わたしも今ちょうど読んでいる(読み上げで聞いている)半ばであるものの、圧倒的に面白いので、この好機をみすみす逃す人が減るようにと思ってこの記事を書き始めた。
この本を推す声はほうぼうで目にすることがあった。私も興味があったし、新古書店でも目を光らせていたが、なかなか1,000円をおおきく切ることはなかった。
それが、Kindleの月替わりセールで2021年1月に入り、紙の本が2,090円のところ、549円になった。(1月31日23:59まで)
「逝きし世」とは、江戸期の日本と、民衆の生活(著者はそれを「文明」としている)のことだ。逝ったのは他でもない明治の到来と文明開化、それに先立つ外国人の「文明」の流入のためである。
逝ってしまった、喪われた世のありようは、その内部の人間からはほとんど描写されないことさえある。
実は、そうした過去の復元に、外部の人間すなわち外国人の目から見た記録が必要不可欠だった。
外国人たちの視点はそれ自体がユーモラスである。彼らは、江戸末期日本の民衆が「勤勉でもありながら怠惰」で、ときにスッポンポンで自分たちを見にくる一方、その工芸品は今も一部が伝えられているように上質であったり、度はずれに質素に見えたりすることがあって話題に事欠かないので、見聞録が残っている。そうした記述を著者・渡辺京二は拾い集めつつ、20世紀中の歴史家の見方(それは私自身が中等教育まで歴史を教えられた見方の基盤であっただろう)を丁寧に洗い直していく。
江戸末期に医者として来日したツュンベリーは、同時に分類学の祖リンネに教わった植物学者で、師の体系を普くせんと世界に放たれた「使徒」の1人でもあった。今もなお、日本の植物を発見し学術的に記載した著者として「ツュンベリー」の名が残っている種もある。
私自身が植物学者であるから、(朧げながら)わかるのだが、やはり未知の土地を訪っては、野にいでて草木を検めたいという気持ちで、大ツュンベリーもフィールドワークに出たらしい。そして彼はほぼ信じがたいものを目にすることとなった。
田畑に雑草が残っていない。
百姓が野良仕事の中で田畑をきれいに除草してしまっていた。
これを渡辺は江戸期百姓の勤勉さとして引く。しかし、その時の唖然とした大ツュンベリーの悲哀に私はどうしても心が行く。
これは江戸末期であるが、ではそれ以前の時代を復元することはできるかといえば、やはりそれは外からの目が見聞録として残っているのが江戸末期という、絶妙な時代だったからなのである。人数も多ければ、そもそも安全に海を越えて移動することができるようになったのが近世以後であっただろう。
記録のすべもまた然りである。
いかに今の自分と同じ国土の上で生活しているとは言っても、もうその世、或いは文明といったものは、消えてしまったので、今の我々とは本質的に異なる文明である。その彼我の差を越えて丁寧に復元していく作業がこの本であると言った。
知的営為の中でも、「おのれを離れた存在」を理解しようとすることそのものが尊く価値がある。もっというと、そうした営為を経験するかどうかが「大学」、特に学部教育課程の意義だと私は信仰している。
それは言ってみればなんだっていいのだが、私がそうした視点を教えられたのは、刈谷剛彦『知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ (講談社+α文庫)』であり、ユクスキュル『生物から見た世界 (岩波文庫)』だった。そういうことがUniversity、つまり普遍性への階梯で、俗っぽい言い方をすればこうした本を読むことで自分の頭がずいぶんよくなった(これは、自分が「うわべだけ人間らしきもの」だったのがどうにかやっと中身も人間に近づいた気がした、というほどの意味である)という実感がある。
そういった、「アンパンマーン!! 新しい眼玉よ!!!」とでもいうかのように、スポッと眼球を更新されるような清新な読書体験がこの本にはある。