この本が話題になっていたので読み終わって呆然としている。
たとえていうならば
絵心
ということばで、自分が感じていたことが、これでもかと徹底的に平易に、古今の名画の実例を出して説明してある。
構図を手がかりとして名画を順序立てて解読する方法をこの上なく平易に解説している。もっと早く知りたかったし、美術館が再開したらすぐに行きたい。
こんなこと知らなくて、本当にすいません……生きててすいません……って泣きながら読んだ。
もしかすると、この本に書いてあるようなことは、人文系の学科を出たひとたちにとっては常識なのかもしれない。
自分は、バカにされるかもしれない、と思う。それを恥ずかしく思うかもしれないと思う。
……いや、ちょっと待ってほしいんだ。こんなこと、本当に基本的なことだっていうなら、なぜ誰も言わないのか? こんなことをいうのは「初心者向け」だと、わざわざ説明したことでバカにされるからなのだろうか、と邪推してしまう。
実際、本書の最初の方で、いちいち構図を解釈するために、どこからどこに放射状に線が配置されていて、焦点が集まるようになっているとか、美術館の解説文には書いてない、と述べられている。「あたりまえ」なのだろう。
たしかに、この本がやっていることは「チャート式」的・「アンチョコ」的かもしれない。
わたしはこれまで、Amazonやブログ等のいろいろなレビューで、一般向けに平易に人文の諸知識を解説する本や、特定の新書レーベルに対して「チャート式」「アンチョコ」とバカにしているひとたちを散見した。私はそうした言説を見るときいつも心が痛み、そのたびにその方面を見る心が少しずつ冷たくなっていくのを感じるのである。
でも、そこが重要な橋渡しなんじゃないのか。
いわば「知の高速道路」のインターチェンジのところにおおきな断絶があるのだ。インターにはいるまさにそのポイントで、「決死の跳躍」みたいな行為に及ばねばならない。そういう事故製造機みたいなのはやめたほうがいいだろうと思う。むしろこのように、ちゃんと橋渡しをする本を高く評価して、私のような、人文系に縁の薄い読者が絵画(のみならず、視覚藝術)にアクセスするための安全な橋渡しを増やすことが、文化的な社会の「再興」にとって近道なのではないだろうかと思う。
実際、この秋田書を読み終わった後、書店をぶらついて、絵画を読み解く系の本を眺めていた。
イメージやモティーフ、アイコンと言った記号を、個々にゆびさす本は数あるようだった。それはたとえばキリストや聖母マリアの図像的な解釈の蘊蓄を垂れる。しかし、それらには、自分が『絵を見る技術』をもって自覚した絵心観に到達するものは、探し方が悪かったのもあるだろうが、出会えなかった。
視覚藝術全般に通じる技術
この知識を念頭に、たとえば写真とかを見直してみても、やはり自分が撮った「これは良い写真だ」と思う写真も、この「文法」に従っていると見ることができる。
そうなのだ。最後の最後でも著者が述べているように、この本の射程は、絵画にとどまらない。
目で観て、脳で理解する、いわば「視覚藝術」全般、つまり、写真や彫刻、建築、工藝、デザインなど、様々な領域に波及する。「スケール」する技術なのだ。そして、その技術を端的に、系統的に鍛えるための題材として絵画に取材している。
たぶん、自分がかつておこなっていた演劇も、きっとそうだったのだ。
演劇を演出する際に、「一瞬を切り取ると一枚の絵画のような舞台」という表現がある。
絵画の文法を意識することで、写真を見るときのよさを知るのは、自分にとっては革命的で、しかもそれが平易に表現されているのはとてもありがたかった。