ベルクソンの第一の主著の『意識に直接与えられたものについての試論:時間と自由』を読んでいる。ちくま学芸文庫に収められている。
『世界は時間でできている』の著者である平井靖史先生らの手になる翻訳である。
thinkeroid.hateblo.jp『試論』は三部構成である。まず「強度」と「量」が第一部で、続く第二部では「持続」が説明される。そして第三部では「自由」が説明されるようだがまだそこまで至っていない。
とはいえ内容となる概念については『世界は時間でできている』や『ベルクソンの哲学』といった参考書でも触れられているし、既に読んだベルクソンの第二主著『物質と記憶』でもリフレインされていた。むしろそれを踏まえて源流に遡る趣がある。以後の著作が成ったときには言うまでもなく『試論』はあったが、逆に『試論』が成るときには他の本はない非対称に当然だがなっている。つまりこれまで読んできたことを念頭におけばイメージすることはできる。だが完全に理解しているわけではまだない。
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これまでにわたしが理解してきたベルクソンのアイデアは簡単に、月並みにいえば、「何かの観念はその何かそれ自体ではあり得ない」ということである。そしてその何かというのはとりわけ現実の運動である。運動の観念は運動それ自体ではない。アキレスと亀のパラドックスにおけるアキレスの走りはアキレスの走りそのものではなく、それを特定の仕方で抽象化して切り出して固定化したものにすぎず、このことがこのパラドックスをパラドックスたらしめているのだ、と。
これだけを書いても当たり前すぎて多分ピンとこないだろう。だが、これまでに読んできた『物質と記憶』や論集『精神のエネルギー』『思考と動き』、読みかけの『試論』や『創造的進化』でもこの把握が軸になっていると思う。特に、長きにわたってベルクソンの入門として「形而上学入門」という『思考と動き』に収められた一篇が薦められてきた歴史があるようだが、それもあくまで比較的にではあるがそのアイデアがベタに書いてあるからだ。そんな「形而上学入門」でもそのこと(主アイデア)を念頭におかないと何にも(個々のアイデアが)わからない曼荼羅のような構造になっている。
このアイデアが初めて明確に打ち出されたのが『試論』で扱われている「持続」論のようである。
そもそものタイトルで「意識に直接与えられたもの」ってなんだろうということになるが、これは世界の中で、感覚や知覚から思考等を経て運動に至る、いわゆる内的なプロセスとか感覚運動ループというものが、そもそもどうやって起動することになるのかということが「直接与えられた」ということで表現されているものと思われる。なにか「表象」のようなかたちで謎の存在が出現すると考える(表象主義)わけではないよ、ということだ。この「表象主義」の拒否がベルクソン理解のひとつのカギになると思うが、それは『世界は時間でできている』で教えられた。

