殺シ屋鬼司令II

世界一物騒な題名の育児ブログです。読書と研究について書いてきました。このあいだまで万年筆で書く快感にひたっていました。当ブログでは、Amazonアフィリエイトに参加してリンクを貼っています。

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講義余録・「免疫」の意味

「免疫」という語誌は、

いちど病気に罹ったらその病気には2度かからない

という意味としてあった。

たとえば現代日本で免疫学のもっとも重鎮とみられている大阪大学審良静男教授らの手になるブルーバックスの『新しい免疫入門 自然免疫から自然炎症まで (ブルーバックス)』は、ペロポネソス戦争における疫病の発生とその生存者が二度と同じ疫病にかからなかったことから語り起こしている。

英語のimmuneは「免除されて」という後期中英語以来の義があって、生物学の文脈での免疫という意味が出たのは19世紀後半である。当然、近代微生物学がコッホやパスツールらによって確立されたことと時期的に相即する。

さてその時代的な背景がくだってメカニズムの全貌があきらかになってきたのは20世紀に入ってからであるといえる。

免疫は、自然免疫と、獲得免疫に分かれる。

自然免疫は好中球やマクロファージなどによる、ほぼ見境ない貪食作用でなりたつ。

獲得免疫には、体液性免疫と、細胞性免疫がある。

体液性免疫が「抗体」で、B細胞が細胞の外に出して、血液(血清画分)の成分として病原体の増殖や活動を阻害する。

細胞性免疫を担うのは(キラー)T細胞で、病原体に感染した細胞を殺す。

ということを、講義では基本的な免疫のしくみとして語った。

はたらく細胞」という擬人化が世に流布していることで、イメージがいくぶんつかみやすくなっているようにも思う。上の文章の好中球やマクロファージ、B細胞、T細胞というものを、この作品の中の登場人物にかりそめになぞらえて聞くのはやはりイメージしやすい。

その一方で、単純化された部分というのもある。そうしたギャップといえるところを講義ではブリッジしていくことをこころがけている。

さて、もとの「いちど病気に罹ったらその病気には2度かからない」という語義をもとに考えると、免疫というしくみの実態はいくぶんそこからずれていることが、わかってくる。

じつは、自然免疫のほうは実はそういう意味じゃない。ほぼ見境なく食いまくるわけだからである。体内に入り込んだ病原体をとにかく食う。あとは死んだ自分の細胞も食う。「これはいちどかかった病気だ!」とみなして食うのではないといっていいだろう。「それなのに、『免疫』ってついてて紛らわしいな……」と準備しながら思う。

思いながら、わたしはどこかわくわくする。

では、その2度はかからないしくみの内実である「獲得免疫」のほうは、今度は確かにその意味では「免疫」ではあるけど、実は、こっちは「獲得」するものでは、実はないともいえる。

どういうことか?

これに関するもっとも衝撃的な発見というのは、もちろん、利根川進博士らによるB細胞の遺伝子組換えによる免疫グロブリン分子多様性創出機構である。「抗体」の遺伝子である免疫グロブリン遺伝子群が、ゲノム配列レベルで細胞ごとに違っている、という、当時の分子生物学者の固定観念を根本からひっくりかえしてしまった鮮烈な発表だった。「ひとりひとりゲノム配列が違う」というレベルではない。「『細胞ひとつひとつ』のゲノム配列が違う」ということである。B細胞だけではなく、T細胞の膜状に突き出されるT細胞受容体の遺伝子もそうしたゲノム配列レベルでひとつひとつ違うらしい。


利根川進博士といえば、先ごろ亡くなった立花隆との対談・共著となる『分子生物学はどこまで生命の謎を解けるか 精神と物質 (文春文庫)』で自分の免疫グロブリン研究を語り尽くしている。


はたらく細胞」でいえば、黒い服と黒い帽子を着たムキムキマッチョマンのキャラクターや、緑色の服と緑色の帽子を着たあんまりムキムキではない青年のキャラクターあたりがイチ細胞イチ細胞ごとにゲノム配列が違っているということになる。

わたしもこれまでの講義で「わたしたちのだいたい細胞ひとつひとつにはひと揃いのゲノムがあります〜 ゲノムの配列はほぼすべての細胞で同一です〜」と話すわけなのだが、後者の文章が「ほぼ」と歯切れが悪いのはひとえにこの免疫細胞のゲノム多様性にあった。

さてこの多様性であるが、実は、病原体が体内に侵入してから創出されるのではない。生まれるときにはすでにもう持っている。

その多様性の中で、侵入者に該当する抗体をもつものが、侵入者の侵入後に「高まる」「アガる」ことで、抵抗性が高まるという仕組みになっている。

つまり、病原体の侵入で、多様性はありながら、それぞれの割合・布陣が変化することが「獲得」と外からは見られてしまうということの内実であると言えばいいだろうか。

こういう、「実態と呼び名のズレ」みたいなものを、そもそも自分は狂おしいほど愛している。いまふうのことばでいえば「萌える」。