13日に最後の講義が終わったら読もう・書こうと思っていたことがたくさんあったような気がするのだがいざ終わってみると優先順位がぜんぜん立たない。これはもう数ヶ月そうで、いろいろなことをしくじりつづけている。「アタマが悪くなっている」という表現が妥当にも思える。
ただそんな中でも尊いのはいうまでもなく、何をしようか考えることだけでなく、考えて答えが出なかったら何かしてみることで、その待ちリストのなかでも上位にあったのがグレゴリー・ケズナジャット『鴨川ランナー』を読むことだった。
この本の存在はFacebookの友人つながりで知った。取り上げていたのは米国で知り合った友人で、留学生として日本で学んだときに語学クラスで著者のケズナジャット氏と同級となったエピソードを紹介して、『鴨川ランナー』が「京都文学賞」を受賞したということを祝していた。
単にそうしたひとのつながりということを越えて、都合5年、人生のいくつかの局面にまたがって住み、半年前に離れた京都で「走る」ことへの経験と思い入れを懐かしむのと、また、日本語を母語としない著者の作品ということに好奇心がわいたことでためらいなく購入した。
著者のツイッターも発見した。友人が東京都内(現在著者は東京の大学で教員をしている)の書店で、自分の本を見つけるも、「海外文学」の棚にあったということで、当惑の念を表明していた*1。
友人が東京のある書店で『鴨川ランナー』を探していたら海外文学の棚にあったと。最初から日本語で書かれた作品が、海外文学と分類されるのは違うような気がするけど、とはいえ自作が日本文学だ、国文学だとあまり主張したくない。「日本文学」「海外文学」の区別は、現代においてどう決めるのか。
— グレゴリー ケズナジャット (@gwkhez) 2021年11月6日
結果として期待は十分以上に満たされた。
『鴨川ランナー』に収載されているのは、表題作と、「異言(タングズ)」の2作である。どちらも、米国から日本に来た留学生の存在の葛藤を描いている。
日本語を学びたい、いや、日本語を話したい、と思って日本を訪れながら、そこでの自分の役割が、「日本語を話さないヒト」としてのものであることに戸惑う。
まず、現行の中等教育課程を受けた日本人にとって、中学校・高校でティーム・ティーチングの英語ネイティブスピーカー教師の存在はなじみのあるものだと思う。もしくは、わたしは受けたことがないのでわからないが、さまざまな英会話スクールの講師がいる。また、「チャペル」で結婚式をとりおこなう聖職者(役)のひとたちがいる。
『鴨川ランナー』にはこうしたひとたちの目からみた日本という生活が描かれている。
ひとつはそうした職業をなりわいとするひとたちのなかで、『鴨川ランナー』で描かれているような気持ちはおそらく一定数あるだろうというのは想像に難くない。
日本語を母語としない著者の日本語作品という面に関していえばそれは、まごうことなく日本語だった。
読んでほんのごく一部に、なじみのない表現をみつけた。
夕方になると文学科生が集まるカフェへ向かい、最近癖になりつつあるブラックコーヒーとタバコを手に深夜まで新入生特有の飛躍的な議論を交わす。
「飛躍的」という表現は間違いなくある。
また、大学新入生が議論で飛躍しがちなのも周知のことだ。
しかし自分はなぜその大学新入生の議論が飛躍しがちであることを「飛躍的」と表現することにためらいをおぼえるのだろうか?
つまり「飛躍的」という表現が、議論が飛躍するときの飛躍とは別の語義に由来するものであることだといえば話は早い。こういうときは「飛躍に満ちた」というんじゃないかな、と思ったりもする。
だがそれは、誤りというよりも、まぎれもない日本語使用者が自分の経験のなかでごく自然につかみとったまごうかたなき日本語のひとつの語法なのかもしれない、と思った。
存在の葛藤のなかを気持ちがたどる航跡を、著者は明確に表現していて満足な読書を経験した。
*1:そういえばわたしがみた例でいうと「ニンジャスレイヤー」シリーズも海外文学の棚に罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰