殺シ屋鬼司令II

世界一物騒な題名の育児ブログです。読書と研究について書いてきました。このあいだまで万年筆で書く快感にひたっていました。当ブログでは、Amazonアフィリエイトに参加してリンクを貼っています。

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結論志向を妨げる正解信仰

平成20年もいよいよ暮れようとして、はて、自分がこの一年特に気を付けていたのは何だっただろう、と思い起こすと、「思考をし続けないようにする」ことだったのではないだろうか。
思考停止というと余程悪いことと世間のネットでは言われている。けれど、そういう彼らは本当に何か考えたのか、と思い、そういう目でネットを読んでいると「考えさせられる」「考え続ける」「あとで考える」という言葉が溢れている。

  • 考えさせられる
  • 考え続ける
  • あとで考える
  • 難しい問題だ

倫理・政治・経済など、社会的な問題が浮上するとこういうコメントが見えることが多い。ああ、みんな考えてるんだな、おお、俺はいったいいま何を考えているかな、と我が身のふがいなさにアイワント目の前にワイパー……となるはずもない。

結論志向

私は上に挙げた「考え」かたが、心の奥底から不快である。他人がそのように考えるのをどうこう言う権利は私にはないけれど、目にした時は苛立つ。もっと違う頭の使い方があるんじゃないのか、と。だから自分の見聞き気づいた現象については、自分で考えたり、友人に聞いたり、検索したりして、なるべく一通りの結論まで持っていくことにした。そのために役立ったのはブログであり、はてブであり、Twitterであり、Tumblr.だった。グーグルはいうまでもない。
これは外国人が納豆を見て顔をしかめるのと似たようなことだと思う。おそらく思考という行為の捉え方が違うのだろう。思考を何かとても困難で神秘的なことだと思ってはいけない。
ナニが問題になっていて切り口はナニで、ダレがナニをドウすればいいのかというのを、自分の視点から割り出せばいい。
重要なのは、「自分が」「いま」「結論を出す」ということで、これは或る問題に対して自分の専門であるかどうかとは関係のないことである。自分のアタマには自分で手綱をつける。これは、なるべく精神的な介入(=マインドコントロールや強いプロパガンダ)からは身を引いておくための自分なりの防御策でもある。当然、トマベチあたりから影響を受けたものである。
そこまで思いつめないで言うと、私は私の見たものに対する自分の考えを忘れたくないからである。それを公開してもしなくてもよい。少なくとも公開しておけば誰かの参考にはなるかもしれない。
だから私の今年のスタンスは言い換えると「思考が停止するところまで進める」ということだし、その停止するところとは各人の抱く価値基準になる。

正解信仰

すべての人間が正解を出す必要はなくて、誰かが出した正解を納得できるように自分の価値判断を調教していきさえすればよい。別に、誰かがその正解を出したからといって、あなたの得点が減じるとは限らないし、そもそもきみ、その得点って何だ。そんな得点を呉れる先生がいるのか。そんなに偉い人が。
憶測にすぎないのだけれど、「考えさせられる」といった姿勢が広がるのは、この正解信仰ゆえではないだろうか。「正しいことを言わなければいけない(間違ったら死ね)」という脅迫から心理的に逃れるために、「この問題は困難なので一意には決定できません」ということを「考えさせられる」と表現してしまう。
だから、「意見は?」(実は「異見は?」)と聞かれても、大した事が言えない。しかもそれは普段から考えるのを逃げていることが原因だとは気がつかない。
http://overlasting.dyndns.org/2008-01-11-4.html」で言われていることも同じような感覚だと思う。

僕の体験だと、Aさんに問題を出し回答を求めた場合に、
回答してくれたAさんの考えを吟味し、
根拠を提示して否定すると、次の瞬間、
Aさんからは「わかりません」という答えが返ってくるのです。
http://overlasting.dyndns.org/2008-01-11-4.html

「考えさせられる」も「考え続けていかなければいけない」も「難しい問題である」も、簡単に言えば(私はどうしたらいいか、どう考えていいかさえも、何も)「わかりません」ということではないか。その上、答えが無限にあるのだとしたら……イヤにならないか?
問題は解けるものである。というより、問題を立てた(受け取った)瞬間に、私たちはその答えを持っているはずである。それが万人に受け入れられるかどうかは別として。

∀価値基準に対して∃答えが…

上の意見を一旦ひっくり返すと、「答えは無限にある」というのは問題設定が間違っている。では答えが無限にありうるというのはどういうことか? 私たちは頭の中にある価値基準に照らし合わせ、ある現象を問題視して答え(解決策)を導き出そうとする。無限にあるのは価値基準である。これは人それぞれの来歴によって
学校で、私たちは来る日も来る日も問題臭を溶かされ、試験で調教の成果を誇示してきた。だが、それは「正解する」という目的に対してもっとも合理的な行動を選択しているのにすぎない。その目的を外して考えれば、たとえば期末試験の解答用紙で絵を描いてもよいし、随筆を書いてもよいし、洟をかんでもよいし、おもむろにスーパーマリオをはじめてもよいのだ(どうやるのかはわからないが)。そうしない理由は、やはりわれわれが「正解して合格して…」という価値基準に照らし合わせて合理的に行動するからだ。
では間違っていいのかというと、そんなことは言っていない。ただ、間違いは放置してはいけないのは確かである。間違いは、他人との認識の不一致である。当然バイアスがかかっている。それも他人との衝突の中で認識していけばいい。他人は、自分を較正するための材料である。間違いは素直に認める、そのために意見を言わなければいけない。これは、我々にとってほとんど義務なのではないだろうか。
ドーキンスに倣って言えば、私たち人間は、価値基準の乗り物だといってもいい。
私たちは正解に囚われている。