殺シ屋鬼司令II

世界一物騒な題名の育児ブログです。読書と研究について書いてきました。このあいだまで万年筆で書く快感にひたっていました。当ブログでは、Amazonアフィリエイトに参加してリンクを貼っています。

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まだ「ウイルスは生物か無生物か」で消耗してるの?

要点

  • ウイルスが無生物だと言いたいわけではない。仮にそう言ってもウイルスの生を主張する人は絶対に納得しない。
  • 確実にウイルスの生と細胞の生は違う。ミミウイルスがどんなサイズであったとしても、ほかの存在にその生を依存している細菌があるとしても、両者の「生」は異なるし、実はそれに対する意見の相違はほとんどないと言っていい。
  • 「生」というツヨイことばの影響をまず逃れないといけない。そしてその上で両者のありようを正しく捉えなおし、関係性を掴まなくてはいけない。ウイルスは細胞なしでは存在せず、細胞もまたウイルス出現の可能性を完全に排除することはできない。むしろ「生命圏」とでもいうような、両者の生をネットワーク的に包含した枠組みで捉えたほうが良い、ということを説く。


ウイルスの意味論――生命の定義を超えた存在

ウイルスの意味論――生命の定義を超えた存在

スゴ本のDainさんから、あなたこの本が気に入るんじゃない? と教えていただいて読んだ。

この本の著者・山内名誉教授は半世紀以上にわたってウイルス学を研究してきた。みすず書房の雑誌「みすず」で連載していたものをまとめたものらしい。

人類社会に災厄として忌み嫌われてきた疫病を引き起こす原因ウイルスの研究の現場を知る、著者の記述は、それ自体が貴重な証言だといえる。

ウイルスとの戦いは、人類社会の歴史でもある。

わたしが興味を引かれたのが「反ワクチン活動の源流」が顔を覗かせたところだった。

英国では(種痘の提供義務の)違反者に対する罰金制度が設けられていた。これがきっかけで、一八七一年に全国的なワクチン反対連盟が結成され、ワクチン反対運動の始まりとなった。 (p.23)

ある章のコラムの、さらにその傍注にあたる文章だった。
反ワクチン運動は、現在のイメージから、単に非科学的な不勉強な市民が、心情にばかり訴えて広まっていったものだとばかり思っていた。それが、そういう制度的な強制性を背景にしていたというのは意外だった。もちろんわたしはここでも制度の方をこそ支持したいというのは全く変わらないが。

また天然痘根絶に使われた二叉針と、それを要請した簡便な操作と皮内注射の必要性も印象的だった。

ほかの著名ブログでも絶賛する声が高い。

わたしたちは、ウイルスに囲まれ、ウイルスを内に保ち、ウイルスと共に生きている。これ、教科書が変わるレベル(パラダイムシフト)だぜ。

dain.cocolog-nifty.com

特に、本書の場合、生命とはなにか、人間とはなにか、ということについても、斬新な直感が得られる。

いやもっと単純に、知って驚くというものだ。例えば、まあ、恥ずかしながら、次のことを私は知らなかった。

finalvent.cocolog-nifty.com

この言葉の通りだ。これらのブログで取り上げられている、中世ユーラシア大陸で灰色牛がモンゴル民軍団の生物兵器として牛疫を撒き散らして焦土しながら進んでいったことや、合成生物学、麻疹と人類社会の都市化(その典型としてのネーション的な戦争)ということも重要だ。

一方で、大枠の概念は、知っていたものが多い。生物学課程で学んできたものを復習するかたちではあるし、最近の話題でも、CRISPRを利用したゲノム編集技術は、わたしが最近とても興味を持っている事柄の一つである。こういうことは知っている。

ウイルスがものすごく速く進化するということも、もちろん進化生物学者としては知っていることの範囲内だった。

巨大ウイルスについてもときどき耳にする。それも正直「ただデカイだけやろ?」と思わないこともない。

内在性ウイルスが哺乳類の発生に必須だということは、確かにわたしは知らなかった。ただ、概念を根本的に変えるというものではなく、既存の自分の知識の体系を精緻化することに役立ってくれたという感想を持つ。

生物学者という立場からは、幸いなことに、必ずしも「世界の様相」は変わらなかった、といえる*1

そして、それ以上に私は自分の意識を改めて刺激されながら読んだ。

「自分の」世界の様相(見方)を表現しなくてはいけない、それがそもそもここに書かれているものと異なる、という違和感をそのまま表明する必要があると感じた。

生命の定義という、地雷原だ。いまやわたしは、そこに足を踏み入れていかなければなるまい、と感じている。

ウイルスを語るときに、いつも取りざたされる「生命の定義」だが、わたしたちはそれをアウフヘーベン止揚)する時期に来ているのではないかと思う。それは、ヘーゲルの言う意味そのものでである。

あるアイデア(正、もしくは「テーゼ」)に対して、矛盾するかのように見えるアイデア(反、もしくは「アンチテーゼ」)があるとき、これら両者それぞれの内的な論理の構築を解きほぐしたうえで、互いに矛盾とならないような視点を見つけ、組み直したアイデアを「合」「ジンテーゼ」として抽出するのがヘーゲル弁証法アウフヘーベンだった。

ここでは細胞性生物の生命をテーゼ、ウイルスをアンチテーゼとする。

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dialectic

ここで何度も繰り返し想起したのは、かつて先輩研究者に教えてもらった

ウイルスは生物か無生物かというのではない。利己的な《細胞"外"オルガネラ》だ。

というアイデアである。


単に字面でだけ生物と生物学を知るひとは、オルガネラを「細胞内小器官」と訳して事足りてきたかもしれない。そういうふるまいからすれば、この言い方はかなり違和感を与えるものだろう。

しかし、原語のorgan-elle、すなわち「小」+「器官」であることにいちど注目すれば、訳語のなかの「細胞内」は単に、これまで細胞内の観察で見られてきたということを、サイズ感も含めて、意味してきたにすぎない。だから、まったく矛盾ではないのだ*2

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それよりもむしろ、ウイルスが生物か無生物かということよりもまず、単にウイルスと細胞の存在を真正面から肯定することが必要だ。

一般向けにウイルスを扱ったいろいろな本でも、ウイルスと細胞の間で「生命」や「生物」の概念の定義を曖昧にして連続に論じようとするふるまいはしばしば見られるわけなのだが、この両者が存在すること自体は誰も疑っていない。ウイルスは細胞ではなく、逆も然りで、細胞もまたウイルスではない、ということを、出発点とすべきだと思う。

そして、次に何を考えるべきかがまた重要なのだ。

ウイルスは細胞なしでは増殖できないわけだが、逆に細胞はウイルスなしに増殖できる……と考えてはならない。

実は問題となっているのは、増殖というメカニズムではないのだ。

むしろ、細胞は、可能性としてのウイルスが出現しうることを、防ぐことが絶対にできない、と考えるべきだと思った。先に生命あるいは生物の定義のようなものをアウフヘーベンすべき、一段高い視点から捉え直すべきだと言ったが、それはこういうことだ。

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interaction

ここで、「ウイルスの起源」という、この本の中でけっこう大きな存在感をもって論じられている問題が関わってくる。三つの仮説があるという:「ウイルスは細胞が存在する前から存在した」「ウイルスは細胞から飛び出した遺伝子」「ウイルスは細胞が退化したもの」。

個人的にはこの話はどれであってもいいと思う。たぶん、わたしはあくまで細胞に興味がある。細胞生物の進化に興味があるんだと思う。だから「生命一般」なるものの問題に興味がない。

細胞の生とウイルスの生はずいぶん異なる概念で、同じではない。どちらも生きている、と言ってもいいと思うが、その生き様はずいぶん異なるよということは強調しすぎてもしすぎることはない。そして、お互いの生き様がぶつかったり、ときに寄り添ったりするということは、これまでに書いてきたこととなにも矛盾することではない。

この本を読んで思っていたのは、細菌・アーキア(真核生物を含む)に対するウイルスが共通した構造を持っていて、だからウイルスは生物最終普遍共通祖先(LUCA)以前からいた、という。それはわかるのだが、だからといって細胞の起源がウイルスだというのはどう考えてもちょっと距離がある。もちろん可能性としては消えない。

それより、上の絵でも描いたのだけど、細胞はその成立直後からずっと、ウイルスという存在とともにあったということだと思う。ウイルスの可能性を排除する細胞というのは、たぶん有り得ない。コンピュータプログラム開発の現場で言われる「脆弱性のないプログラムは有り得ない」という警句を思い出してもらってもいいと思う。そして「細胞外オルガネラ」という概念はこのアイデアともすんなりなじむものである。

細胞の生とウイルスの生を包含したシステムとして、ひとつの「生命系」とか「生命圏」のようなものとして捉えるべきなのだと思う。これは幾分概念的なもので、例えば「生態系」とは光の当て方が違う。

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もし気になったら、是非読んでみてください。



……と書いてきたが、わたしの脳内には突如ここでニック・レーンが華麗にエントリーし「生命とは生体膜に埋め込まれた鉄硫黄クラスターに電圧がかかってる状態だ」と言い始める*3と話が一気にややこしくなるだろう。レーンは情報の流れに対して「方法的に」、意図的に興味を持たないそぶりを見せながら、あくまでエネルギー的に論じるからだ。

生命、エネルギー、進化

生命、エネルギー、進化

しかし、それを論じるにはまた話をあらためるとしよう。

*1:さらに斜に構えて言うなら、ウイルスが新しいSFのネタになるというとき、むしろ、もっともクラシックなSFのひとつがそもそもそれに依拠して組み立てられたことを思い起こしさえする。

*2:こういう、「いっけん語義矛盾と見えて、定義に従って考えるならば些かも矛盾していない」という表現にわたしは激しく萌える傾向がある。

*3:『生命・エネルギー・進化』をひとことでいうとこうなる。