殺シ屋鬼司令II

世界一物騒な題名の育児ブログです。読書と研究について書いてきました。このあいだまで万年筆で書く快感にひたっていました。当ブログでは、Amazonアフィリエイトに参加してリンクを貼っています。

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『世界は時間でできている』への/からのベルクソン旅程・案

平井靖史先生の『世界は時間でできている』があまりにも面白いので2周しました。ただし、「めっちゃ面白いから読んで。ハイッ」と誰かに渡しても、たぶんどこから取りついたらいいのかわからないかもしれないので、わたしの思う「助走」を書きます。

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それはたとえば『世界は時間でできている』という「山」に対して、「ふもと」から見上げながら見どころを案内するような、類書として問題意識を確定させるような本を、わたしの読んだ本のなかから少し紹介してみたいと思いました。一方で「こっちの本はもしかすると連想するかもしれないけどちょっと違うかも」という本にも言及してみます。そしてその『世界は時間でできている』の山頂からどこを見ていくかということも書きます。

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目次

ふもと散策……吉川浩満山本貴光『脳がわかれば心がわかるか』

実は読んだのがン10年前、しかも「前の版」(旧題『心脳問題』)だったので新版でどうなっているかはわかりません。しかし『世界は時間でできている』を読んでいるときに、たしかにこの本で読んだことが役に立ったという印象が強くあります。

『心脳問題』は、脳という形而下(物理・化学・生物など自然科学)の現象と、意識・心という具体的なモノやかたちをとらない「形而上」の現象の間の齟齬として出現する哲学の大問題をクリアに提示して、論点を整理していました。

『心脳問題』は、それこそ哲学の問題として「心脳問題というのがあるんだ」と提示しているもので、デカルト、カントや大森荘蔵、サールといった何人かの哲学者の考え方を提示することまではしているものの、そこを大きく踏み越えて「独自」の観点を打ち立てるというものでは必ずしもなかったように記憶しています。ただその当の心脳問題を考える上で「こういうことはつまづきやすいから気にしたほうが良いよね」という話題として、論述・記述・説明の上での「カテゴリーミステイク」や、科学の通俗・一般向け書籍にこっそり仕掛けられがちな「実は」という言葉の罠などを指摘していて、いうなれば、一般の読者が足元をすくわれる藪の中の罠を、ていねいに注意してくれるアラームのような意味合いがあったように思います。その他には、社会に氾濫する脳科学の危険性を指摘するという意味では、この心脳問題という領域にこれまで馴染み・思い入れのなかったひとに対して、あなたたちも決して無関係ではないんだよということを教えてくれるでしょう。つまり、どちらかといえばブックガイドにしてガイドブックの側面が大きく、その意味でも今回の記事の目的に合致しています。

『世界は時間でできている』では『脳がわかれば心がわかるか』は直接は引用されていません。ただし、『脳がわかれば心がわかるか』の著者たちが翻訳したジョン・サール『マインド 心の哲学』(浜地は未読)に言及しており、また『脳がわかれば心がわかるか』も『マインド』の議論をかなり突っ込んで紹介しているため、間接的にリンクしていると考えるのは難しくありません。

なお『心脳問題』でも『意識に直接与えられたものについての試論』も『物質と記憶』もブックガイドにおいて言及されていますし、わけても『試論』は終章でかなり大きく取り上げられています。ただし、わたしの理解する限り、『心脳問題』という本がほんとうの主題として取り上げていた「心脳問題」という問題について本来真っ正面から扱った本である『物質と記憶』については、ブックガイドで引用されているに過ぎません。ブックガイドの記述を見ても、わたしが理解するかぎりで『物質と記憶』の主眼とするところの、まさしく唯物論と唯心論の対立の只中に飛び込んだうえで双方を切り払い、純粋記憶と純粋知覚の概念を要請して心脳問題を解消し得た、とベルクソンが主張するに至った理路の総体を捉えることに『心脳問題』の著者たちが成功しているように読むことは、少なくとも『心脳問題』を読んだ当時のわたしには無理でした。また『試論』を取り扱った終章にしても同様で、どちらかといえば通り一遍の記述でまとめているだけのように『心脳問題』を読んだ当時のわたしには思われていたようで、一度読んだはずなのにベルクソンについての記述がかなりあったことをわたしが完全に忘れていたのも無理はなかったな、と現在のわたしは思います。


要するに、恥ずかしながらわたしにはその記述がわかっていなかったのです。

ただ、そのおおもととして、僭越ながらわたしには、著者たちにベルクソンがその時点で幾分手に余っていたことがわかるように思いますし、それも無理はなかったとも思います。『世界は時間でできている』と『物質と記憶』を読み比べてみて思ったのですが、やはりベルクソンの説く形而上学は、素人目に見て哲学史からしてみると結構特異な構成になっているのですね。

シン・ゴジラ」という映画のセリフで「むしろマンダラに近い……先に答えを想像しないと解けないという逆説的な問いかけになっている」というものがあったのを思い出します。わかってみるとストレートなのですが、哲学史に慣れれば慣れるほど逆に先入観になって、迷宮入りし、当を失するようなところがあったように思います。いたずらに神秘化するわけではないのですが、全体的な構成がわからないと基礎となる部分を理解することもおぼつかないという不思議な感覚がありました。それが20世紀のベルクソン受容を覆う、神秘的ないわゆる「生の哲学」との風評を招いたとわたしは想像しています。

そして、そのベルクソンが『物質と記憶』を中心として描写したアイデアのうち心脳問題などに関する一連の「全体像」を提示してみせるものが最新の研究成果をふんだんに盛り込んだ『世界は時間でできている』であったということは難しくないでしょう。

読書と考究の経過に関するわたしの個人史ということでいえば、確かにこの『心脳問題』で提示されたゼノンのパラドックスアキレスと亀の逆理を自分なりに咀嚼して考えたのが、以前に書いた「運動は記述できない」という一節でした(ベルクソン『物質と記憶』と『世界は時間でできている』を読み比べて - 殺シ屋鬼司令II参照)。しかし恥ずかしながら、その考究のおおもとになっていたはず(読んだ時期としてそのはずです)の『心脳問題』を引用もしていないどころかそもそもそこから起点になっていたことを完全に忘れていたのです。とにかくこの考え方が『世界は時間でできている』および『物質と記憶』を理解する、あるいは理解しようとする過程で確実に役に立っていたことは間違いないとはいえるでしょう。

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そういうことからして、『脳がわかれば心がわかるか』=『心脳問題』は、心脳問題をとりまく知的シーンである問題意識と一般的な注意点をジャーナリスティックにツアーガイドしてくれるものとしては大変有益です。その問題の解消は古代ギリシア以来3,000年間、21世紀の現代にあっても決して自明なものとはなってはいません。それに対して100年以上前にベルクソンは解消を宣言したわけなのですが、あまりにも先鋭的すぎて100年間あまり理解されてこなかったようです。こうしたことから、『世界は時間でできている』を読むうえで1冊あげるとすればまず『脳がわかれば心がわかるか』を挙げたいという考えはゆるぎません。


例えば檜垣立哉ベルクソンの哲学』は『世界は時間でできている』の予習になるだろうか


わたし自身の読書の過程でいえば『世界は時間でできている』を読む直前に『ベルクソンの哲学』を読んで、「持続」という概念の存在と、ゼノンのパラドックスベルクソンが主題にしていたことなどを予習していたことになります。ただ、読んでみるとわかるのですが、『ベルクソンの哲学』という本は端的に言えば、20世紀の間に出版されて21世紀に至るベルクソン復権の底流を準備したジル・ドゥルーズ『ベルクソニズム』(浜地は未読)に立脚というか紹介・再評価したうえで、『試論』『物質と記憶』『創造的進化』3つの主著に対して概説するものですが、同時にリサーチプログラムないし未決問題を新世紀の劈頭にさきがけて提示した、いわば灯台のような本だったと見えました。


読んでみると、こういうことはわかっていない、ベルクソンは何々のことについては明確に述べていない、という、課題を提示するような記述がそこかしこに現れていることに驚かされるものです。特に『物質と記憶』に関する記述についてはそうした側面を強く感じました。そのうえで、爾後20年余りの研究の成果として出版されたものが『世界は時間でできている』だったということになると思います。そうすると、わたしのように哲学をプロパーとしないような読者にとっては幾分歯が立たないものだったと言えます。哲学をプロパーとしてきた読者であればおそらくスムーズに接続することが可能なのだろうと思いますし、関連する現象学などの分野とも対比を十分させたものとして有用だったのでしょう。

では課題群を提示するもので20年以上前の出版だから古くなっている、読まないで即『世界は時間でできている』に飛び込んでいけばわかる、といえるかといえば、個人的にはやはり読まなかったらもっとコストがかかっていただろうなと思います。特に持続などのベルクソンの基礎概念とその理解の仕方、および文献同士の関係性を頭に入れておくことはきわめて有用だったと感じています。そうした面で、もし哲学の文脈に明るければいまひとつのオルターナティブなふもととして紹介することもできるでしょう。

その他のベルクソンの本はどうか

正直にいってそれほど読み漁っているわけではありません。『物質と記憶 (講談社学術文庫)』は以前の記事で書いた(いきなりアタックしてもたぶん歯が立たないと思います)ので別にするとして、ただ、他の主著『意識に直接与えられたものについての試論 (ちくま学芸文庫)』『創造的進化 (ちくま学芸文庫)』『道徳と宗教の二つの源泉ⅠⅡ(合本) (中公クラシックス)』(いずれも浜地は未読)であったり、手に取りやすい論文集の形式を取った平凡社ライブラリー精神のエネルギー (平凡社ライブラリー755)』『思考と動き (平凡社ライブラリー784)』、そして最近立て続けに刊行および重版されているコレージュ・ド・フランス(パリで一般公開されてきた市民大学的な講義シリーズ)での講義録の『時間観念の歴史――コレージュ・ド・フランス講義 1902-1903年度』『記憶理論の歴史――コレージュ・ド・フランス講義 1903-1904年度』が入手しやすくなっているものの、読むとしても『世界は時間でできている』の「あと」かなと思います。

ベルクソンの思考とアイデアベルクソン自身の筆ないし声で書かれていることは間違いなく貴重です。ただし先に言ったように、ベルクソンの思想というものは全体像とか「カタ」「お作法」が掴めていないと展開を追いづらい部分があった、という感想が自分の中に拭い難くあります。そのカタが「持続」概念にほかならないのですが、やっぱりいっぺん第三者である平井先生によって再構築された『世界は時間でできている』を読んだほうが手っ取り早い気がします。そうして「わかり」の種子をおのれのこころに播いたうえで、最適の土壌であり栄養・水分として、ベルクソンの手になるものや関連する読書を進めることは理解を立体的に構築することにつながるのではないかと思います。

イデア自体を理解するうえではひとえに『世界は時間でできている』を周回するほうが効率がいいというのは間違いないように思います。というのは80年以上前に亡くなっているベルクソン本人の著書に加え、没後に発見された講義録や21世紀に入ってからの新しい研究も含めて十分に吟味・咀嚼されたうえで構築されたもので、いわばそうしたすべての知見が凝縮・圧縮されているものです。そして周回してわからなかったところ、飲み込めなかったところを、引用されている原典を訪れて文脈も含めて考察することで、理解の効率を向上させることができるのではないかと思いますし、そうしたやりかたでわたしは『物質と記憶』を読み、理解を深めることができたと感じています。ということは、他の著作群に対しても同様のアプローチが通用すると考えるのが妥当ではないでしょうか?

ただ、ひとつ言うとしたら講義録『時間観念の歴史』『記憶理論の歴史』の二冊だけは、入手しやすくなっている2023年11月のいまの時点では買っておいても損はないかもしれません。というのは最近まで『時間観念の歴史』がしばらく品切となっていて、ネット書店ではプレミアム付きで流通していた(2023年11月時点では解消済みだった)。そうした自体が今後発生しないとも限らないからです。20世紀初頭のパリの江湖を賑わしたというベルクソンの肉声を伝える講義録で、少し目を通しても叙述はストレートです(Amazonで注文してアメリカまで発送させました)。しかも、注釈・解説もかなり豊富に付いていることもお得感が高くなっています。後々、興味が高まって、しかしまた入手困難になっている……という流れを避けたいひとはいまが確実に本を入手するチャンスですね。

【追記】座談『ベルクソン思想の現在』

平井先生を含む、2022年にベルクソン関連の研究書を出版したベルクソン研究家が福岡に集結して行われた、四冊の主著を取り扱った連続シンポジウムの記録が出ています。浜地はその連続シンポジウムの方で、つまりスライドを見ながら聞いていたので、それがこれまでの理解に役立っていたということは間違いないと思います。これも『ベルクソンの哲学』に代わるものといえるかもしれません。各章は、主著の概要とそれに対するベルクソン研究家からの研究および解釈の概要です。

この本がひとまず『世界は時間でできている』に限っては「前」か「後」かと聞かれると(誰が聞くのだろうか?)、難しいですが、わたしとしては「後」だと思います。つまり『世界は時間でできている』でわからなかったところがあれば、そこがリフレーズされていて理解が進む可能性があります。どちらかといえば、同時期のベルクソン研究の最前線を概括するというものですから、他の主著や研究書との関連性へと広げていくような性格が強い本だとわたしは思っています。

その他の「哲学入門」をうたう本がどれだけ有用か

これはほとんど関係なかったと思います。以前の記事で書きましたが、まず『世界は時間でできている』自体が(ベルクソンの時間についての)哲学入門の趣をもっています。哲学入門は一般に、それぞれに問題に取り組むものであり、『世界は時間でできている』を読む上では問題設定が全く違うので役に立たないでしょう。仮にそうして何かの哲学問題の取り組みに親しんだとしても、そもそもベルクソンが他の哲学者とだいぶ趣向のちがう姿勢をとるひとなので、さすがにそれは直接『世界は時間でできている』に取り組んだほうが早いでしょう。


わたしの世代では哲学入門の定番といえば中島義道『哲学の教科書』という「いかにも」な本がありました。これは大変良い本で、哲学という姿勢や営みと、その他の領域である宗教・文学・思想・政治といった営みの違いや、哲学者と哲学研究者の違いというような、哲学入門書と言われる本でしばしば取り上げられるトピックがはっきり指摘されています。そして哲学という営みそれ自体に対しては、「死とは何か」「私とは(以下略)」というような「いかにも」な問いを挙げて、こうした問いに対して躓いてしまうのが哲学者というものだと紹介するので、要するに哲学者の行動学的なサンプルという意味合いも強くありました。読書家にとって哲学という営みを過去30年近くに渡って伝えてきた定番でした。

ただし、わたしはあくまで「『世界は時間でできている』がめっちゃ面白いよ」ということを伝えたいし、その面白さを最大限に楽しんでほしい、そのためには何を読んでもらうのがいいだろうか、と思ってこの文章を書いています。そういう側面から言うとやはり『哲学の教科書』はわたしの目的にはピントが合っていません。

また、『世界は時間でできている』を読んでからこっち、その他の「教養のための……」というような「哲学者列伝」のような本でのベルクソンの扱いをちらちら意識するようになったのですが、だいたいにおいて通り一遍の「持続が……」とか「エラン・ヴィタルが……」「生の哲学の……」という記述にとどまっていて、到底理解に資するようなものではありませんでした。もちろんそれはWikipediaの、日本語版であれ、英語版であれ、フランス語版であれ(もっともあと2つについてはDeepLの助けを借りて眺めただけなのだが)、それほど事情が変わりそうもありません。おそらく、学校の教科書や参考書(高校倫理政経社会科でしょうか?)などでもそれほど状況は変わらないのではないかと推測しています。だからそれならもう『世界は時間でできている』を読んでしまったほうがやはりちかみちでしょう。だって面白いんですから。

自然科学の本が役に立つだろうか

読者としてのわたしがたまたま生物学者・就中・進化生物学者・就中・進化発生生物学者であり、その勉強の過程では当然物理学や化学なども経てきた自然科学をこととするものであるということでいえば、どちらかというと『世界は時間でできている』を理解する上では、自然科学の知識は、促進させるよりも邪魔になった面があったように思います。どうしても「マルチタイムスケール解釈」のそれぞれのスケールに対する具体的な器官や細胞や挙動を記憶の中に探してしまうことが多かった。これは、サイエンティストである読者としての避けがたいバグだと思います。

生物進化の理解については(専門家としての)わたしのなかでは揺るぎなく、その姿勢が『世界は時間でできている』を読む上で大いに資するところがあったのは確かです。しかし、これはなにか一冊本を読んで予習してくださいと言えるものではないのが痛いところです。なぜかといえば、わたしの進化の理解は20世紀後半の分子生物学の知識をベースにしつつ、その後にそれまでの生物学が一気に激変していった過程を辿って、その間に行われた実際の研究を読んだり、後に自らも遂行したりしながら培ってきたものだからです。これは例えば自転車に乗るという単純でいったん獲得したら一生多分忘れないようなことも、それに先立つストライダー体験やかけっこや練習でのころんだ痛みのような幼いうちの経験をベースに可能になるのとちょうど同じようなものです。「サドルにまたがってハンドルをつかんでペダルをこぐ」という文字列で尽きるのですが、それは実際に乗るという運動ではまったくないものです。読書というのもそういうものでしょう。逆に、そういう風味の記事をちょっと書いてみたいと考えているところです。書中で引用されているウォディントンのエピジェネティック・ランドスケープのことをもとから知っていたというのも事実としてありますが、そこまで大きな取り扱いでもありません。生物進化の理解がなかったとしても『世界は時間でできている』という本は読めるだろうと思いますが、正直なところ自信はありません。それぐらいわたしの骨絡みになっているためです。ご了承ください。

おわりに

書いていてあまりにも『世界は時間でできている』を推していて自分でもちょっと引くのですが、これがいわゆる「推し活」に近いのかもしれません。めっちゃ面白かったので時間の許す限り徹底的に取り組んでみたいと思っているからです。そんな文章でした。ご容赦ください。