惜別

映画への興味がシンから消えたかもしれません。
日曜の夜、友人Gと、どえらいスパイ映画を見ながら食事をしているときに漏らしました。Gは、日記から読み取れる、と言いました。
映画を観ようという気持ちが浮かんでも消えます。池袋に来るとすぐにジュンク堂に行きます。気がつくと急行に乗っていて東武練馬を通過します。
ダーウィンの悪夢」も硫黄島2作も、観なけれあと思いました。「観なけれあ」というのは変だ、とクキに指摘されたときまでには、既にうすうす気がついていました。映画のほうで問題はないでしょう。たぶん私が去りました。
思い返せば、いくつもの興味を失いました。仏像も園芸も電子工作からもいまは遠くなりました。知識は得ました。消えていきます。いま一度舞い戻ることがあろうとは思いません。しかし戻るかもしれません。
いつか例えば読書も遠のきますか。いま、段ボール30箱分の本を実家流しにしても、ほとんど何も感じませんでした。本は買わなくてもよいことがわかりました。読まなくていいのかもしれません。女性たちも、何をしても、何も欲せずとも、これまでのように、これからもきっと、サファリパークのように、国定公園のように、ありがたいことに距離を置いてくれるでしょう。そして、やがて、研究、および、知識そのものへの憧憬も消えるかもしれません。どこからともなく、金は口座に毎月振り込まれるでしょう。私はいろいろと、手を動かして、カくでしょう。知識を私が最後まで求めていて欲しいといま私がどれだけ思っても、時は何も答えません。私の希望とは裏腹に、知識への足場も石灰が水で固められているだけであるように私は感じることもあります。その時、私がどこにイくのかわかりません。
私はときどき、将来・行く末が見晴らせる思いに囚われることがあります。ある意味である意味では、過去の反省にすらならないものです。何を得ることもないまま私は全て失います。
漢字一文字でいえば責任を、引き受けなければいけない、と思って生きました。知識だけはいつも求めているだろうと思いました。いま、自信はありません。研究がイヤになったのではないと私は思いたいし、もしもイヤになったのだとしても一時的であることを願います。
ひょっとするとこの不安は、私自身の価値体系の崩壊の地響きなのかもしれません。知識を求めることが、同時に、別のあるものを求めることであった時がありました。ありていに書けば、運動音痴で運動を嫌った私が、好きな女の子の気を引くために、テストでいい点を取ろうとしていたということです。その時節が、私のMoSO4の中で、正答と誤答の様々な局面を経て終ったのだとすれば、私は素直によろこびたい。知識を求めることを、ただそれ自身として受け入れ、たのしむことができるようになれば素晴らしいことです。その女の子と最近まで連絡のあったのは、おそらく、ひとつの収入ポテンシャルを見込んでのことかもしれないと私はかつて判断して就職活動をしました。そして私は果たせず折れました。その後をいま振り返って、私の判断というのは順接的に、やはり正しかったように思います。一方で、私に手渡された台本を、私は大切に演じます。
最近抱いている最単純仮説というのは、「結婚する男に高収入を求める女は、中等教育段階*1においては顔立ちのいいスポーツマンにお熱をあげていた」というものです。相手にカネやカオやカラダを求める人がいる一方で、まったく成行きにまかせる人もあります。現実は、両者のブレンドでしょう。この複雑な調合を、人は「運命の人」としてマスクします。また、収入格差の固定化を糾弾する人々がいます。一方で、「彼女からフられかけていたのに、公務員に内定した途端、結婚を迫られた22歳」という都市伝説とその受容度が、年収の安定を求める人たちがいることを示唆します。年収の安定は、格差の固定ではないものの、しばしば重なります。これを世論としたときに、そのうちに矛盾があっても、かまいません。世論も施策もまたこの両説を混合しマスクしたものです。どちらかである必要はありません。

*1:中学と高校