殺シ屋鬼司令II

世界一物騒な題名の育児ブログです。読書と研究について書いてきました。このあいだまで万年筆で書く快感にひたっていました。当ブログでは、Amazonアフィリエイトに参加してリンクを貼っています。

MENU

#やっていき 力を高める戦術書・『やってのける』

やってのける

やってのける

ハイディ・グラント・ハルバーソン『やってのける』を読んだ。
頭を殴られるような衝撃を受けながら「やっていき力」がバキバキと自分の中に埋め込まれていく感覚があった。

個々のトピックは聞いたことがある。

「マシュマロ実験」
「意志力の枯渇」
「眼高手低」……

Twitterでsaconさんの指摘があって訂正)
だが、その意義を包括的に論じて提示されるとぐうの音も出ない。

眼高手低(間違い。理想を高く持ちながら、実行は着実に行うこと)とはなにか……本当にわかっているか?

眼高手低ということばは、聞いたことがあったし、心がけてもいたつもりだった。
しかしこの本を読むことを通じて、モチベーションのありようを、「重要なことにモチベーションがわくこと」と「困難さの前にモチベーションがくじけないこと」に、分けて考えるべきだとわかった。そのうえであらためて「眼高手低」の意義を強く認識することができた、と思う。

「眼高」でない、つまりその先に大したことがないのであればモチベーションがわかない。どうでもいいことはやってもしかたがない。

「手低」でない、つまり、いきなり難しく複雑なことをやろうとしても意気阻喪してしまうだけだろう。

こうしたことがていねいに説き起こされている。

「意志力を使わず」とはどういうことなのか

表紙に「意志力を使わずに自分を動かす」と書いてある。どういうことなのか? 何でも習慣化しろ、ということなのか? と、思うかもしれない。

そうではない。習慣化は重要なツールではあるが、それだけではない。

実は、私なりに言い換えれば、単に「意志力を使え」「やる気を出せ」というのではなく、目標それぞれのいろいろな性質に応じて、「意志の戦術」のようなものをさまざまに組み合わせていくのが効率的だよ、ということになる。

そして、その戦術を個人的にまとめてみた。

やっていきの戦術とツール

なぜ思考 何思考 証明型パーソナリティ 習得型パーソナリティ 獲得型基準 防御型基準 自発性
簡単なこと・得意なこと
やる気が湧かない
難しい課題
誘惑に負けそう
スピード重視
正確性重視
クリエイティビティが求められる
過程を楽しむ

自分の能力を証明せずにはいられない(あるいは逆に証明されることを過剰に怖がる)証明型のパーソナリティと、能力向上を楽しんでいく習得型。自分は後者の価値は認めつつもどうしても前者が抜けないということだと思う。本では、習得型パーソナリティが多くの場合に推奨されてはいるものの、ときにそれが有効になるときもある、ということも書かれている。

「獲得型」「防御型」というのは、相対的なもので、案件に関する基準のおき方ということだと思う。

自分の研究の場合の実現可能性とモチベーション

モチベーションと実現可能性の間の駆け引きを、自分の分野に引き寄せて考えてみる。

論文を書くということは任意のトピックについて一応可能なものだ。その手順は自分は押さえてきた。

ただ、私はたとえば自分でネイチャー誌に出すような研究を思いついて成し遂げるようなことができなかった。いまのところ思いつきもしない。

難しい問題ならいくらでもあるだろうと思う。しかし、特定の問題が「解ける」かどうかは、わかったものではない。

かろうじて、そこまでの道程をブレイクダウンして、マイルストーンを設定し、戦線を押し上げるということなら、なにがしか可能だと言えると思う。

もっと絶望的なことも考えてみた。教員公募、就職活動だ。これは全く不可解だ。自分はともかく、「いったいどうして……」というひとが苦労しているのを見ると目の前が暗くなる。だからこそ、「この人こそ」と思う人が出世をしていくのを見るのはとても気分のいいものだ。

いっぽうで、何かの試験というのは、決して容易ではない困難はあれ、まっとうに勉強すれば解けるようになるだろう。
前回の記事のようなStudyPlusを利用することで着実な進歩を可視化するようになることは助けになるはずだ。

thinkeroid.hateblo.jp


「やっていき」の戦術書として利用する

実際、自分もいろいろな本をこれまでに読んでいて、なんか「増やしたい」ことと「減らしたい」ことというのがあるていど似たフレームに落とし込むことができそうだな、とは感じていた。

それがまさにこの本だった。

「やっていき」といういいかたがある。だが、やっていけるし、やっていかずばやまじ、という気持ちが芽生えて育っていく。暗雲に一条の光を見た気分だ。