののところにあると考える。

例えば大雑把に言ってわたしがiPhoneを見る時の感覚(純粋知覚)はわたしの体内にはなく、iPhoneのほうにあると考える。
大雑把というのは、実際のiPhoneを持っているときの意識には、単に「片面が光る板だ」「ガラスだ」という様々な知覚にふくめてその他の色々な経験と一緒くたになってしまっているので微妙にズレが生じてしまう。
『世界は時間でできている』の注でも但し書きがあるように、こうしたアマルガムになっている。
だから本当にiPhoneに起因する感覚質は、まじりっけのない純粋な知覚だという意味で、純粋知覚と考えることもできる。

では脳は何のありかかというと、行為(運動)へとつなげるために知覚を選び抜いていく、その選抜が行われる場であろうとはいえる。
脳は(純粋のみならず、複合的な)知覚同士のふるい分けの場だ、ということである。
それ自体はよく理解できることだ。
そしてなんのためにふるい分けられるかといえば、その個体の行為とか運動を構成する(結びつける)ためであると考えていいのだろう。

『世界は時間でできている』では、登山のみちのりの入り口にいきなり出てくるこの「感覚質」または「純粋知覚」という崖は、『物質と記憶』では最後の最後に出てくる。
これは先にも述べたように、『物質と記憶』という本が、第一に実在論と観念論の対立の解消を目指しており、そのための議論を進めた最後の「どんでん返し」のように、結局意識を空間スケールで考えようとするからドツボにはまるんだよ、時間スケール、つまり持続(運動とか現象とかで言い換えてもいい)として考えたら自明じゃないか、と言っていると理解した。

それとは反対に、もし精神の最も低次の役割は事物の持続の継起的瞬間を結びつけることであり、この働きにおいて精神は物質と接触し、またまずそこにおいて物質から区別されるということなら、物質と、十全に発展した精神、単に非決定的なだけでなく理性的かつ反省的な行為をなしうる精神とのあいだに、無数の段階
(『物質と記憶』)

ただその際に要請されているのは、その感覚質=純粋知覚の「ありか」は、脳の中ではなく、見られている物質その場所になる。
これは言い換えれば、なにか精神的世界があらたに構築されてそこにアップロードされるということではないということだと思う。

私の理解する限りにおいて、物質もまたそれを構成する素粒子の特定の形式での運動である。
というより、ある現象において、アクターとアクションを記述しようとするときに、物質と運動が「見出される」。
そして、ベルクソンいうところの「イマージュ」が物質に該当するとして、その物質もまた何らかの素粒子の運動であるとすると捉えた時に、やはりその素粒子が「イマージュ」だということになる。

平井講演の中で印象的な「ガパオライスとドライカレーの同一性問題」というのがある。
www.youtube.com
ガパオライスとドライカレーは材料ほとんど一緒なのになんで名前が違うのという。
これは問題をクリアにする例である。
そして、例であって比喩ではないと思う。
たとえば牛ひき肉というのは物質である。
物質であるということはイマージュである。
同時に、玉子というのも物質であってイマージュである。
そうしたイマージュの特定の組み合わせが食べ物としてのガパオライスなりドライカレーなりを成り立たせる。
このとき、ベルクソンならどう考えるか想像すると、このガパオライスの材料である挽肉、玉子、白米等々といった物質(=イマージュ)が、ガパオライスなりドライカレーなりとして運動(持続)するということだと思う。

別の物質と持続の例をわたしなりに考えるなら、ウサイン・ボルトという100メートル走の世界記録保持者が走る(走った)という運動がある。
ウサイン・ボルトという身体はひとまずは物質である。
しかしある時ある場所であるルールのもとで100メートルを世界で誰よりも早く走ったという運動があった。

さてボルトが加わった400メートルリレーのチームが、一斉にヨーイドンしたら、それはリレーにはならない。
ただの100メートル競技である。
同じ物質がほぼ同じ運動をしても、タイミングが違うだけでリレーという運動が成立するかしないかが決まる。

そういう意味で、運動もまたイマージュと捉えても差し支えない、捉えざるをえなくなっていくだろうとは私自身はこれらの本を読む限りでは考えた。

この、物質と持続(運動)の関係性を捉えることが、『物質と記憶』ないし『世界は時間でできている』を理解するキモになるとみている。

そういう物質の最も基本的な運動、「素」運動として純粋知覚を捉えたうえで、生物個体としてのヒトが感覚から運動へとつないでいくループ(サイクル/システム)へとつなげていくアイデアだと考えると、『世界は時間でできている』を読んで1年間頭を抱え続けていたのがウソのように消えた。
たぶん、なにやら精神的なサイバースペースが要請されているように誤読していたのだと思う。

記憶の性格づけ

去年『世界は時間でできている』を読んだ際に「記憶」について戸惑ったことも覚えている。
いまではその戸惑いは解消している。
(平井書と)ベルクソンに従うと、記憶は脳にあるわけではない。
かわりに、記憶や過去はそのまま時間に書き込まれている(『世界は時間でできている』にそう書いてある)。
この記述に大いに戸惑ったわけだが、「書き込む」と考えるから戸惑う。
どちらかといえば、過去が過去として「どっしりと」ある、その我々の信念をそのまま表現したものだと考えたほうがいい。過去が過去としてあるというのは、過去が「そのまま」あるということではない、と『世界時間』ではされている。
これはたぶん(=わたしが理解とか想像するかぎりにおいて)、過去が「実在する」ということになる。
つまり、過去に関する「実在論」をベルクソンは論じている。

実在論」というから難しいかもしれないが、私もそんなに難しいことを理解できているわけではない。
実在論realismという語源を見ながら「現実realはあるんだな」という信念 (-ism) と私は理解……いや想像しているだけでしかないかもしれない。
この「ある」というのは、わたしの乏しい哲学の知識では、デカルトの「我思う故に我あり」の「ある」とおなじ「ある」だ(なおここではデカルト自身がどのような実在論であったかということは立ち入らない)。
逆に「観念論」は観念ideaこそがあるのだという信念 (-ism) ということになる。

ベルクソンが『物質と記憶』で説くことは、実在論・対・観念論、という対立について、あるかないかでいえば実在論、つまり、素朴にいま見えている物質とか現実はあるよということである一方で、それと同時に、観念の次元にある意識もまたあるよということになる。
そしてこの両立こそが、それこそ西洋近代哲学において問題になり続けてきたことだった。
これらに一見対抗し乗り越えようとするものとしてみられてきた「随伴現象説」もまた同様に、ベルクソンの手にかかればこれらの勢力と一緒の同類項に括られた。
言い換えれば『物質と記憶』を読む際は、現在(純粋知覚)も過去(純粋記憶)もどっしりと実在するんだという舞台装置を組み上げていく必要があるのだな、と思った。
これに限らず、そもそものベルクソンの信念として、日常においてわれわれ人間が、目の前にバラが咲いていたらそこにバラがあり、ウサイン・ボルトが走っていたらウサイン・ボルトが走っている、という、変にひねくれたところのない実在を認める観点と、地続きになることがわかる。

現在の自分の前にあるものはただどっしりとあって、過去はまたどっしりとある。
そのようにして現在の知覚がどっしりと目の前にあるとき、感覚質が立ち上がって、感覚・運動ループ(システム)がトリガーされることになる。

物質と記憶』で論じられる重要なテーゼは、記憶は知覚の弱まったものではないということである。
知覚はいま実在するが、記憶souvenirはいま目の前には実在しない。
どこにあるかといえば先程書いたようにどっしりと過去(時間)にある(平井書では「書き込まれている」と表現されている)。
その過去から現在に対して立ち上がらせてくるのが記憶力memoireという現象ということのようだ。
こうしたことも、いきなり読むと面食らうが、『世界は時間でできている』を読んでベルクソンの時間哲学の概略・見取り図を手に入れた上で取り組むと、まったく違う描像としてあらわれてくることがわかる。

【追記】『世界は時間でできている』のコラム「純粋記憶の不可侵性解釈とMTS解釈」「ベルクソンと現代時間存在論」をあらためてよみなおすとまた色々と私の書き方に不備があるのかなと思った。特にこの「過去の実在」のような書き方では、不可侵性解釈に近づいてしまうきらいがあるかもしれない。また単に「ドライブレコーダーのように」(『世界は時間でできている』)保存されるかのような印象を与えそうでもあり、問題がある。
ただ大事なことは、(純粋)記憶がマルチタイムスケール(MTS)の枠組みで都度都度凝縮されるというかたちで「保存」されるのを捉えることなのだろう。

あくまでベルクソンはこうした、見えているまま、あるいは「ひとがどちらかというとわりと素朴に信じているまま」をひとまず肯定する。
そしてそこから方法論的に立ち上げられた物理学などの自然科学が、同時に不可避的にゼノンのパラドックスのように到達してしまうことを指摘してこれを回避し、(純粋)知覚や(純粋)記憶が実在するように組み立てていった結果、知覚の所在を知覚されるものの場所に、記憶を時間の中、過去に実在するというように並べていくことになったことが容易にわかる。

特に『物質と記憶』を語る上ではクローズアップされることがおおい「イマージュ」の概念もなによりこの中で要請される。
そして翻ってみると、『世界は時間でできている』は『物質と記憶』を中心とした時間哲学をコンパクトなかたちでリビルドしてみせる本であるということもわかってくる。

クオリアは分子でできていないし、質量ももっていない」(『世界は時間でできている』)。
このへんで自分はドツボにはまった気がする。走る、という行為は、というか、例えばウサイン・ボルトが走るという行為は、素材はウサイン・ボルトで、シェフもウサイン・ボルトだと思うが、ウサイン・ボルトの分子はあるし、ウサイン・ボルトの質量もあるが、走るという行為自体に分子も質量もない。また、走るという行為は持続としてある。言い換えれば、走ることは行為で、実在している運動であり、また、ボルトが走っている間は未完了相にある。同様にして(純粋)知覚というものも、そしてそれがまたクオリアで、実在する物質に知覚が帰着しているというのであれば、ウサイン・ボルトの走ることもボルトに帰着する。

そしてウサイン・ボルトが現役を引退したいまではウサイン・ボルトの世界記録は「過去」すなわち「記憶」である。それは、わたしたち人類の記憶でもあるし、ウサイン・ボルト本人の記憶でもある。そのように世界記録は過去としてどっしりと実在しているという信念を人類は共有していることになっている。そのようなものとして過去の実在を理解することは私には難しくない。

クオリア=感覚質=純粋知覚はそれぞれの対象自体にあって脳にはない。同様に純粋記憶も脳にはなく過去にある。「でも脳がなければ意識とか感覚運動システムとか記憶は働きませんよね?」と考えざるを得ないことも正しいが、「どこ」という空間的帰属を行おうとする、特殊自然科学に強い知的習慣では「ゼノンのパラドックス」と相似な様々な問題が生じ、記憶という「(現在には)物質として存在しないこと」の実在論も構築できないため、こうする論じ方によってしか心身二元論を解消できませんよ、といわざるを得ない。

だからあくまで脳が行っていることは、行動(行為・運動などディシプリンごとに呼び名はことなる)に向けて知覚とか記憶を「凝縮」したり「選別」したりしていくプロセスである。そして、このプロセスそのものもまたあらたな「持続」にほかならない。これは確かに、脳がおこなっていることを、目の前のりんごに純粋知覚を帰属させたり、過去に純粋記憶を帰属させたりするアイデアと一貫性があると思う。

逆に、個人的に気がついたが、こうすることでさまざまな精神的な産物、たとえば言語のようなことの実在も論じることができる。

言語はどこにあるのかと問われても、文法書にも辞書にもないし、はたまた個々の話者の脳を指さしてもいけない。その各々を損ねても、言語自体は微動だにしない。文法書を焼いても、わたしが死んで灰になっても、文法書に書かれていたり私が覚えている文法は消えはしない。「記憶が過去自体に書き込まれている」という記憶の「(非物質的)実在論」に倣って言えば、言語の実在はヒトという種(仮)の集団的な感覚運動ループが織りなす、というか織りなしてきた(=未完了相にある)スーパーシステムに書き込まれていると表現できるかもしれない。

この発想はすぐに、たとえば生物のありようを(ひとまず哲学的に)理解し把握するうえでも適用可能だ。つまり、おそらくそれが『創造的進化』というベルクソンの『物質と記憶』に続く主著のいま一つに向かっていくのだろう、と、それを読んでいない時点ではあるが、私は想像している。

純粋記憶はなにか

記憶は、過去としてどっしりと実在する。
実在はするが、現在の知覚ではない。
純粋記憶というのは知覚ではなく、しかし純粋なものだということになる。
このことから極めて単純に考えれば、純粋記憶は、認知プロセスの中で要請される「残像」のことだろうと思われた。
どういうことか。

ヒトは実際の認知プロセスにおいて、間違いなく対象のすべてを見ているわけではない。
すべてを見ているわけではないというのは、ベルクソン的に、「選択して」見ているという以上に、対象のどこかしら部分部分を知覚してそれを相補いながら認知している。

デジカメのようにCCDで視界をAdobe Photoshopピクセル的に何百万個の色とりどりのドットで認知しているのではなく、どちらかといえば対象の輪郭をベクター画像の集合体として、つまりAdobe Illustratorのように認知している。
そのベクター画像も要素を逐一フィットさせるように描かれているのではなく、眼球が絶えず素早く動きながら、動的に描像をいい感じに組み立てつつ、それこそ次の行動の一手につなげるためのものとして与えられる。
われわれの見ている世界はすでにしてそうした、知覚と記憶とから編み上げられた構成物になっていて、それをベルクソンはすでに20世紀はじめの段階で「イマージュ」と見抜いた。

そして、この現在の瞬間に、わたしという感覚・運動システム(ループ/サイクル)へと得られる純粋知覚のそれぞれは飛び飛びになっていて、それを、記憶由来のにかわで補いながら行動へとつなげていくということを神経科学の講義で教わったのを覚えている。
ベルクソンの語彙である「純粋知覚」と「純粋記憶」でいうなら、たった今現在であった純粋知覚が過去のものとなった時に「純粋記憶」となる。

また、記憶が過去に書き込まれているとするなら、その記憶が任意の他者にアクセスできないのはなぜか、ということもわからなかったのだが、それはわたしの記憶にわたししか記憶力できないのは、わたしのタイムスケールだからであり、わたしという持続だからだということも、『物質と記憶』を読むことで自然に了解できた。

ひとまずそのように考えてみた。

まとめ

記述されたものは運動では決してない

「記述されたものが(記述されているまさにその)運動であることはありえない」というテーゼは『物質と記憶』の根幹になっている、と私は理解している。そのように書かれているわけではなかったと思うが、時間の空間化を批判し「持続」概念を打ち立てたベルクソンのアイデアを自分なりに表現するならこういう言い方がわたしにとってしっくりくる。

このことは『世界は時間でできている』でも印象的な「地図は土地ではない」という形で描写されている。
私が解説書の檜垣立哉ベルクソンの哲学』などもあわせて読んで理解している限りでは、このアイデアベルクソン最初の主著『意識に直接与えられたものについての試論』別名『時間と自由』で提示されたものらしい。

個人的なというか手前味噌になるのだが、私も10年以上前にゼノンのパラドックスアキレスと亀)を考えていたときに「運動を論理に落とし込んだ場合でしかパラドックス起きてないし、それは要するに表現されたものは運動それ自体じゃないってことだよな」と考えていた。

そのときの文章(ある同人誌に寄稿したエッセイ)から該当する部分を一部再録する。

運動は記述され得ない。あるいは、記述されたものが運動であることはあり得ない。アキレスと亀の逆理である。二つの等速直線運動を方程式で表せば逆理はないではないかという指摘は、的を射損じている。結局我々はその数式を既に運動を表すパターンとして、言語の平面と結びつけることを覚えてしまっている。我々は常に運動してしまっている、というよりも認識活動それ自身が運動であるため、運動の記述不能性自体に気がつかない。アキレスと亀の逆理が提出され難問として感受されるときにはもう、我々は「思考の系統発生」を一人ひとりの「個体発生」として相当な段階まで辿り尽くしてしまっている。我々が行い・見て・知る全ての運動から論理は要請として抽出される。そして不断に洗練を受けている。運動のない世界は不定である。

奇しくも100年以上前にベルクソンが考えていたこと(、としてわたしが読みとったアイデア)と合致していた、と思う。

ともあれ、このテーゼをベースにしていることを念頭に読めば、『物質と記憶』は遥かに読みやすくなると思った。
ひらたくいえば、「持続」というアイデアを『意識に直接与えられたものについての試論』で打ち立てたあと、それをもとに心身(物心)二元論を考察し直した本が『物質と記憶』だということだと思う。

実在している世界は見えているそのままである

これも『物質と記憶』の冒頭で明確に述べられているが、哲学の議論でしばしば話題になるようなパラドックスを、ベルクソンは否定することがある。
もちろん、ゼノンのパラドックスもそうだ。

そして、『物質と記憶』で主題にしているのが。心身二元論についてのパラドックスだった。
物質は幻だというのも、意識は実在しない、というのも、同様にベルクソンは退ける。
ただし、その結果だが、意識が脳の中にあるとか、過去が流れ去るという、これもまた素朴に広まっている考え方は、棄却されることになる。

そういう意味では、なんでもかんでも素朴なアイデアを取り入れるというのでは決してないことがハッキリしている。
疑いなくベルクソンは、厳密な方法論をもって哲学を実行している。

『世界は時間でできている』を読むことで確実に理解しやすくなっている

わたしが『物質と記憶』を読む上で、『世界は時間でできている』の存在は決定的だったと感じる。
それほどに、『世界は時間でできている』の記述に依拠して理解することが容易になった。

それは『世界は時間でできている』の提示する解釈以外を仮に想像してもそれが難しい、つまり『世界は時間でできている』がまさに『物質と記憶』理解の最先端なのだということを確認させるものでもある。

つまり『物質と記憶』という、心身問題という重要課題に決定的に切り込んだ哲学書を読む上で『世界は時間でできている』は最良の導きとなるということだし、逆に、『世界は時間でできている』を読んだ人は『物質と記憶』を読まないとあまりにももったいないということになる。
ただし、それらの記述は随分異なる(互いに逆順に記述されているように見える)ことや、目標が異なること(『物質と記憶』は第一には心身問題の解消を目指している一方で、『世界は時間でできている』は時間を基軸にして人間意識・存在の多層性を組み立てることが主眼になる)は面食らうかもしれないからここで指摘しておきたいと思って以上の記事を書いた。