殺シ屋鬼司令II

世界一物騒な題名の育児ブログです。読書と研究について書いてきました。このあいだまで万年筆で書く快感にひたっていました。当ブログでは、Amazonアフィリエイトに参加してリンクを貼っています。

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唯物語(タダモノガタリ)

こないだノーベル物理学賞を受賞した益川先生が、熱心な左翼運動家でもあったという話題が、ブログで、あるいは新聞等であったじゃないですか。「素粒子研究には弁証法唯物論の物の見方が貫かれている」ということです。物理学者でコミュニストだというのは山本義隆でも有名な話です。
それでブログ「数学者のメガネ」で時々名前の出た三浦つとむの本がジュンク堂にあるのを見かけて買って読んでいました。ヘーゲル弁証法じゃなくて弁証法唯物論だっていうんだからそっちに寄るのが妥当だと思って。
内容は非常に錯綜していました。マルクスエンゲルス=ディーツゲン=レーニン=スターリン弁証法唯物論が正しく、暗記主義=客観主義=観念論=形而上学唯物論=タダモノ論がダメだと繰り返し述べながら、同時代の左翼思想家を切っている。けれど、弁証法*1についてはビッグワードの羅列でほとんど何も分からない。いきなり読むのは間違いっつうか場違いのようです。

弁証法という認識は、唯物論の立場からいえば、自然(社会と精神をふくむ)の弁証法性の反映なのです。抽象的認識です。現実の弁証法性は具体的な存在であるから、弁証法そのものがそのままのかたちで現実にあるのではない。これを逸脱すると観念論になる。
(p.115)

伊東乾のNBonlineの記事で、1970年に早世した坂田昌一という物理学者の名前が挙がっていました。小林・益川の師で、「弁証法・いかに学ぶべきか」にも著名な科学者の意見として坂田の著「物理学と方法」が引用されています。要するに、日本で唯物論哲学者を標榜する人たちは、科学者が研究活動の中で身に付けている弁証法唯物論という正しいやり方を見習わなくてはいけないのだと。
つまりこれはあくまで「学び方」の本であるらしい。日本の哲学者たちの話を聞いてはいけないよ、科学者のなかには良いこと言っている人がいるよ、と。
このへんは面白かった。

社会科学者であろうと、自然科学者であろうと、研究に努力する人々・学問を実践する人々は、真理がなぜ・いかにして・誤謬となるかという問題に、深い関心をもつものだ
(p.42)

というのは既に、私は学部時代に読んだ唐木田健一「理論の創造と創造の理論」でこのあたりのストーリーを読んだ事がありました。この唐木田という人も、学生運動の時代の人ですね。

理論の創造と創造の理論

理論の創造と創造の理論

この本は「研究活動によって新しい価値を人智に付け加えるとはどういうことか」を明快かつ簡潔にまとめていて、振り返ってみると自分の底流だったのかなという気がします。
それ以前に、身を粉にして働けということでしょうが。

*1:これまでの個人的なイメージでは、弁証法とは、相矛盾する命題同士をいちいち突き合わせ、矛盾を生んでいる議論の水準のねじれと命題の核となる価値観の対立をそれぞれ先ず明らかにしなければいけない。次いで、どちらかの価値観を受け入れられないものとして排除するか、または、双方の価値観を俯瞰する価値観を設定(=結論)しなければいけない。「正・反・合」、特に「合」における「アウフヘーベン止揚揚棄という字面に惑わされてはいけない。