殺シ屋鬼司令II

世界一物騒な題名の育児ブログです。読書と研究について書いてきました。このあいだまで万年筆で書く快感にひたっていました。当ブログでは、Amazonアフィリエイトに参加してリンクを貼っています。

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ブレんな。

ブレない軸を作るためにまずしたことは、学校と自分の存在意義を「底の底まで掘る」ことでした。

思い返してみると、俺もえらい底まで掘った気がする。
きのうもTwitter上でそんな話になった。http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200810280080.htmlを見て、不況で大学院進学者が増える、という「いつか来た道」を思いながら、私はこんなことを呟いた。

  • 「また就職氷河期だね。お気の毒に。とりあえず大学院においでよ。また景気が回復したら就職活動すればいいじゃないか…」「だまれ! 悪魔め! もうその手には乗らないぞ!」 #

そのあと、二、三のやりとりがあった。自分の軸、と言う点に関連して抜き出しておく。 "@thinkeroid"はわたし宛の発言である。

  • satokom: @ thinkeroid だから自分が納得する選択をしたほうがよいと思うのですよねー 今こういうご時勢だからこの選択をすべきを納得ずくでやるかどうか *Tw* #
  • satokom: @ thinkeroid 納得してりゃ何選択しても無駄なものないと思うのです *Tw* #
  • 私: @ satokom @ raitu 「好き」「納得」は私の中では、就職活動をしている間に友人がそして私自身が「お前、こないだまで正反対の事言ってたじゃん」という状態になって、壊れました。だから「たら」「れば」すらもなく「当分生きていける」限りにおいて「今やっている」ことをやってます。 #
  • satokom: @ thinkeroid 「好き」は違うと思います。でも「結果として納得」という状態へ自分を持っていくのは大事だと思います。理想として掲げるのは違うと思います。 *Tw* #

私の場合、就職活動してみて「何で博士課程に行かないの?」という面接のごく簡単な質問をかわしきれなかったという経緯がある。「博士じゃ食えねえだろwwww無能だから院に行くんだよwwww」という人はよくいる。
博士に行かない理由はほとんどなかった。就職活動をやめて半年してみると、博士課程に行ったらお金がもらえることになった。そして博士課程に行かない理由が全くなくなってしまった。
正直に言うと、「博士に行って最終的に大学教授になる」っていう、空気(お金)も少なく、ムダに険しい(結果が出るとは限らない)進路で失敗する自分ならいらねーや、どーなったっていい、と思った。
そのあたりから私も自分と研究と大学の存在意義を割とマジに考え始めた。
スタート地点は「大学という制度は、しばらくはなくならない」というところだった。そこから
「人間一般が蓄えている知識は拡大しなければいけない」
「現在人間一般が有している技術は維持されなければいけない」
あたりを考え、
「有用性を人間が認識する基盤そのものを大学という制度が維持している」
を経て
「ある種の人間が大学に残らなければいけない」
というところまで考えを進めた。
「予算申請書の書き方でナントカしていく」というのも博士課程進学決定後に思った。例えば私のいる研究室は分類をコトとしている。先のワトソン講演会のまとめページで、記録者が、分類学の未来は明るくないなどということを書いていたが、よく知りもしない人なのだろう。予算の申請書の書き方も時代によって変わる。分類学については「多様性の把握と保全」というタテマエで書類を書くのだと聞く。明らかに環境ブームである。
だいたいこの辺で、やっぱり俺も、

俺=大学=人間

というあたりに落ち着いた。「ボクはここにいていいんだ!」っていう妄念が湧いた。
それがこの辺の発言にまとまっている。ちょっと前後の文脈は切っておく。

01:32 ...国民は人間の知識の拡大なんてどうでもいいのさ。大学院がヨリ高給な就職のための箔つけに過ぎない以上、タダにはならんよ。
01:50 「利益を追求する企業社会のほうがもっと成長できる」とかいう意見がある以上は国民には大学院の人間文化への貢献など認知できないでしょう。もっと国民も知識にひれ伏せというか畏敬とかあってもいいと思うけどね。それも含めて国民様の選択ですよ。現状維持しか考えてない。
01:58 俺自身はそのへんの「圧倒的に成果」っつう評価軸じゃなく、これまでに人間が受け継いできた知識を、できる限り、余すことなく次の世代に引き渡すのは大学あたりの義務だと思ってるんで、天下り式に文科省あたりが学問らへんの価値を見捨てないでくれてる間は何も言わないよ。