殺シ屋鬼司令II

世界一物騒な題名の育児ブログです。読書と研究について書いてきました。このあいだまで万年筆で書く快感にひたっていました。当ブログでは、Amazonアフィリエイトに参加してリンクを貼っています。

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普通の生物学者にとって「液-液相分離」とはどう考えたらいいのか

前回はタンパク質三次構造のさわりかたについて書いたのだが、時代は「相分離生物学」の時代に入っている。

thinkeroid.hateblo.jp

2年前にわたしはこう書いていた。

最近の分子生物学では「相分離」という概念が急速に注目されている。らしい。らしい、というのはわたしも同僚が話題にしていて初めて知ったからだ。相分離、生物学で問題になるのは特に「〈液-液〉相分離」ということになる……らしい。

あらゆる分子は、固体・液体・気体のどれかの状態をとっている。これが「相」だ。温度と圧力でどの相になるかが決まる。しかし相のはざまとなる条件では、複数の相がいっしょにあらわれる。ペットボトルの水は0°Cで凍る。このペット氷を机の上に置いておくとだんだん溶ける。でも、この氷の入った水は、氷が溶けきるまでは、0°Cである。つまり、0°Cでこの水は固相と液相が同時に存在している。これも相分離だ。固体と液体の相分離なので、〈固-液〉相分離と……いうことになるのだろう。

正直、専門外すぎて自信がないが、先を続ける。

生物細胞内の分子の挙動は、さまざまな相分離の中でも特に、液-液相分離である。
であるとして、液-液相分離とは一体何か。

生化学に明るい同僚に、「で、相分離て、なんなんですか?」と聞いた。彼は「わかんないですけど……」と前置いて、説明を続けた。

「ちょっとこんなことを考えてるんですよね。とりあえず、溶液の中で分子の濃度を上げていくんですよね。どんどん分子を濃くしていく。例えば食塩だったら、どんどん濃くしていくと、溶液の濃度は一様に高くなるわけです。そうやって濃くしていくとある濃度で飽和して析出してきて、それが飽和溶液ですよね。関係がリニア、線形なんです。でも、生体高分子にはそうじゃなく、飽和に達しなくても凝集するものがあるわけですよ」

「うん、そうですね。典型的にタンパク質とかそうなんでしょうね。大腸菌で発現させてアグるってのはよく聞きますが、そうでなくても、本質的にタンパクの会合ってそういうものか……」

「はい。そういう高分子溶液は、いわば、溶液全体の濃度と、凝集体の近傍の濃度とに差があるわけですよね」

「ああー! そうだ……だからグローバルな濃度を上げていったときに、ローカルな濃度の分布にばらつきが出るんだ。食塩だとそうじゃなくてグローバルな濃度=ローカルな濃度だけど、凝集するような生体高分子だとかならずしもグローバルな濃度がローカルな濃度そのままにならないんだな。そういう分散が高いような状態になることを相分離と考えたらいいのか……なるほど、相分離を完全に理解した」

「よかったですね(ニッコリ)」
渡辺佑基『進化の法則は北極のサメが知っていた』を読んだことと相分離について最近考えたこと - 殺シ屋鬼司令II

いきなり「液液相分離」を「膜のないオルガネラ」「液滴」という表現で考えていても何も分からなかったのだが、敢えて「食塩NaCl」という補助線を深々と差し込むことでイッキに理解しやすくする、さすがの表現だったと思う。というよりそこに、化学を発想のベースに持つひとと、生物学を発想のベースに持つひととの差がある。化学を発想のベースにもつひとは、息をするように分子を換えて考えることができる。そういう意味で、この表現は相分離を考えはじめる、入門するうえでいまでも有効性を決して失っていないと思う。

液液相分離は非常に大事な側面だと思う。ただ、正直なところ、いわゆる三次構造の知見を補完するものだと思う。

たとえていうならこういうことだ。遺伝情報の転写・翻訳に対比させたときのエピジェネティクスや非コードRNAといった生物現象を、この20年ほど熱心にたくさんの研究者が取り組んできた。メインストリームの情報処理過程だけでは説明がつかない、これからは転写や翻訳が一方向だというのは古いんだ、という言い方を時々耳にした。しかし、もちろん極めて重要で価値が減じることはないものの、生物情報処理のメインストリームを全部ご破産にする、というようなことにはならない。

生物情報・現象の階層性からいえば、DNA→RNA→タンパク質(一次構造=配列)→二次構造→三次構造→四次構造、という流れが一応存在して、それに対して補完するような流れがあるよね、ということだ。これは情報がほぼ一対一対応で伝達されていくような、細くて硬い、言い換えれば「フィデリティの高い」流れだと思う。しかし、システムの制御にはそうしたフィデリティの高い流れだけでなく、バルクな、大規模に起きるようなシグナルも必要になる。そうした補完的な役割の余地は少なくない、ということだ。これはどちらがメインでどちらがサブか、ということではなく、システムには両方ともが決定的に重要だと思う。

オートファジーにしたって、それまでの分子生物学史で発見されてきたのは、複製・転写・翻訳といった、ここでいうならフィデリティの高い情報の流れだった。それに対して、オートファジーはかなりバルクな過程として見つかった。考えてみればそうした過程があるのは当然のことだ。日常生活に置き換えて考えてみよう。あなたがなにかのおもちゃが欲しいと思って買いに行く。また別の時には別のおもちゃを買う。また別の……ということが繰り返されるとどんどん家がおもちゃでいっぱいになってしまう。いつか処分せざるを得なくなる。そういう時に、まるごと処分するという方法と、個別に処分するという方法がある。個別に処分するというのは例えばユビキチン化に当たるかも知れない。でも、急に家をきれいにしなくてはいけないというときはどうしたらいいのか? という形で、バルクな過程が必要になることが、簡単に想像できる。


分子生物学の情報処理過程についてだけでなく、進化理論についても、適応進化は古い、これからはXX進化だ……という言い方を目にしたこともある。これはどちらかというと非・専門家の読書人がそういうことをインターネットで書いているのを見たのかもしれない。そのXX進化ももちろん重要だが、適応進化をご破産にするということはなく、相補的な関係だったと思う。少なくとも「そこはeither-orじゃないでしょ……」というのが、正直なところだった。

そういうようなかたちで、40歳、専門課程に上がって20年も読み書きしてくると、いろいろな言説を目にするし、自分も様々な手痛い失敗や変なコミットメントをしてきたものだ。「この問題、XXゼミでやったやつだ!」というほどあからさまではなくても、既視感や、ダブって見えることが増えてくる。

こうしたことを考えていたのだが、先月の学会で元上司と雑談していた時に、これを率直に話してみた。そうすると、いや、最近顕微鏡で相分離を観察しているのだが、本当にこれまで見た生物現象とはぜんぜん違う挙動をする、という感触を元上司から聞いた。

そういうことだと私が考えていることは当たっていないことになるのかな、と一時考えたが、既視感も覚えた。それで考えすすめてみて、「スペクトラム」として考えていくのが落とし所としてよくありそうに思えた。定型的なコンフォメーション・三次構造同士が、ある配向で相互作用して四次構造を取る、というところと地続きな、スペクトラムで考えていくのがスムーズではないか、そのようにして立体構造上のダークドメインを語る語り方が確立しつつある現状ということなのではないか……と。

元上司は、そういうもんなのかなあ? と首を傾げていた。

思うに相分離生物学という考え方は

  1. かっちりした三次構造をとらない領域はただのジャンクではなくそれ自身が液液相分離の場となることがある
  2. タンパク質を構成するアミノ酸有機化学的性質を起点に考えていく化学の知識が重要になる
  3. そのうえで、様々な相互作用を、フィデリティの高いものから、バルクなものまで、スペクトラムで発想して生物・細胞の機能として同定できるようにする

ということを可能にするものなのかなと思った。

わたしが40歳になって間違いを指摘されることを恐れなくなった、というのは前に書いたけど、こういう特定の潮流に対して個人的な感想をオープンにしておくのも無駄ではないかなと思い始めたところがある。