大晦日ということで2021年をふりかえるには適切な日だ。といっても、総ざらいするようなことは考えていなくて、ひとつのことを書き留めておきたいというだけの一節である。
Clubhouseのことである。そこでみたことにおもう自分のきもちをかきしるしておくことも時代のひとつの風景として意義があるだろうとかんがえた。
目次
Clubhouseのバズ
Clubhouseは2021年初頭に突如バズった。音声チャットのサービスである。
部屋を模したグループを一時的に設定して、ユーザが集まり、スピーカーとして設定されたユーザが話し、リスナーとして設定されたユーザはそれを聞く、というものである。
最初はオープンベータというかたちだったか、招待制だった。それで稀少価値のようなものもあった。
私は1月末に友人から招待していただいた。主に作業をしながら聞いていた。そのころ、ちょうど単身赴任状態の生活でもあったので、比較的自由な時間があって、ほぼClubhouseを聞いていた。
いろいろなひとがいろいろなことをしゃべっていたのでおもしろかった。具体的なルーム名は朝は朝活をしているひとがいた。昼は、仕事のいきぬきのひとや、どういう仕事をしているのかよくわからないひとがよくわからないはなしをしていた。
Clubhouseのバズは、3ヶ月もすると寄せた波が返すように終息していった。
定期的な催しを設定したひとたちもいて、そういうひとたちは夏ぐらいまではそのイベントがつづいていた。でもそうした活動も、区切りをつけてやんでいった。
わたしも、友人たちと読書会をした。戸田山和久『哲学入門』を毎週1章ずつよんだ。読書会というより、「読んだんだけどこれどういうことだろうねえ」という相談会に近かったが、そのみちにあかるいひとたちが登壇してくださる幸甚なはこびが出来し、理解がものすごくすすんだ。終結から半年経ってしまったがいつかレポを上げようとおもっているのである。
ほどなくしてわたしは単身赴任状態からひっこし、妻子との生活にもどったので、自由な時間はなくなった。Clubhouseをきいていると家族からとがめられた。
リアルタイムのふれあいへの渇望をまさしく捉えたClubhouse
1年ほどひととの対面のふれあいを剥奪された人類がいかなネットに没入しているとはいえどさすがにバランスをくずしかけていた時期に彗星のように出現したClubhouseはその引力をもってがっちりとひとびとの注目をつかんだ。
読書会をじぶんでひらいてみてもおもったが、半分オープンなスタイルは時代の気分にとてもマッチしていた。
まるでカフェで各自、本を開きながらああでもないこうでもない、としゃべっていたら、「話は聞かせてもらった……」ととなりの席のそのみちにあかるい客が突然はなしかけてきてくれる瞬間があった、といえる。
その後は、既存プラットフォームの強みから、TwitterでのSpaces機能が需要を食っていったとかんがえていいとおもわれる。
往時のTwitterの連想
そうしたオープンさというのはじつはわたしもはじめてのものではなく、当然Twitterがはやりだしたころのことをおもいだしていた。
やはり集団サイズがきわめてちいさいということもあったのだろう、かなり周縁的なひとたちがあつまった。あるいは、ひとびとの周縁性のようなものが色濃く出た。
目の前の(耳だが)ひととの共通したコードというものが最初わからない。まずなにものかがわからない。そもそもアイコンと、わずかばかりのリンクぐらいしかみえない。
だからそこを手探り(耳と口だが)で開拓していく経験になる。
そういうふるまいのなかで、日常をすごしているなかでは絶対に知り合うことのできないかたがたと知り合い話す機会があったことはほんとうに感謝している。
Twitterというサービスもちょうど2007年や2008年ぐらいはそうしたサービスだったなとなつかしくおもいだしてもいた。
よくオフ会がひらかれてわたしも東京にいたこともあって頻繁に参加していた時期がある。
その後、Twitterは311のころに急にネット全体にひろがってしてしまった印象で、そのぶんずいぶん性質を異にした。
昔書いたことはもういまではまったくあてはまらないだろう。
thinkeroid.hateblo.jp
thinkeroid.hateblo.jp
ひらかれた感じと衝突
予期せぬ状況にひらかれたかんじというのは、やはりすごく新鮮だった。
じぶんたちが読んでいたのが哲学の本だったということもあってそのフォロー・フォロワー関係もあって、流れとして哲学を研究するひとたちであるユーザをフォローさせていただいたが、そうした流れは逆に、哲学のひとつのはじまりの古代ギリシアという土地で哲学がはじまったことそれ自体と関連があったのかもしれない、ということも気がついたりした。
つまりアフリカやユーラシアの諸文明が、気候や技術の進展のなかであるていどの段階まできているときに、地理的な結節点として古代ギリシアが存在していたのかもしれない、ということだ。その頃のギリシアにはだから、環地中海世界の諸文明だけでなく東欧・北欧方面、インドや中央アジアからの交易が増すなかで、当然衝突も増えただろうとかんがえられる。そのとききっと、おたがいの文明間のコードの設定を志向する機運がたかまったのだろう。
それはおそらく、ヒトの言語特性のなかでも異質なあの発問形式に象徴される「なぜ」というマヌーバーを、諸文明からの代表者たちのあいだにひきおこすことになったという妄想ををした。